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高祖の肖像画

後晋(五代十国)第1代

高祖石敬瑭

在位 936–942年(5年242日)936年11月28日 〜 942年7月28日

日本は平安時代

契丹の助けで後唐を倒し、契丹にされて後晋を開いた皇帝である。

高祖の人物データ

生年
892年3月30日
在位
  • 936年11月28日〜942年7月28日
5年242日長い順171位/365人45歳で即位(数え年)
没年
942年7月28日51歳(数え年)長生き順同率79位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
—
次代
  • 少帝後晋少帝は高祖の養子
呼び名
姓石諱敬瑭呼び名の見方
目立つ記録
  • 遷都 1回多い順同率9位

出典

在位
旧五代史 晋書・高祖紀一(即位)/晋書・高祖紀六(崩御)
死因
旧五代史 巻八十(晋書・高祖紀六)
即位経路
新五代史 巻九(晋家人伝)/旧五代史 巻四十八攷証

生涯

どんな皇帝か

旧五代史のは、政務に励み賢者を礼して諫めに従ったと称える一方、強い隣国の援けを受けたために契丹が盛んになり、民が災いを被ったと書く。

即位まで

892年に太原で生まれ、沈着淡泊で口数も笑いも少なく、兵法を読んだ。明宗に見込まれてその娘を妻とした。916年、梁軍に急襲されると十余騎で深く突入して部隊を全うし、荘宗に背を撫でられて名を知られた。934年、洛陽を逃れた閔帝に衛州の近くで会った。閔帝の左右が石敬瑭を害そうとして、閔帝に従っていた者たちが殺された。石敬瑭は閔帝を残して去り、閔帝はまもなく潞王に殺された。936年、後唐の末帝に移鎮を命じられると拒み、晋陽を囲まれると契丹に援けを求めた。契丹主は唐軍を破り、石敬瑭の手を執って父子の義を論じた。同じ年、契丹主に冊立されて大晋皇帝となり、北の諸州を契丹に割き、毎年帛を贈ると約した。

史料について

閔帝の従者を、旧五代史の閔帝紀と新五代史の晋は石敬瑭が殺したとし、両書の後漢高祖の本紀と資治通鑑は劉知遠が殺したとし、旧五代史の高祖紀は捕らえたとする。高祖紀は、石敬瑭が後々までこれを恥じたと書く。割いた地を、旧五代史の高祖紀は雁門以北と幽州の地とし、新五代史と資治通鑑は十六州とする。

治世と最期

後唐の末帝が自ら火を放って死ぬと、その晩洛陽に入った。937年、魏府の范延光が叛き、呼応した張従賓に皇子の重信らを殺された。契丹主は臣と称さず上表もせずとだけ言うよう求め、石敬瑭は金帛を厚く贈って謝し、譴責されるたびに己を屈して奉じた。

942年、病で朝に臨むのが難しくなった。病床で幼い子の重睿を馮道に拝させ、に抱かせて馮道の懐に置かせた。没すると、大臣は国の多難を理由に年長の君を立てると議し、斉王重貴が即位した。

史料について

病の起こりを、資治通鑑は契丹に責められて憂い悩んだ後と並べ、旧五代史の注が引く契丹国志はそれで病になったとする。重貴の即位を、旧五代史の本紀はによるとし、新五代史は景延広がひそかに重貴の擁立を約していたので重睿は立たなかったとする。

高祖とつながる皇帝

五代十国の勢力図(936年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

936–942年の地図に、高祖が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱11・遷都1・改元1・大赦4
  1. 改元936年11月30日元号を「天福」とする
  2. 936年11月30日
  3. 937年
  4. 反乱937年秘瓊の乱(鎮州)
  5. 反乱937年門鐸の乱(同州)
  6. 反乱937–938年範延光の乱
  7. 反乱937年張従賓の乱
  8. 反乱937年符彦饒の乱
  9. 反乱937年安州軍乱(王暉の乱)
  10. 938年
  11. 遷都938年西京(洛陽) → 東京(開封)
  12. 反乱939年王彦忠の乱(懐遠城)
  13. 反乱940年河中軍校の乱
  14. 反乱940年李金全の乱(安州)
  15. 941年鄴都に移った直後に、常赦で許さない罪まで含めて赦を下した。
  16. 反乱941年安従進の乱(襄州)
  17. 反乱942年1月( 941年12月)〜942年2月安重栄の乱(鎮州)

後晋の歴代皇帝

歴代2人の一覧

年表

五代十国の時代を年表で見る

後晋が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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