隠帝・劉承祐
後漢・五代十国|在位 948–951年
- 諱(本名)
- 劉承祐
- 在位
- 948–951年
- 在位期間
- 2年294日365名中232位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 18歳(数え年)172名中・若い順65位タイ
- 没年齢
- 20歳(数え年)269名中・長寿順237位タイ
- 改元
- 0回
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 4回225名中101位タイ
- 被反乱
- 6回289名中82位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
高祖の第二子として、崩御時の遺制により柩前で即位。
出典: 旧五代史 巻一百一(漢書・隠帝紀上)
死因の経緯
郭威討伐軍からの逃亡中、随行していた側近(飛龍使)郭允明が刺殺。皇帝自身の腹心による弑殺のため暗殺。通鑑攷異には郭威軍による殺害を郭允明の自殺後に押し付けた可能性を示す異説もある。
出典: 旧五代史 巻一百三(漢書・隠帝紀下)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
隠帝(劉承祐)の在位中(乾祐元年2月即位~乾祐3年11月弑殺)を通じて改元は行われていない。年号「乾祐」は父・高祖(劉知遠)の代に既に制定されたもので、旧五代史隠帝紀上の冒頭に『初,高祖欲改年號,中書門下進擬「乾和」二字,高祖改為乾祐,至是與御名相符』とあるとおり、高祖自身が定めた年号がたまたま隠帝の諱「承祐」と同字を含んでいたに過ぎない。隠帝は高祖崩御(乾祐元年正月)後、柩前で即位して以降も乾祐の年号をそのまま継続使用しており(乾祐元年・二年・三年)、即位に伴う新規建元も、在位中の改元も確認できない。二段階即位パターンにも該当しない(王等の身分を経ず、高祖第二子として遺詔により直接皇帝位を継承)。
大赦回数
旧五代史隠帝紀上・中・下(china-history corpus内訳:第三章~第五章)を通読し、daizhigev20/史藏/正史/旧五代史四庫.txt(該当箇所:卷一百一相当部~卷一百三相当部)でも同内容を確認。乾祐2年正月の詔(『応乾祐二年正月一日昧爽已前,天下見禁罪人,除十悪五逆、官典犯贓、合造毒薬、劫家殺人正身外,其餘並放』)は『大赦天下』の文言を用いず、京師の獄囚に限定した恤刑(十悪五逆等の重罪を除外)であり、全国規模の『大赦』とは明記されていないため、本カウントには含めない。乾祐3年(在位最終年、11月に弑殺)には大赦の記事は見当たらない。
立后回数
旧五代史隠帝紀上・中・下には皇后冊立の記事は見当たらない。新五代史 巻三十(漢臣伝第十八・楊邠伝)に『帝欲立所愛耿夫人為后,邠又以為不可;夫人死,將以后禮葬之,邠又以為不可』とあり、隠帝は寵愛する耿夫人を皇后に立てようとしたが枢密使楊邠の反対で果たせず、耿夫人の死後に皇后の礼で葬ろうとした際も再び阻止されたことが記されている。つまり正式な冊立(および死後の追封的な皇后礼遇)はいずれも実現しなかったため、立后0回とする。
皇太子廃立回数
旧五代史隠帝紀上・中・下を通読したが、皇太子(皇太弟・皇太孫を含む)を立てた記事、および廃した記事は見当たらない。隠帝は乾祐元年(948年)2月に17~18歳(数え)で即位し、乾祐3年(950年)11月に数え20歳で弑殺されており、在位期間はわずか約3年弱と短く、また子がいたとする記述も確認できなかった(実子の存在を示す史料は本紀中に見当たらず)。したがって該当なし。
親征回数
旧五代史隠帝紀上・中・下(在位:乾祐元年二月〜乾祐三年十一月)を通読。対等勢力(後蜀・南唐・呉越・湖南馬氏等)との戦争や契丹の侵攻に対しては、いずれも王景崇・趙暉・郭威・慕容彦超ら諸将が派遣されて対応しており、隠帝自身が軍を率いて出征した事例は確認できない。在位末期(乾祐三年十一月)に郭威の来襲に対し帝自ら七里店の軍営に出て陣を構えた記事(「甲申,車駕復出,幸七里店軍營」)があるが、これは自国内の権臣による弑逆クーデター(郭威の乱)への対処であり、対等勢力・外国への遠征ではないためrebellionSufferedCount側で扱い、親征回数には含めない。
反乱鎮圧回数
旧五代史隠帝紀上・中・下を通読。俗に「三鎮の乱」と称される李守貞(河中)・趙思綰(永興)・王景崇(鳳翔)の反乱は、朝廷が節度使として任じていた者たちが皇帝の統治機構下で離反した事例であり、対等勢力間の統一戦争ではないため反乱鎮圧・被反乱の対象とした(首謀者・蜂起地点が3者独立のため3件に分けて計上)。冀州の張廷翰による州刺史殺害・州府奪取(乾祐元年六月)は、朝廷が討伐を行わずそのまま張廷翰を冀州刺史に任じて追認した(原文:「以冀州牢城指揮使張廷翰爲冀州刺史,時廷翰殺本州刺史何行通,自知州事,故有是命」)ため、政権側が鎮圧の主体となった事実がなく本カウントには含めず、rebellionSufferedCountのみに計上した。乾祐三年十一月の郭威の弑逆クーデター(帝が誅殺された事件)は、鎮圧の主体が皇帝側ではなく反乱者側であるため本カウントには含めず、rebellionSufferedCountのみに計上した(基準4)。太子太傅李崧の誅殺(乾祐元年十一月、部曲の誣告による)は実際の挙兵に至っておらず対象外とした。日付は農暦から西暦への換算誤差を考慮し月精度で統一した。
被反乱回数
反乱鎮圧回数の4件(李守貞・趙思綰・王景崇・劉景巖)に加え、政権側が鎮圧行動を取らず追認に終わった冀州張廷翰の兵変(基準2に準ずる)、および皇帝自身が最終的に弑殺された郭威のクーデター(基準4)を合わせて6件とした。隠帝が自ら仕掛けた楊邠・史宏肇・王章の誅殺および郭威・王峻暗殺未遂の先制攻撃自体(相手がまだ反乱を起こしていない段階の攻撃)は基準3により両カウントから除外し、郭威が実際に挙兵して以降の事象のみを計上した。李崧の誅殺(乾祐元年十一月、部曲の誣告のみで実際の挙兵に至らず)は基準(密告・摘発のみで終わった謀反計画は含めない)により対象外。契丹の侵攻(乾祐元年十月・三年十月)や南唐・湖南馬氏等との抗争は、皇帝の統治下にない対等勢力・外国との戦争であり対象外とした。
遷都回数
旧五代史帝紀を通読。高祖期の開封遷都を継承、追加の遷都記録なし。
即位時年齢・没年齢
既存データを再検証し、そのまま採用。旧五代史隠帝紀上に生年月日「唐長興二年,歳在辛卯,三月七日,生帝於鄴都之舊第」の明記あり。隠帝紀下の崩御記事に「郭允明知事不濟,乃剚刃于帝而崩,時年二十」と没年齢が明記されている(数え年)。即位時年齢18は本紀に直接の明記はなく、生年(931年)と即位年(乾祐元年=948年)から数え年で逆算した参考値(950-931+1=20が本文の時年二十と一致することから、数え年方式であることを確認した上で計算)。
在位中の出来事(11件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧948年4月〜949年7月河中李守貞の乱(三鎮の乱の一つ)
首謀者: 李守貞
結果: 鎮圧成功(郭威が河中府を収復、李守貞は自焚死)
乾祐元年三月、河中節度使李守貞が謀叛し潼関を占拠(原文:「西道諸州奏,河中李守貞謀叛,發兵據潼關」)。当初白文珂・常思が討伐にあたったが不十分で、乾祐元年八月に郭威が河中行営を統括し攻囲、乾祐二年七月甲子「郭威奏,收復河中府,逆賊李守貞自燔而死」で鎮圧完了。日付は農暦月換算のため月精度とした。
被反乱948年4月〜949年7月河中李守貞の乱(三鎮の乱の一つ)
首謀者: 李守貞
結果: 反乱側敗北(郭威に河中府を攻略され自焚死)
rebellionSuppressionCountと同一事象。詳細は同項参照。
反乱鎮圧948年5月〜949年8月永興趙思綰の乱(三鎮の乱の一つ)
首謀者: 趙思綰
結果: 鎮圧成功(一旦偽って投降した趙思綰を郭従義が捕らえて処刑)
乾祐元年三月二十四日、永興節度使趙賛麾下の牙兵趙思綰らが赴京途上で反乱を起こし永興城(京兆府)を占拠(原文:「思綰等作亂,突入府城,據城以叛」)。乾祐二年五月に偽って投降を申し出たが、七月に郭従義が入城して趙思綰以下を捕縛・処刑した(原文:「令趙思綰至則執之,與一行徒黨,並處置訖」)。三月二十四日の日付は明記あるが、暦月換算の誤差幅を考慮し月精度とした。
被反乱948年5月〜949年8月永興趙思綰の乱(三鎮の乱の一つ)
首謀者: 趙思綰
結果: 反乱側敗北(偽装投降ののち捕縛・処刑)
rebellionSuppressionCountと同一事象。詳細は同項参照。
被反乱948年7月冀州張廷翰の兵変
首謀者: 張廷翰
結果: 反乱側成功(朝廷が討伐を行わず、張廷翰を正式な冀州刺史に任じて事後追認した)
乾祐元年六月、冀州牢城指揮使張廷翰が同州刺史何行通を殺害して州の統治権を奪い(原文:「時廷翰殺本州刺史何行通,自知州事」)、朝廷はこれに対する軍事的鎮圧を行わず、そのまま張廷翰を冀州刺史に任命して追認した。政権側の鎮圧行動が確認できないため(基準2「未鎮圧」に準ずる扱い)rebellionSuppressionCountには含めず、本フィールドのみに計上した。
反乱鎮圧948年8月〜950年1月鳳翔王景崇の乱(三鎮の乱の一つ)
首謀者: 王景崇
結果: 鎮圧成功(趙暉が鳳翔を収復、王景崇は一族もろとも自焚死)
王景崇は当初は朝廷方として蜀軍・趙思綰討伐に従事していたが、朝廷が趙暉を新たな鳳翔節度使に任じたことに反発し拒命(乾祐元年七月末、原文:「新授鳳翔節度使趙暉奏…時王景崇拒命故也」)、以後独立勢力化した。乾祐三年正月己亥朔の記事「前月二十四日,收復鳳翔,逆賊王景崇舉族自燔而死」により乾祐二年十二月二十四日に鎮圧完了。日付は暦月換算のため月精度とした。
被反乱948年8月〜950年1月鳳翔王景崇の乱(三鎮の乱の一つ)
首謀者: 王景崇
結果: 反乱側敗北(一族もろとも自焚死)
rebellionSuppressionCountと同一事象。詳細は同項参照。
反乱鎮圧949年1月延州劉景巖の反乱
首謀者: 劉景巖
結果: 鎮圧成功(高允権配下の軍が撃破し劉景巖を捕らえて斬首)
乾祐元年十二月、致仕の太子太師劉景巖が郷軍指揮使高志と結んで盗賊を糾合し、延州近隣の城を奪おうと挙兵したが、延州節度使高允権配下の兵に撃破され、劉景巖は捕らえられて斬られた(原文:「劉景巖與郷軍指揮使高志,結集草寇,欲取臘辰窺圖州城…劉景巖果出兵鬥敵,時即殺敗,其劉景巖尋獲,斬之」)。
被反乱949年1月延州劉景巖の反乱
首謀者: 劉景巖
結果: 反乱側敗北(撃破され斬首)
rebellionSuppressionCountと同一事象。詳細は同項参照。
被反乱950年12月25日〜951年1月2日郭威の乱(隠帝弑逆クーデター)
首謀者: 郭威
結果: 反乱側成功(隠帝は逃亡中に側近郭允明に弑殺され崩御)
乾祐三年十一月丙子(950-12-24)、隠帝は枢密使楊邠・侍衛都指揮使史宏肇・三司使王章を誅殺すると同時に、鄴都に密使を送り枢密使郭威・宣徽使王峻の暗殺も指示した(この隠帝側の先制攻撃自体は郭威がまだ反乱を起こしていない段階のため両カウントから除外、基準3)。翌丁丑(950-12-25)、密詔を得た郭威が諸将に推されて挙兵し京師へ南下(原文:「威等當奉行詔旨…請威入朝,以除君側之惡」)、乙酉(951-01-02)に隠帝は逃亡中に随行の郭允明に刺殺された(deathCauseと同一事象)。朝廷内部の軍事権力者(枢密使)による兵力を伴う弑逆クーデターであり、鎮圧の主体が皇帝側でなく反乱者側であるためrebellionSuppressionCountには計上せず、本フィールドのみに計上した(基準4)。
大赦乾祐元年二月十三日即位後初の大赦。
即位後初の大赦。癸巳の日に「大赦天下,自乾祐元年二月十三日昧爽已前,所犯罪人,已結正未結正、已發覺未發覺、常赦所不原者咸赦除之」と発令。中外文武臣僚に加恩、馬歩将士に優給を賜い、唐・晋両朝の求訪子孙を二王後に立てた。
出典: 旧五代史 巻一百一(漢書・隠帝紀上)