隠帝の人物データ
- 生年
- 931年3月28日
- 在位
- 948年3月14日〜951年1月2日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 950年11月22日まで
- 没年
- 951年1月2日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 950年11月22日)20歳(数え年)長生き順同率234位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 姓劉諱承祐呼び名の見方
出典
- 在位
- 旧五代史・
漢書・ 隱帝紀上中下(隱帝紀上:即位/隱帝紀下:崩) - 死因
- 旧五代史 巻一百三(漢書・
隠帝紀下) - 即位経路
- 旧五代史 巻一百一(漢書・
隠帝紀上)
生涯
どんな皇帝か
旧五代史の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、古来宗廟君主や王家が祖先をまつるところを覆し祭祀を絶つ速さで隠帝に及ぶ者はないと評した。
即位まで
後漢の高祖劉知遠の第二子で、母は李太后である。即位前は目がひきつり唾や洟が止まらなかったが、即位するとそれが消え、内乱が起こる頃にまた戻った。兄の承訓が死に、948年に父が没すると、遺制亡くなった皇帝の名で出される命令の文書により柩の前で即位した。
治世と最期
即位するとすぐ河中の李守貞らが叛き、949年に郭威が河中を落とした。怪異が続くと司天監天体を観測し暦や吉凶を扱う役所、またその長の趙延乂に払いの方法を問うた。
郭允明や李業らと遊び戯れ、母の李太后に責められると、国家のことは外に朝廷がある、太后の口出しすべきことではないと言った。重臣の楊邠には、陛下は黙っていてください、臣がおりますと言われ、寵愛する耿夫人の立后も退けられて大いに怒った。大臣に制されるのを厭って讒言をいくらか信じ、鍛冶の音に兵が来たかと疑って眠れなかった。重臣を除くと太后に告げ、宰相にも問えと言われると、傍らの李業が口を挟み、太后が重ねて言うと、閨門女性が暮らす家の奥。家庭の内側の内で国家のことが分かろうかと言い、衣を払って出た。
950年、楊邠・史弘肇・王章を殺して一族を滅ぼし、同日、鄴都へ密詔皇帝や太后がひそかに出した命令を送って郭威を殺させようとした。郭威が兵を向けると大いに恐れ、宰臣君主を助けて政治を取りしきる大臣に先日のことは軽率だったと言った。太后は詔で諭せば郭威は申し開きをすると止めたが、帝は聞かずに出て、劉子陂で味方が敗れた。翌日、逃げ込んだ民家で殺された。
史料について
趙延乂の答えを、旧五代史と資治通鑑は修徳を説いたとし、新五代史の李業伝は山魈山にすむとされた化け物だろうと答えたとする。太后の制止を、資治通鑑は敗戦の前に置き、新五代史の李太后伝は敗れたのちとする。両五代史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は、帝の出陣を敗戦の前に置く。殺したのを、両五代史は郭允明とし、資治通鑑は乱兵とする。考異は、弑した者が誰か分からないので乱兵と書いたとする。
隠帝とつながる皇帝

勢力図
五代十国の勢力図で見る
948–950年の地図に、隠帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱6・大赦1
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。948年3月26日即位後初の大赦。
- 反乱948年4月〜949年7月河中李守貞の乱(三鎮の乱の一つ)
- 反乱948年5月〜949年8月永興趙思綰の乱(三鎮の乱の一つ)
- 反乱948年7月冀州張廷翰の兵変
- 反乱948年8月〜950年1月(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 949年12月)鳳翔王景崇の乱(三鎮の乱の一つ)
- 反乱949年延州劉景巖の反乱
- 反乱950年12月25日〜951年1月2日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 950年11月22日)郭威の乱(隠帝弑逆クーデター)
後漢・五代十国の歴代皇帝
歴代2人の一覧- 第1代高祖947–948年病死
- 第2代隠帝948–950年暗殺
年表
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