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後唐(五代十国)第4代

末帝李従珂

在位 934–936年(2年235日)934年5月21日 〜 937年1月11日 ( 936年閏11月26日まで)

日本は平安時代

明宗の養子で、閔帝を倒して後唐の帝位に即いたが、石敬瑭と契丹に敗れて自ら焼け死んだ皇帝である。

末帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 934年5月21日〜937年1月11日 936年閏11月26日まで
2年235日長い順同率236位/365人50歳で即位(数え年)
没年
937年1月11日( 936年閏11月26日)52歳(数え年)長生き順同率73位/266人
死因
同じ死因15人/365人
即位経路
先代
次代
—
呼び名
姓李諱従珂幼名二十三呼び名の見方

出典

在位
旧五代史 唐書・末帝紀上(即位)/末帝紀下(自焚)
死因
旧五代史 巻四十八(唐書・末帝紀下)
即位経路
旧五代史 巻四十六(唐書・末帝紀上)/巻四十八(史臣曰)

生涯

どんな皇帝か

旧五代史のは、神武の才と人君の器量を持ちながら兵で位を奪ったことを深く恥ずべきとし、梁の望楼を斧で打った勇ましさと、懐州で涙を流した臆病さを並べた。

即位まで

もとは鎮州の王氏で、明宗が平山で母の魏氏を掠め取ったとき、十余歳で明宗の養子となった。921年の戦いでは十数騎で退く梁軍に紛れて敵の塁門に至り、望楼を斧で打って帰り、荘宗は大笑して酒を賜った。酒席で安重誨を殴り、重誨は恨みを持ち続けた。930年、重誨は詔を偽って、河中にいた従珂を城外に締め出させた。明宗は従珂を私邸に退かせたが、重誨が処罰を求めても、この子が馬糞を拾って私を養ったのだと言って応じなかった。934年、閔帝に移鎮を命じられるとを誅すとして鳳翔で挙兵し、討伐軍に囲まれると城壁の上で泣いて訴え、寝返りが出て包囲は潰えた。洛陽に入って馮道らに即位を勧められると、やむを得ずしたことで、閔帝が戻りの礼が終わればに退くと言った。皇太后の令でとなり、ついで即位した。

史料について

資治通鑑の考異によれば、唐廃帝実録は従珂を明宗の実子とするが、司馬光は養子説に従った。殴った件を、新五代史は書かない。

治世と最期

兵に一人百千を与えると約していたが府庫は空で、都の住民から財を取り立て家賃を前借りし、自ら命を絶つ者が相次いだ。鄂王に降された閔帝は、従珂が衛州へ遣わした王巒に殺された。

936年、石敬瑭が叛いて契丹に援けを求め、来援した契丹軍が唐軍を大破した。懐州まで出たが酒に溺れて悲歌し、北へ進むよう勧められると、石郎のことを言うな、肝がつぶれると言った。同じ年の暮れ、曹太后や一族とともに玄武楼に登り、火を放って自ら焼け死んだ。

史料について

閔帝の死を、資治通鑑は縊り殺したとし、旧五代史の閔帝紀と新五代史の王弘贄伝はによるとし、新五代史のは弑したとだけ書く。石郎の言葉を、新五代史の劉延朗伝は出陣を渋ったときのものとする。

末帝とつながる皇帝

五代十国の勢力図(934年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

934–935年の地図に、末帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱4・皇后1・改元1・大赦1
  1. 改元934年5月31日元号を「清泰」とする
  2. 934年5月31日
  3. 皇后日付不詳皇后を立てる
  4. 反乱日付不詳石敬瑭の反乱
  5. 反乱日付不詳張令昭の反乱
  6. 反乱日付不詳桑遷の反乱
  7. 反乱日付不詳不明(延州の義軍集団)の反乱

後唐の歴代皇帝

歴代4人の一覧

年表

五代十国の時代を年表で見る

後唐が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「簒奪」の28名をデータベースで見る

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