太祖・郭威
後周(五代十国)|在位 951–954年

- 諱(本名)
- 郭威
- 在位
- 951–954年
- 在位期間
- 3年10日365名中222位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 48歳(数え年)172名中・若い順155位タイ
- 没年齢
- 51歳(数え年)269名中・長寿順80位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
隠帝討伐の軍事行動の末、澶州で自軍将兵に黄旗を体に纏わされ皇帝に推戴された(後の陳橋兵変の先例)。さらに太后の詔で一旦漢の後継者に定められていた劉贇(湘陰公)を即位後に殺害しており、正統な後継候補を排除した上での帝位奪取のため簒奪と判定。
出典: 旧五代史 巻一百十(周書・太祖紀一)
死因の経緯
南郊祭祀前後より病状が悪化・寛解を繰り返し、崩御直前まで柴栄に山陵の簡素化などを遺言していた。
出典: 旧五代史 巻一百十三(周書・太祖紀四)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位中の改元は広順→顕徳の1回のみで、即位建元と合わせ計2回。国号を「漢」から「周」に変えたのは国号変更であり改元とは別事象として区別した。
大赦回数
広順二年五月壬午の兗州平定後「曲赦兗州管内罪人」(旧五代史巻一百十二〔周書・太祖紀三〕)は兗州管内に限定された曲赦、広順三年三月甲申(誤記は要確認、新五代史では二年五月癸亥)の「赦流罪以下囚」も罪種を限定した恩赦であり、いずれも全国規模の大赦ではないため対象外とした。
立后回数
在位中に生前の皇后として正式冊立された者はいない。広順元年八月戊午、既に死去していた夫人柴氏(聖穆皇后)を「追立為皇后」としたが(旧五代史巻一百十一〔周書・太祖紀二〕「故夫人柴氏追立為皇后、仍令所司定謚、備礼冊命」)、これは即位前に没した夫人への没後の追封であり生前の正式冊立ではないため本カウントには含めない(五胡十六国・後燕慕容熙の苻氏追諡皇后と同様の扱い)。夫人董氏は広順元年四月甲午に德妃へ冊立されたのみで皇后には至らず、顕徳元年六月癸卯に薨じている。皇后不在のまま崩御したため count は0とした。
皇太子廃立回数
在位期間(広順元年~顕徳元年)を通じて、皇太子・皇太弟等の法定推定継承者を正式に立てた記事自体が見当たらず、廃立の記事もない。顕徳元年三月甲申、養子(甥)柴栄を晋王に封じ開封尹・判内外兵馬事として後継者の地位を与えているが(旧五代史巻一百十三〔周書・太祖紀四〕)、皇太子号は用いられていない。立太子がないため廃立も0件と判定。
親征回数
在位期間(広順元年正月〜顕徳元年正月)を通じて太祖自身が軍を率いて出征した事例は兖州(慕容彦超)討伐の1件のみ。徐州(巩廷美・杨温)討伐は新任節度使王彦超に委ね自身は出征せず。河東(北漢劉崇、独立の対等勢力=十国)・契丹の侵攻対応はいずれも諸将(王晏・王峻・郑仁诲・折従阮ら)派遣で対応しており太祖自身の出陣は確認できない(広順元年十二月、劉崇入寇に伴い西京への一時的な行幸を計画したが実行前に取り止め)。湖南(楚)諸勢力の内紛・淮南(南唐)との交戦は不介入(通信のみ)。即位前(後漢の臣下時代)の李守貞・趙思綰・王景崇「三叛」討伐(自ら出征)はaccessionRoute領域(即位前の軍事行動)として対象外とした。
反乱鎮圧回数
在位期間(広順元年正月〜顕徳元年正月)を通じ、服属する節度使・将佐による拠城拒命・反乱は徐州(巩廷美・杨温)・兖州(慕容彦超)の2件。河東(北漢劉崇)・契丹・湖南(楚)諸勢力・淮南(南唐)は独立の対等勢力/外国(五代十国の統一戦争・外征に相当)であり対象外とした。鄴都留守王殷の削官・流罪・賜死(顕徳元年十二月)、枢密使王峻の左遷(広順三年二月)は、原文に挙兵・武力行使を示す記述がなく、太祖側からの政治的粛清と判断し対象外とした(基準3に準ずる)。即位前(後漢の臣下時代)に太祖自身が討伐にあたった李守貞・趙思綰・王景崇の「三叛」はaccessionRoute領域(即位前の軍事行動)として対象外。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同一の2件(徐州・兖州)。除外事案: 鄴都留守王殷の削官・流罪・賜死(顕徳元年十二月)、枢密使王峻の左遷(広順三年二月)はいずれも実際の兵力行使(挙兵)を伴わない政治的粛清であり、原文にも反乱・拒命を示す記述がないため対象外とした(挙兵前の摘発扱い)。即位前(後漢の臣下時代)の三叛(李守貞・趙思綰・王景崇)への対応、および即位に至る隠帝討伐・湘陰公殺害はaccessionRoute領域として対象外。河東(北漢)・契丹・湖南(楚)・淮南(南唐)は独立の対等勢力/外国であり本カウント対象外。
遷都回数
旧五代史帝紀を通読。後漢の都・開封をそのまま継承、在位中を通じて遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
既存データを再確認し踏襲。旧五代史巻一百十(周書・太祖紀一)「後以唐天祐元年甲子歳七月二十八日、生帝於堯山之旧宅」と生年月日が直接記載。旧五代史巻一百十三(周書・太祖紀四)「是日巳時、帝崩於滋德殿、聖壽五十一」と没年齢(数え年51歳)が直接記載。即位時年齢48歳は生年(904)と即位年(広順元年=951年)から数え年で逆算(951-904+1=48)。
在位中の出来事(9件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧951年2月〜951年3月徐州拒命の乱
首謀者: 巩廷美・杨温
結果: 鎮圧成功(王彦超が徐州を収復、首謀者杨温ら処斬)
広順元年正月丙子(即位から十日弱後)、湘陰公(劉贇)の元従右都押衙巩廷美・教練使杨温らが徐州に拠って新朝への服属を拒否した(『據徐州以拒命』)。太祖は新任の徐州節度使王彦超に討伐を命じ(自身は出征せず)、広順元年三月、王彦超が徐州を収復。首謀者杨温らは処斩されたが、脅従者・城内の軍民・湘陰公の遺族は赦免された。旧五代史巻一百十(周書・太祖紀一)・巻一百十一(太祖紀二)。
被反乱951年2月〜951年3月徐州拒命の乱
首謀者: 巩廷美・杨温
結果: 反乱側敗北(王彦超が徐州を収復、首謀者杨温ら処斬)
rebellionSuppressionCountと同一事象。詳細は同項参照。
改元951年2月13日即位に伴う建元(改元同時)。
即位に伴う建元(改元同時)。広順元年正月丁卯、即位して国号を大周(周)と定め、後漢の乾祐四年を改めて広順元年とした。旧五代史巻一百十(周書・太祖紀一)「今建国宜以大周為号、可改漢乾祐四年為広順元年」、新五代史巻十一(周本紀第十一)「皇帝即位、大赦、改元、国号周」。郭威は皇帝を称する前は後漢の臣(枢密使・監国)であり、皇帝ではない身分での改元は行っていないため2段階即位パターンには該当しない。
出典: 旧五代史 巻一百十(周書・太祖紀一)/新五代史 巻十一(周本紀第十一)
大赦951年2月13日即位に伴う大赦(改元同時)。
即位に伴う大赦(改元同時)。広順元年正月丁卯、即位・改元・国号周と同日に大赦を布告。新五代史巻十一(周本紀第十一)「皇帝即位、大赦、改元、国号周」と明記。旧五代史巻一百十(周書・太祖紀一)には赦の内容として「自正月五日昧爽已前、応天下罪人、常赦所不原者、咸赦除之」とある。
出典: 新五代史 巻十一(周本紀第十一)/旧五代史 巻一百十(周書・太祖紀一)
反乱鎮圧951年12月〜952年6月兖州節度使慕容彦超の反乱
首謀者: 慕容彦超
結果: 鎮圧成功(太祖親征により兖州陥落、慕容彦超自殺、一族誅滅)
広順元年十二月戊申、兖州節度使慕容彦超が拠城拒命(『郓州奏、慕容彦超據城反』)。太祖は当初曹英・向訓・薬元福らを討伐に差し向けたが、広順二年五月に太祖自身が親征(personalCampaignCountと同一事象)し、五月乙亥に兖州を陥落させ慕容彦超を斬り一族を滅ぼした。旧五代史巻一百十二〜一百十三(周書・太祖紀三・四)。
被反乱951年12月〜952年6月兖州節度使慕容彦超の反乱
首謀者: 慕容彦超
結果: 反乱側敗北(太祖親征により兖州陥落、慕容彦超自殺、一族誅滅)
rebellionSuppressionCountと同一事象。詳細は同項参照。
親征952年6月慕容彦超(兖州節度使の反乱)
対象: 慕容彦超(兖州節度使の反乱)
結果: 勝利(兖州陥落、慕容彦超は自殺、一族誅滅)
広順二年五月庚申、太祖自ら車駕を発して京師を出発し親征(『車駕発京師』)。戊辰に兖州城下に至り、乙亥(在陣わずか九日)に兖州を陥落させ慕容彦超を斬り一族を滅ぼした。帰途、曲阜の孔子廟・孔林に立ち寄り、六月に京師へ凱旋(『車駕至自兖州』)。旧五代史巻一百十二〜一百十三(周書・太祖紀三・四)。
改元954年2月6日在位中の改元。
在位中の改元。顕徳元年正月丙子朔、南郊祭祀の日に「大赦天下、改広順四年為顕徳元年」と改元。旧五代史巻一百十三(周書・太祖紀四)、新五代史巻十一「有事於南郊、大赦、改元」。この17日後の同月壬辰(954年2月22日)に崩御した。
出典: 旧五代史 巻一百十三(周書・太祖紀四)/新五代史 巻十一(周本紀第十一)
大赦954年2月6日南郊祭祀に伴う大赦(改元同時)。
南郊祭祀に伴う大赦(改元同時)。顕徳元年正月丙子朔、南郊で祭祀を行い「大赦天下、改広順四年為顕徳元年」と宣制。新五代史巻十一「有事於南郊、大赦、改元」とも明記。
出典: 旧五代史 巻一百十三(周書・太祖紀四)/新五代史 巻十一(周本紀第十一)