中国皇帝統計

末帝・李従珂

後唐(五代十国)|在位 934–937年

諱(本名)
李従珂
在位
934–937年
在位期間
2年236日365名中238位
即位経路
簒奪
死因
自尽
即位時年齢
50歳(数え年)172名中・若い順159位
没年齢
52歳(数え年)269名中・長寿順74位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
4225名中101位タイ
被反乱
4289名中127位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

閔帝朝廷の左遷方針に対し挙兵、討伐軍(王思同軍)が次々投降し朝廷軍が瓦解、洛陽入りして閔帝を廃し即位。旧五代史史臣の評にも「由尋戈而践阼,慙徳応深」(矛を執って即位したことは徳の疚しさが深い)と明記され、武力による帝位簒奪と評価されている。

出典: 旧五代史 巻四十六(唐書・末帝紀上)/巻四十八(史臣曰)

死因の経緯

石敬瑭の反乱に契丹が加担し洛陽への帰還後も抗戦の術なく、清泰3年閏11月26日、一族・皇太后曹氏とともに元武楼で自ら火を放って焼身自殺した。

出典: 旧五代史 巻四十八(唐書・末帝紀下)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

末帝は反乱・簒奪によって皇帝を称する以前に独自の元号を用いた「王」等の期間は無く(潞王時代は一貫して庄宗・明宗・閔帝の元号を使用)、2段階即位(皇帝即位前に別元号使用)のパターンには該当しない。即位(応順元年四月六日)と改元(同月十六日、応順→清泰)の間にタイムラグがあった1段階即位パターンであり、eraChangeCountは即位に伴う実質的な最初の建元にあたる応順→清泰の1回のみとした。daizhigev20収録の旧五代史.txt(唐書・末帝紀部分)でも同一記述を確認し裏取り済み。

大赦回数

旧五代史 末帝紀上・中・下(原文)を通読。全国規模の「大赦」明記記事は改元と同時に行われた応順元年四月十六日の1件のみで、他に該当する記事は見当たらなかった。daizhigev20収録の旧五代史.txt(唐書・末帝紀部分)でも同一記述を確認し裏取り済み。

立后回数

末帝紀上・中・下を通読し、劉皇后の立后(清泰元年七月制立・八月册礼)以外に皇后冊立・廃后の記事は見当たらなかった。

皇太子廃立回数

末帝紀上・中・下(応順元年四月即位〜清泰三年閏十一月焼身自殺まで)を通読したが、「皇太子」「皇太弟」等の法定推定継承者を立てた記事自体が見当たらない(在位中の記事に見える「太子少保」「太子少傅」「太子太保」「太子詹事」「太子宾客」等はいずれも官職名であり、実際の皇太子冊立とは無関係)。皇子重美は清泰三年正月に雍王に封じられたのみで皇太子には立てられていない。従って皇太子廃立の記事も存在せず、カウントは0。

親征回数

旧五代史 末帝紀上・中・下(応順元年四月即位〜清泰三年閏十一月焼身自殺まで)を通読。在位中の軍事行動(西川=後蜀との金州方面の戦闘=清泰2年6月、契丹の辺境侵寇への対処、清泰3年の石敬瑭反乱討伐戦)はいずれも張敬達・范延光・趙徳鈞・楊光遠・高行周・符彦卿ら将軍への派遣・勅命によるものであり、皇帝自身が軍を率いて戦場に赴いた記録は見当たらない。石敬瑭反乱時には皇帝自身も洛陽を発って河陽・懐州まで移動したが(清泰3年9月)、これは後方拠点への移動・督戦目的であり戦闘には参加しておらず、原文に「臣下勧其親征、則曰『卿輩勿説石郎、使我心胆堕地』、其怯惫也如此」と明記され、群臣が親征を勧めても皇帝自身は明確にこれを拒否し続けたことが確認できる。従ってpersonalCampaignCountは0回。

反乱鎮圧回数

旧五代史 末帝紀上・中・下を通読。後唐と対等な独立勢力(後蜀=西川孟知祥、契丹)との抗争は統一戦争・対外戦争として除外し、皇帝の統治機構下にある節度使・将軍等の離反・武装蜂起のみを計上した。石敬瑭配下の将領(安審信・安重栄・張万迪ら)が兵を率いて太原へ投降・合流した動きは、独自の首謀者による別個の蜂起ではなく石敬瑭の反乱に付随する離反として石敬瑭の乱1件に含め、別カウントしなかった。安元信による伏州刺史暗殺未遂は事前に発覚し実際の挙兵に至らなかった(摘発のみ)ため計上対象外とした。楊光遠による張敬達殺害・契丹降伏は石敬瑭討伐軍自体の崩壊であり、石敬瑭の乱1件の帰結として扱い別件としなかった。石敬瑭の乱・延州の乱はいずれも鎮圧が最終的に失敗(前者は王朝崩壊、後者は討伐軍逃亡)したが、政権側による鎮圧行動の着手(大軍派遣・討伐命令)自体は明確に確認できるため、rebellionSuppressionCountの基準(『鎮圧を試みて失敗した場合もカウントする』)に従い両者とも計上した。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと同一の4件(石敬瑭の乱・鄴都張令昭の乱・雲州桑迁の乱・延州義軍の乱)を両面から集計。除外基準・出典はrebellionSuppressionCount.noteと同一。件数の食い違いはなく(4/4)、全件が皇帝の統治機構下にある節度使・将官・軍士による離反・武装蜂起である。

遷都回数

旧五代史帝紀を通読。荘宗期の洛陽遷都を継承、以後追加の遷都記録なし。

即位時年齢・没年齢

旧五代史 巻四十六(唐書・末帝紀上)冒頭に「以光啓元年歳在乙巳正月二十三日、生帝於平山」とあり、生年月日は光啓元年(885年)正月二十三日(旧暦)と明記される(グレゴリオ暦への精密換算は未実施のためbirthDateはnullとし、note欄に原文日付を記録)。旧五代史 巻四十八(唐書・末帝紀下)末尾に「辛巳辰時、帝挙族與皇太后曹氏自燔於元武楼」に続けて「帝在位共二年、年五十二」と明記され、崩御時(清泰三年閏十一月二十六日=0937-01-11、焼身自殺)の享年は52歳(数え年)。即位時年齢(accessionAge)についての直接的な「時年◯◯」等の記述は原文中に見当たらなかったため、生年の年号年(光啓元年=885年)と即位年(応順元年/清泰元年=934年)の年号年ラベルの差分から逆算した:934-885+1=50歳。この逆算式(対象年ラベル-生年ラベル+1)を没年(清泰三年=936年、暦年ラベルとしては清泰三年のまま。閏十一月がグレゴリオ暦では翌937年初頭にまたがるためdeathDateは0937表記になるが清泰三年という年号年自体は936年に対応)に適用すると936-885+1=52歳となり、原文に直接記載された享年52歳と完全に一致した。この一致によりaccessionAge=50の逆算値を採用(confidence: high)。

在位中の出来事(11件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元934年5月31日【皇帝在位中】応順元年(閔帝の元号を継続使用していた期間)四月六日(乙亥)に群臣の勧進を受けて皇帝として即位した後も、直ちに改元はせず、先代閔帝の元号「応順」をそのまま10日間ほど引き継いで使用した。

【皇帝在位中】応順元年(閔帝の元号を継続使用していた期間)四月六日(乙亥)に群臣の勧進を受けて皇帝として即位した後も、直ちに改元はせず、先代閔帝の元号「応順」をそのまま10日間ほど引き継いで使用した。その後、四月十六日(乙酉)になって初めて「宣制改応順元年為清泰元年」(応順元年を清泰元年に改める旨を宣制)と正式に改元し、あわせて大赦天下を実施した。原文(旧五代史・末帝紀上)に即位日(四月六日)と改元日(四月十六日)が別の干支日として明記されており、両者の間に約10日のずれがあることを原典で確認した。在位中(清泰元年四月〜清泰三年閏十一月)に他の改元は行われていない(新五代史でも「清泰」がそのまま在位終了まで用いられていることを確認)。

出典: 旧五代史 巻四十六(唐書・末帝紀上)

大赦934年5月31日応順元年(=清泰元年)四月十六日(乙酉)、明堂殿にて改元の宣制と同時に「大赦天下、常赦不原者咸赦除之」(常赦で赦されない重罪も含め全て赦免)と全国規模の大赦を実施。

応順元年(=清泰元年)四月十六日(乙酉)、明堂殿にて改元の宣制と同時に「大赦天下、常赦不原者咸赦除之」(常赦で赦されない重罪も含め全て赦免)と全国規模の大赦を実施。旧五代史・末帝紀上中下(応順元年四月〜清泰三年閏十一月の全在位期間)を通読したが、確認できる「大赦」「大赦天下」の記事はこの1件のみ。

出典: 旧五代史 巻四十六(唐書・末帝紀上)

立后日付不詳清泰元年七月丁巳、沛国夫人劉氏を皇后に立てる制(詔)を発し(「制立沛国夫人劉氏為皇后」)、同年八月丙申、文明殿にて正式に皇后を册立する儀礼を実施(「御文明殿冊皇后」、太尉摂事の盧文紀・司徒摂事の盧損らが使・副使を務めた)。

清泰元年七月丁巳、沛国夫人劉氏を皇后に立てる制(詔)を発し(「制立沛国夫人劉氏為皇后」)、同年八月丙申、文明殿にて正式に皇后を册立する儀礼を実施(「御文明殿冊皇后」、太尉摂事の盧文紀・司徒摂事の盧損らが使・副使を務めた)。七月の制詔と八月の册礼は同一人物(劉氏)の一連の立后手続きであるため1回とカウント。在位中に確認できる立后はこの1件のみで、廃后・再冊立の記録はない。

出典: 旧五代史 巻四十六(唐書・末帝紀上)

反乱鎮圧日付不詳石敬瑭の反乱(河東節度使挙兵)

首謀者: 石敬瑭

結果: 鎮圧失敗・王朝崩壊

清泰3年5月(戊戌)、河東節度使石敬瑭が反乱(朝廷は直前に石敬瑭を郓州節度使へ左遷する詔を出しており、これに反発して挙兵)。朝廷は石敬瑭の官爵を剥奪し、張敬達を太原四面兵馬都部署(後に招討使)に任命して大軍を派遣、太原を包囲(着手した実際の軍事的鎮圧行動)。9月、契丹の援軍が到来し晋安寨で王師大敗、以後音信途絶。閏11月、包囲軍の副将楊光遠が主将張敬達を殺害し契丹に降伏、契丹は石敬瑭を皇帝に擁立(後晋建国、天福と改元)。末帝は洛陽への帰還もままならず、閏11月26日(辛巳)に一族・皇太后曹氏とともに元武楼で焼身自殺し、後唐は滅亡した。朝廷側は数ヶ月にわたり大規模な討伐軍(張敬達・楊光遠・安審琦・趙延寿・范延光・趙徳鈞ら)を組織し実際に太原を包囲する等、鎮圧行動は明確に着手されたが、契丹の介入と討伐軍内部の裏切り(楊光遠の変節)により失敗し王朝崩壊に至ったため、鎮圧を試みて失敗したケースとしてrebellionSuppressionCountにも計上した。

反乱鎮圧日付不詳鄴都・張令昭の乱

首謀者: 張令昭

結果: 鎮圧成功

清泰3年5月(壬子)、鄴都に駐屯する捧聖軍都虞候の張令昭が節度使劉延皓を追放して鄴都を占拠し反乱(拠城叛)、副使邊仁嗣以下に節帥として奏請するよう強要した。朝廷は劉延皓の官爵を剥奪し、汴州節度使范延光を天雄軍四面招討使に任命して討伐、7月21日に鄴都を奪還、張令昭・邢立・李貴ら首謀者を斬首・磔刑に処し、残党(部下五指揮・忠鋭忠肃両指揮、洺州・邢州・磁州で捕縛された乱兵ら)も掃討した。

反乱鎮圧日付不詳雲州・桑迁の乱

首謀者: 桑迁

結果: 鎮圧成功(数日で鎮定)

清泰3年7月2日夜、雲州の歩軍指揮使桑迁が反乱を起こし兵を率いて子城を包囲(雲州節度使沙彦珣は包囲を突破し城外の西山雷公口に拠った)。翌3日、沙彦珣は兵を集めて城内に入り反乱軍を誅殺し、城は速やかに鎮定された。

反乱鎮圧日付不詳延州・義軍の乱

首謀者: 不明(延州の義軍集団)

結果: 鎮圧失敗(討伐軍が交戦せず逃亡)

清泰3年11月、延州節度使楊漢章が部下の軍勢(義軍)に殺害される事件が発生(義軍乱)。朝廷は前坊州刺史劉景厳を延州留後に任命して穴埋めする一方、閏11月、丹州刺史康承詢に義軍討伐を命じて派遣したが、康承詢は交戦せず鄜州へ逃走、事後この失策により邓州へ配流の処罰を受けた(=鎮圧の着手はあったが失敗)。末帝在位終了(閏11月26日焼身自殺)までに延州の反乱そのものが再鎮圧された記録は見当たらない。

被反乱日付不詳石敬瑭の反乱

首謀者: 石敬瑭

結果: 反乱成功・末帝崩御(王朝滅亡)

清泰3年5月、河東節度使石敬瑭が挙兵し朝廷討伐軍を撃破(契丹の介入・楊光遠の裏切りによる)、末帝は閏11月26日に元武楼で焼身自殺、後唐は滅亡した(rebellionSuppressionCountの同名事件と対応)。

被反乱日付不詳張令昭の反乱

首謀者: 張令昭

結果: 鎮圧成功(反乱側敗北)

清泰3年5月、鄴都で張令昭が節度使劉延皓を追放して据城反乱、7月に范延光により鎮圧された(rebellionSuppressionCountの同名事件と対応)。

被反乱日付不詳桑迁の反乱

首謀者: 桑迁

結果: 鎮圧成功(反乱側敗北)

清泰3年7月、雲州の歩軍指揮使桑迁が反乱を起こし子城を包囲したが、節度使沙彦珣により翌日鎮定された(rebellionSuppressionCountの同名事件と対応)。

被反乱日付不詳不明(延州の義軍集団)の反乱

首謀者: 不明(延州の義軍集団)

結果: 鎮圧失敗(討伐軍逃亡、末帝在位中に再鎮圧の記録なし)

清泰3年11月、延州節度使楊漢章が部下の義軍に殺害され反乱状態となり、閏11月に派遣された討伐軍(丹州刺史康承詢)も交戦せず逃亡した(rebellionSuppressionCountの同名事件と対応)。

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