高祖・石敬瑭
後晋(五代十国)|在位 936–942年

- 諱(本名)
- 石敬瑭
- 在位
- 936–942年
- 在位期間
- 5年243日365名中173位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 45歳(数え年)172名中・若い順148位タイ
- 没年齢
- 51歳(数え年)269名中・長寿順80位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 3回267名中121位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 9回225名中45位タイ
- 被反乱
- 11回289名中43位タイ
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
後唐末帝への挙兵反乱ではあるが、即位の直接契機・正統性は契丹(耶律徳光)による擁立にある。新五代史「高祖為契丹所立」、旧五代史攷証「戎王立石敬瑭爲大晉皇帝」と明記。簒奪的側面(後唐からの帝位簒取)も併存するため確信度medium。
出典: 新五代史 巻九(晋家人伝)/旧五代史 巻四十八攷証
死因の経緯
契丹が吐谷渾の帰順受け入れを詰責し、憂悒(憂慮)から発病。「帝不豫,難於視朝」を経て崩御。
出典: 旧五代史 巻八十(晋書・高祖紀六)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
高祖紀一〜六(旧五代史巻七十五〜八十)を通読したが、即位建元(天福)以外の改元記事は見当たらなかった。巻八十(高祖紀六)末尾の史臣曰の割注にも「其年晉祖即位、改元天福元年」とあるのみで、在位中の再改元は確認できない。天福の元号は高祖崩御後、少帝(出帝)の代も継続し、開運への改元は少帝期(天福七年六月即位後)のことである。
大赦回数
旧五代史高祖紀一〜六(巻七十五〜八十)を通読し「大赦天下」と明記された箇所のみを抽出した。天福二年四月・同年八月にも「見禁囚徒…並釈放」等の恩赦的詔勅があるが、「大赦」の語を用いていないため対象外とした。
立后回数
高祖の正妻は後唐明宗の娘・李氏(永寧公主、のち魏国長公主)で、高祖即位後は「皇后」と呼ばれてはいる(旧五代史巻八十・高祖紀六「太妃・皇后至自東京」等)が、正式な冊立(册礼)は行われなかった。新五代史巻十七(晋家人伝・高祖皇后李氏)に明記:「高祖即位、公主當為皇后…高祖以宗廟未立、謙抑未遑。七年夏五月、高祖已病、乃詔尊太妃為皇太后、然卒不奉冊而高祖崩、故后訖高祖世亦無冊命」とあり、高祖の在位中を通じて李氏は一度も正式に皇后として冊立されなかったことが明記されている。よってcount=0(皇后不在に準ずる扱い)とした。
皇太子廃立回数
高祖石敬瑭の在位中(936-942)に正式な皇太子冊立の記録は確認できなかった。旧五代史巻七十七(高祖紀三)天福三年十二月丙子条に「以皇太子右金吾衛上將軍重貴為檢校太傅、開封尹、封鄭王」とあるが、この「皇太子」の語は新五代史巻十七(晋家人傳)の同時期記事「十二月丙子、封子重貴為鄭王」(単に「子」と記す)や、欧陽脩の史臣曰(同巻)「重貴書子可也…出帝於高祖、得為子而不得為後者、高祖自有子也」という明確な論評(重貴は高祖の実子ではなく甥養子であり、高祖に実子〔重睿〕がいたため正式な「後」=皇太子には立てられなかった旨)と矛盾する。重貴は郑王・のち斉王に封じられたのみで、皇太子として冊立された記録はなく、高祖臨終時も幼い実子重睿を馮道に託した(重貴は没後に景延広らの擁立で即位)。したがって皇太子廃立の事実はなく、count=0とした。
親征回数
旧五代史高祖紀二〜六(巻七十六〜八十、在位期間936年11月〜942年6月)を通読したが、即位後に高祖自身が軍を率いて出陣した記事は見当たらない。範延光・張従賓・符彦饒・王暉・王彦忠・安州軍乱・李金全・安従進・安重栄の各反乱鎮圧はいずれも楊光遠・杜重威・侯益・馬全節・高行周ら将軍を派遣して対処しており、皇帝自身の親征は行われていない。天福三年六月の張従宾の乱の際、帝は一時「戎服、厳軽騎、将奔晋陽以避之」(晋陽へ逃れようとした)が、桑維翰の諫言で「帝乃止」(出発前に中止)となり、実際には出陣していない。即位前の後唐末帝への挙兵(936年、契丹の支援を受けた建国戦)はaccessionRoute領域のため対象外とした。契丹・後蜀等との関係も朝貢・臣従関係が中心で、在位中に対外遠征は確認できなかった。count=0とした。
反乱鎮圧回数
在位中(天福元年11月〜天福七年6月)に確認できた節度使・将軍・軍校クラスの武装反乱9件を計上した。範延光・張従賓・符彦饶・王暉の4件は天福二〜三年にかけて連鎖的に発生した一連の政変だが、首謀者・蜂起地点が独立しているため個別に計上した。安従進の乱は高祖崩御時点で鎮圧未完了だが、鎮圧軍がすでに派遣・交戦中であったため(成否を問わない規則により)suppressionにも計上した。rebellionSufferedCountとの差分(2件)は、鎮州衙内都虞候秘琼・同州小校門鐸による下位者の武装蜂起で、朝廷側による軍事鎮圧の記録が確認できないため(詳細はrebellionSufferedCountのnote参照)。
被反乱回数
在位中に高祖側が被った武装反乱11件を計上(rebellionSuppressionCountの9件+秘琼・門鐸の下位者による武装蜂起2件)。秘琼・門鐸の2件は朝廷側の軍事鎮圧が史料上確認できないためsuppressionには含めなかったが、皇帝の統治機構下にある武装官吏による反乱としてsufferedには計上した。天福二年七月に呉越国内で発生した銭元球の謀反未遂(呉越が自ら誅殺し事後報告のみ)は、後晋皇帝自身に対する反乱ではなく十国側の内部事件のため対象外とした。天福六年正月の同州指揮使成殷の謀反計画は挙兵前に密告・摘発され「事泄伏誅」で終わったため対象外とした(実際の兵力行使に至らない謀反計画は不計上)。天福四年十月の谿州蛮部・金州山賊等の記事は地方の異民族侵寇・山賊であり、朝廷の統治機構内の官吏・将軍による反乱ではないため対象外とした。
遷都回数
在位中に遷都1回(0938年 西京(洛陽)→東京(開封))。
即位時年齢・没年齢
旧五代史巻七十五(高祖紀一)冒頭に「帝即孝元之第二子也、以唐景福元年二月二十八日生於太原汾陽里」とあり生年月日が明記される。旧五代史巻八十(高祖紀六)末尾、天福七年六月条に「乙丑、帝崩於保昌殿、壽五十一」とあり崩御時年齢(数え年)が明記される。即位時年齢の直接記載は見当たらないが、生年(892年)と即位年(天福元年=936年)から数え年で逆算すると45歳(936-892+1)となり、崩御時年齢51歳(942-892+1)と矛盾なくクロスチェックできる。既存データをそのまま踏襲しaccessionAgeを補完した。
在位中の出来事(25件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
被反乱936年12月秘琼の乱(鎮州)
首謀者: 秘琼(鎮州衙内都虞候)
結果: 副使李彦琦を逐い都指揮使胡章を殺害して蜂起。朝廷による軍事鎮圧の記録はなく、その後斉州防御使に任じられる形で事実上黙認された。天福二年正月、範延光の意を受けた者に暗殺された(朝廷側の鎮圧ではない)。
旧五代史高祖紀二(天福元年十二月「鎮州衙内都虞候秘琼作乱、逐副使李彦琦、殺都指揮使胡章」)、紀三(天福二年正月「魏府範延光奏:当管夏津鎮捕賊兵士、誤殺却新斉州防御使秘琼」)。朝廷側の鎮圧行動が確認できないためrebellionSuppressionCountには含めていない。
被反乱936年12月門鐸の乱(同州)
首謀者: 門鐸(同州小校)
結果: 節度使楊漢賓を殺害し州城を焼劫。以後の経過・鎮圧の記録は確認できない。
旧五代史高祖紀二(天福元年十二月「同州小校門鐸殺節度使楊漢賓、焼劫州城」)。その後の記事に続報が見当たらず、朝廷側の鎮圧が行われたか不明のためrebellionSuppressionCountには含めていない。
反乱鎮圧937年6月〜938年9月範延光の乱
首謀者: 範延光(天雄軍節度使、魏博・鄴都)
結果: 楊光遠を招討使として派遣し鄴都を包囲。天福三年九月に範延光が投降・帰命し、赦されて官爵を復した(のち天福五年八月病没)。
旧五代史高祖紀二(天福二年六月「延光叛命」)〜紀三(天福三年九月「復範延光官爵」)に経過が詳細に記される。
被反乱937年6月〜938年9月範延光の乱
首謀者: 範延光(天雄軍節度使、魏博・鄴都)
結果: 楊光遠の包囲を受け天福三年九月に投降・帰命し赦免された。
rebellionSuppressionCountと同一事象(詳細は同項参照)。
反乱鎮圧938年6月〜938年7月張従賓の乱
首謀者: 張従賓(東都巡検使、範延光と結託)
結果: 汜水関を攻め皇子重信・重乂を殺害したが、杜重威・侯益らに敗れ、残党とともに黄河に投じて死亡。
旧五代史高祖紀三(天福三年六月「従宾亦叛」、七月「収下汜水関、破賊千人、張従宾及其残党奔投入河」)。
被反乱938年6月〜938年7月張従賓の乱
首謀者: 張従賓(東都巡検使、範延光と結託)
結果: 汜水関を攻め皇子重信・重乂を殺害したが、杜重威・侯益らに敗れ黄河に投じて死亡。
rebellionSuppressionCountと同一事象(詳細は同項参照)。
反乱鎮圧938年7月符彦饒の乱
首謀者: 符彦饒(滑州節度使)
結果: 侍衛馬軍都指揮使白奉進を殺害して挙兵したが、部下に捕らえられ、護送中に賜死。
旧五代史高祖紀三(天福三年七月「滑州節度使符彦饒作乱、屠害侍衛馬軍都指揮使白奉進…寻以所部兵擒到彦饒…賜死于路」)。
反乱鎮圧938年7月安州軍乱(王暉の乱)
首謀者: 王暉(安州指揮使)
結果: 節度使周瑰を殺害して挙兵。朝廷は李金全を派遣し鎮定、以後李金全が安州節度使となった。
旧五代史高祖紀三(天福三年七月「安州軍乱、指揮使王暉害節度使周瑰於理所。遣右衛上将軍李金全領千騎赴安州」、八月の大赦詔に「安州王暉徒党、除已誅戮外、並従釈放」とあり鎮圧・誅戮が確認できる)。
被反乱938年7月符彦饒の乱
首謀者: 符彦饒(滑州節度使)
結果: 白奉進を殺害するも捕らえられ賜死。
rebellionSuppressionCountと同一事象(詳細は同項参照)。
被反乱938年7月安州軍乱(王暉の乱)
首謀者: 王暉(安州指揮使)
結果: 節度使周瑰を殺害するも李金全により鎮定・誅戮された。
rebellionSuppressionCountと同一事象(詳細は同項参照)。
遷都938年10月西京(洛陽) → 東京(開封)
『旧五代史』高祖紀三:天福三年十月庚辰の詔に「今汴州水陆要冲,山河形胜……俾升都邑,以利兵民。汴州宜升为东京,置开封府……其洛京改为西京」とあり、正式に開封を東京(首都)、洛陽を西京(陪都)とする遷都の詔が確認できる。石敬瑭は936年建国当初、後唐の旧都洛陽をそのまま都としていた(建国時の定都のため対象外)が、この天福三年十月の詔により開封へ遷都。『旧五代史』王彦章伝にも「及晋高祖迁都夷门」(夷門は開封の異称)とあり同事実を裏付ける。以後、後晋滅亡(947年)まで開封が首都。(出典: 旧五代史 高祖紀三(天福三年十月)/王彦章伝)
反乱鎮圧939年3月王彦忠の乱(懐遠城)
首謀者: 王彦忠(霊州戍将)
結果: 懐遠城に拠って反乱したが、朝廷の使者到着後に投降。ただし使者の齊延祚が独断で彦忠を殺害したため、帝は齊延祚を除名・杖刑・配流に処した。
旧五代史高祖紀四(天福四年三月「霊州戍将王彦忠拠懐遠城作叛、帝遣供奉官齊延祚乗駅而往、彦忠率衆出降、延祚矯制殺之」、以下処罰の詔)。
被反乱939年3月王彦忠の乱(懐遠城)
首謀者: 王彦忠(霊州戍将)
結果: 投降するも勅使に殺害され、帝が事後に勅使を処罰。
rebellionSuppressionCountと同一事象(詳細は同項参照)。
反乱鎮圧940年1月河中軍校の乱
首謀者: 康従受・李崇・孫大裕・張崇・于千ら(河中軍校)
結果: 河中節度使安審信の部下軍校らが所部の兵で反乱、速やかに鎮圧され戦死者500人。
旧五代史高祖紀五(天福五年正月「河中節度使安審信奏:軍校康従受、李崇、孫大裕、張崇、于千等以所部兵為乱、尋平之、死者五百人」)。
被反乱940年1月河中軍校の乱
首謀者: 康従受・李崇・孫大裕・張崇・于千ら(河中軍校)
結果: 速やかに鎮圧、戦死者500人。
rebellionSuppressionCountと同一事象(詳細は同項参照)。
反乱鎮圧941年5月〜941年7月李金全の乱(安州)
首謀者: 李金全(安州節度使)
結果: 馬全節を派遣して討伐。李金全は淮南(南唐)へ逃亡し、南唐の援軍(李承裕)も撃退・捕殺した。
旧五代史高祖紀六(天福六年五月「安州節度使李金全叛」、以下馬全節による討伐・淮南援軍撃退の経過)。
被反乱941年5月〜941年7月李金全の乱(安州)
首謀者: 李金全(安州節度使)
結果: 淮南(南唐)へ逃亡、援軍も撃退された。
rebellionSuppressionCountと同一事象(詳細は同項参照)。
反乱鎮圧941年11月安従進の乱(襄州)
首謀者: 安従進(襄州節度使)
結果: 高行周を都部署として派遣し攻囲・部分的勝利(弟安従貴の生擒等)を収めたが、高祖崩御(天福七年六月)の時点でなお襄州は包囲下にあり、完全鎮圧には至らなかった(最終的な討滅は次帝出帝の代)。
旧五代史高祖紀六(天福六年十一月「襄州安従進挙兵叛」)〜紀七(天福七年六月「襄州都部署高行周奏、安従進観察判官李光図出城請援、送赴闕。乙丑、帝崩」)。鎮圧は在位中に着手・継続していたため、成否を問わずrebellionSuppressionCountに計上した。
被反乱941年11月安従進の乱(襄州)
首謀者: 安従進(襄州節度使)
結果: 高祖崩御(天福七年六月)時点で襄州は包囲下にあり未鎮圧のまま在位終了。最終的な討滅は次帝出帝の代。
rebellionSuppressionCountと同一事象(詳細は同項参照)。
反乱鎮圧941年12月〜942年1月安重栄の乱(鎮州)
首謀者: 安重栄(鎮州・成徳軍節度使)
結果: 杜重威を招討使として派遣し討伐。天福七年正月、鎮州を収復し安重栄を斬首。
旧五代史高祖紀六(天福六年十二月「鎮州節度使安重栄称兵向闕」)〜紀七(天福七年正月「北面招討使杜重威奏、今月二日収復鎮州、斬安重栄、伝首闕下」)。
被反乱941年12月〜942年1月安重栄の乱(鎮州)
首謀者: 安重栄(鎮州・成徳軍節度使)
結果: 杜重威に討たれ天福七年正月斬首。
rebellionSuppressionCountと同一事象(詳細は同項参照)。
改元日付不詳【皇帝即位(改元同時)】契丹(耶律徳光)の擁立により晋陽で即位すると同時に「改長興七年為天福元年」と改元。
【皇帝即位(改元同時)】契丹(耶律徳光)の擁立により晋陽で即位すると同時に「改長興七年為天福元年」と改元。以後、高祖の在位中(〜天福七年六月崩御)は改元されず「天福」が継続使用された。
出典: 旧五代史 巻七十六(晋書・高祖紀二)
大赦日付不詳【皇帝即位(改元同時)】契丹の支援で晋陽にて即位・建元した同日、北京(晋陽)崇元殿にて「改長興七年為天福元年、大赦天下」の詔を下す。
【皇帝即位(改元同時)】契丹の支援で晋陽にて即位・建元した同日、北京(晋陽)崇元殿にて「改長興七年為天福元年、大赦天下」の詔を下す。即位・改元・大赦が同時に行われた事例。
出典: 旧五代史 巻七十六(晋書・高祖紀二)
大赦日付不詳【皇帝在位中】後唐末帝が洛陽で自焚し、高祖が洛陽入城後、文明殿にて朝賀を受け「大赦天下」の制を下す(旧廷の官吏の罪を問わない等の内容)。
出典: 旧五代史 巻七十六(晋書・高祖紀二)
大赦日付不詳【皇帝在位中】范延光の魏府(鄴都)における反乱平定を機に「大赦天下、以魏府初平故也」と明記される大赦。
出典: 旧五代史 巻七十七(晋書・高祖紀三)