中国皇帝統計

末帝・朱友貞

後梁・五代十国|在位 913–923年

諱(本名)
朱友貞
在位
913–923年
在位期間
10年238日365名中128位
即位経路
簒奪
死因
自尽
即位時年齢
不詳
没年齢
36歳(数え年)269名中・長寿順152位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
6225名中68位タイ
被反乱
8289名中59位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

友珪打倒のクーデターは末帝自身が趙巖を介して袁象先・楊師厚らに働きかけ主導したもので、実行部隊が友珪を誅した後、将相らから推戴される形(三譲後受禅の演出)で即位した。形式上は推戴儀礼を経ているが、実質は兄(先帝友珪)を武力で打倒したクーデターによる奪権のため簒奪を主カテゴリとする(推戴の要素はここに記す通り、境界事例)。

出典: 旧五代史 巻八(末帝紀上)

死因の経緯

後唐(李存勗)軍が開封に迫った際、捕縛・処刑を恐れ控鶴指揮使皇甫麟に自らの命を絶つよう命じ、皇甫麟に刺させて崩じた。政権交代後の勝者による公的処断(処刑)ではなく、捕縛前に自ら手配した死のため自尽と判定。

出典: 旧五代史 巻十(末帝紀下)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

末帝は在位中(乾化三年~龍德三年)一貫して皇帝として即位しており、王等の身分での在位期間は極めて短く(伪凤历元年二月十五日~十七日の数日間のみ、諸軍から擁立され挙兵した期間で独自年号は用いていない)、いわゆる『2段階即位パターン』には該当しないため、各eventのnoteには便宜上【皇帝在位中】を付した。即位に伴う建元は本来カウント対象だが、末帝の場合は即位時に新元号を制定せず前代(太祖)の年号「乾化」をそのまま継続使用したため、指示の『前代の元号をそのまま継続使用した場合はカウントしない』规定によりcountに含めていない。結果としてeraChangeCountは貞明・龍德の2回。

大赦回数

旧五代史 巻八・九・十(末帝紀上・中・下)全文を通読したが、「大赦」「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦記事は見当たらない。貞明六年四月己亥の制(巻十)は『应天下见禁罪人,如犯大辟合抵极刑者,宜示好生,特令减死。除准格律常赦不原外,徒流已下,递减一等』とあり、また龍德改元の制(貞明七年五月丙戌朔、巻十)も『应天下见禁罪人,除大辟罪外,递减一等』とあるが、いずれも大辟(死罪)を除外した部分的な減刑(徒流以下を一等減ずる)にとどまり、大赦天下の宣言を伴わないため計上しない。他に大赦相当の記事は確認できなかった。

立后回数

在位中、皇后は正式には冊立されなかった。旧五代史 巻八(末帝紀上)貞明二年九月壬午条『正衙命使册德妃张氏。是夕,妃薨』とあり、張氏は『徳妃』への冊立当夜に薨去している。新五代史(末帝徳妃張氏伝)はこの経緯をより詳しく記し『帝即位,将册妃为后,妃请待帝郊天,而帝卒不得郊。贞明五年,妃病甚,帝遽册为德妃,其夕薨,年二十四』とある(末帝が郊天の礼を行えなかったため皇后冊立が実現せず、危篤に至って急遽『徳妃』号のみを授けた)。したがって皇后(正式な冊立)としてのeventは0件。

皇太子廃立回数

旧五代史 巻八・九・十(末帝紀上・中・下)および新五代史 梁本紀第三・列伝(張皇后・末帝徳妃張氏伝、康王友孜伝、惠王友能伝等)を通読したが、末帝在位中(乾化三年~龍德三年)に皇太子・皇太弟・皇太孫等の法定推定継承者が立てられた記事、およびそれが廃された記事はいずれも見当たらない。文中の『太子太傅』『太子太保』『太子宾客』等はいずれも大臣への加官・致仕号であり、皇太子冊立とは無関係。

親征回数

旧五代史 末帝紀(巻八~十)を通読したが、末帝自身が軍を率いて戦場に赴いた(親征した)記録は見当たらない。在位中の軍事行動――徐州王殷討伐(乾化四年~貞明元年)、魏博軍乱への対処(貞明元年)、対晋(李存勗)戦線の一連の攻防(貞明元年~龍德三年)、兗州張守進討伐(貞明五年)、河中朱友謙討伐(貞明六年)、陳州妖賊討伐(貞明六年)、陳州惠王友能討伐(龍德元年)――はいずれも劉鄩・王彦章・戴思遠・段凝・賀瑰・牛存節ら将軍を派遣して指揮させている(例:「帝命将出师逆击」「命刘鄩为兗州管内安抚制置使,领兵以攻之」等)。貞明四年十二月に洛陽へ行幸し南郊の礼を行おうとした記事(「己巳,帝幸洛阳,为来年有事于南郊也。遂幸伊阙,亲拜宣陵」)も軍事行動ではなく祭祀(郊天)目的であり親征に該当しない(結局晋軍が杨刘城を陥落させたとの報で郊礼を中止し東京へ帰還している)。末帝自身が終始東京(開封)・洛陽に留まり戦場に出向いた記述は皆無であるためcount 0とする。

反乱鎮圧回数

旧五代史 末帝紀(巻八~十)を通読し、皇帝側(朝廷)が鎮圧主体となった反乱6件を確認した。許州節度使謝彦章・濮州刺史孟審澄・別将侯温裕の粛清(貞明四年十二月)は原文に「以谋叛闻,为行营马步都虞候硃圭构之也」と、実際には謀反の事実がなく硃圭による讒言・でっち上げであった旨が明記されるため、実際の兵力行使を伴う反乱に該当せず計上しない。同州の朱友謙の離反は朝廷側が攻撃を仕掛けたものの晋の援軍により敗退し在位終了まで鎮圧できなかったため(未鎮圧のまま推移)、鎮圧回数には含めずrebellionSufferedCountのみに計上する。魏博軍乱(貞明元年)も同様に鎮圧できず晋への帰属を許す結果となったためrebellionSufferedCountのみに計上する。康王友孜の謀反・李霸の乱は宮中クーデター未遂だが、末帝自身が生き延び即座に自派で鎮圧・処刑しているため鎮圧・被反乱の双方に計上した(通常の弑逆成功例と異なり皇帝側が鎮圧主体であるため)。confidenceは、日付の一部が原文に月精度までしか記載がないこと、および境界事例(宮中クーデター未遂の両面計上)の判断を含むためmediumとした。

被反乱回数

許州節度使謝彦章・濮州刺史孟審澄・別将侯温裕の粛清(貞明四年十二月)は原文に「为行营马步都虞候硃圭构之也」と讒言・でっち上げの旨が明記され、実際の兵力行使(挙兵)を伴う反乱ではないため計上しない(実際の兵力行使に至らない摘発事案は除外する規定に基づく)。鎮州大将王徳明による王鎔弑殺(龍德元年二月、原文「镇州大将王德明杀其帅王熔,自称留后,遣使来求援」)は、鎮州(成徳軍)が梁の直接統治下ではなく半独立の藩鎮であり、事件後王徳明側が梁に援助を求める立場にあった(梁に対する反乱ではない)ため計上しない。魏博軍乱・朱友謙の反乱の2件は朝廷側が鎮圧に失敗した(未鎮圧のまま在位終了・晋への帰属を許した)ためrebellionSuppressionCountには含めずsufferedのみに計上している。康王友孜・李霸の2件は宮中クーデター未遂だが末帝自身が生還し即座に鎮圧・処刑しているため両カウントに計上した。confidenceは月精度日付が多いこと、および複数の境界事例判断を含むためmediumとした。

遷都回数

旧五代史末帝紀を通読。父・太祖期の東京開封復都を継承、追加の遷都記録なし。

即位時年齢・没年齢

旧五代史 巻八(末帝紀上)冒頭に「以唐文德元年戊申岁九月十二日生于东京」とあり生年月日が明記される(唐文德元年戊申=888年、九月十二日=グレゴリオ暦888-10-20、暦変換で確認済み)。同箇所「文武百官上言,请以九月十二日帝降诞日为明圣节」がこの日付を誕生日として裏付ける。没日は旧五代史 巻十(末帝紀下)「戊寅夕,麟进刃于建国楼之廊下,帝崩」(龍德三年十月戊寅=923-11-18、暦変換で確認済み、既存reigns.endDateと一致)。同箇所割注「《五代会要》:末帝年三十六」に没年齢(数え36歳)が明記される。即位時(乾化三年二月十七日)の年齢は原文に直接記載がなく、生年からの逆算値(数え26歳)は原文非記載のため記録しない(既存データの方針を踏襲)。

在位中の出来事(16件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

反乱鎮圧914年9月〜915年1月徐州節度使王殷の反乱

首謀者: 王殷(徐州節度使)

結果: 鎮圧成功(王殷は一族もろとも自ら火を放って死亡、その屍を焼跡から得て梟首)

乾化四年九月、朝廷が福王友璋を徐州に鎮させようとしたが前任の徐州節度使王殷がこれを受け入れず反乱(原文:「九月,徐州节度使王殷反。时朝廷以福王友璋镇徐方,殷不受代,乃下诏削夺殷在身官爵…便委友璋及天平军节度使牛存节、开封尹刘鄩等进军攻讨」)。淮南(呉)が朱瑾率いる援軍を送ったが牛存節らがこれを撃破し、貞明元年春(原文「贞明元年春」、月日は原文非明記のため月精度)に徐州を陥落させ王殷は自焚死(原文:「牛存节、刘鄩拔徐州,逆贼将殷举族自燔而死,于火中得其尸,枭首以献」)。徐州は梁の統治下にある節度使の離反であり、統一戦争(十国間の対等勢力戦争)には該当しない。

被反乱914年9月〜915年1月徐州節度使王殷の反乱

首謀者: 王殷(徐州節度使)

結果: 鎮圧成功(王殷は一族もろとも自焚死、屍を梟首)

rebellionSuppressionCountと同一事象。乾化四年九月、朝廷の人事(福王友璋への交代)を拒んだ徐州節度使王殷が反乱(原文:「九月,徐州节度使王殷反。时朝廷以福王友璋镇徐方,殷不受代」)。貞明元年春(月精度)に牛存節・劉鄩により平定(原文:「牛存节、刘鄩拔徐州,逆贼将殷举族自燔而死」)。

被反乱915年5月15日〜915年7月15日魏博軍乱(賀徳伦兵変・六州の晋への帰属)

首謀者: 張彦(魏博軍の首謀者、名目上の節度使は賀徳伦)

結果: 未鎮圧(朝廷は使者を送り懐柔を試みたが失敗、魏博六州は最終的に晋(李存勗)へ帰順、貺德伦も一族で晋陽へ移された)

貞明元年三月二十九日夜(暦変換により915-05-15)、朝廷による魏博(六州)分割統治策への反発から魏博軍が兵変を起こし節度使賀徳伦を幽閉(原文:「三月二十九日夜,魏军乃作乱,放火大掠,首攻龙骧军…迟明,杀德伦亲军五百余人于牙城,执德伦置之楼上」)。首謀者張彦は朝廷の安撫使を侮辱し交渉は決裂、晋(李存勗)に帰順するよう賀徳伦に迫った(原文:「彦使德伦告谕军城曰:可依河东称天祐十三年」)。貞明元年六月庚寅(暦変換により915-07-15)、晋王が魏州に入城し賀徳伦を大同軍節度使として一族もろとも晋陽へ移した(原文:「六月庚寅,晋王入魏州,以贺德伦为大同军节度使,举族迁于晋阳」)。朝廷はこの反乱を鎮圧できず魏博六州を失う結果に終わったため、rebellionSuppressionCountには含めずsufferedのみに計上する(未鎮圧のまま推移した事例)。

反乱鎮圧915年12月3日康王友孜による宮中クーデター未遂(弑逆謀反)

首謀者: 康王友孜(末帝の弟、宗室)

結果: 鎮圧成功・即日誅殺(末帝自身が夜間に襲撃を察知し反撃、友孜は捕らえられ処刑された)

貞明元年十月辛亥(暦変換により915-12-03)、末帝の弟である康王友孜が謀反し、末帝の寝殿に刺客を送り込んだ(原文:「冬十月辛亥,康王友孜谋反,伏诛。是夕,帝于寝殿熟寐,忽闻御榻上宝剑有声,帝遽起视之,而友孜之党已入于宫中,帝挥之获免」)。『清異録』の引用注に「末帝夜于寝间擒刺客,乃康王友孜所遣,帝自戮之」とあり、末帝自身が刺客を捕らえ誅殺したことが確認できる。末帝は襲撃を生き延び、その場で首謀者一党を鎮圧・処刑しているため、単なる被弑逆事例(皇帝側が鎮圧できないまま倒された例)とは異なり、鎮圧・被反乱の双方に計上する。

被反乱915年12月3日康王友孜による宮中クーデター未遂(弑逆謀反)

首謀者: 康王友孜(末帝の弟、宗室)

結果: 鎮圧成功・即日誅殺(末帝自身が夜間に襲撃を察知し反撃、友孜は捕らえられ処刑された)

rebellionSuppressionCountと同一事象。貞明元年十月辛亥(暦変換により915-12-03)夜、末帝の弟康王友孜が刺客を末帝の寝殿に送り込んだが末帝自身が撃退し、友孜は誅殺された(原文:「康王友孜谋反,伏诛。是夕,帝于寝殿熟寐,忽闻御榻上宝剑有声,帝遽起视之,而友孜之党已入于宫中,帝挥之获免」、『清異録』注「帝自戮之」)。皇帝個人の廃位・弑逆を意図した宗室によるクーデター未遂であり身分・規模を問わず計上する。

改元915年12月17日【皇帝在位中】乾化五年(貞明元年)十一月乙丑、詔により「乾化五年」を「貞明元年」と改称(乾化→貞明への改元)。

【皇帝在位中】乾化五年(貞明元年)十一月乙丑、詔により「乾化五年」を「貞明元年」と改称(乾化→貞明への改元)。原文:「十一月乙丑,改乾化五年为贞明元年」(巻八末尾)。なお、乾化三年(913年)2月の即位時に友珪の年号「凤历」を廃し「乾化三年」と称した措置(『是月,帝即位于东京,乃去凤历之号,称乾化三年』)は、先帝(太祖)が制定した年号をそのまま継続・復称したものであり、末帝自身による新元号の制定ではないため、eraChangeCountには計上しない(新五代史巻三 欧陽脩評にも『末帝已诛友珪,黜其凤历之号,复称乾化三年,尚为有说』とあり、継続措置として位置づけられている)。

出典: 旧五代史 巻八(末帝紀上)

反乱鎮圧916年5月23日捉生都将李霸の乱

首謀者: 李霸(捉生都将)

結果: 鎮圧成功・即日誅殺(龍驤都将杜晏球が乱軍を撃破し李霸ら首謀者を誅殺、京師はすぐに平定)

貞明二年四月癸卯(暦変換により916-05-23)夜、捉生都将李霸が部下と共に建国門に放火して反乱を起こした(原文:「癸卯夜,捉生都将李霸作乱,龙骧都将杜晏球讨平之。时遣捉生军千人戌杨刘,军出宋门外。是夜,由水门复入,二鼓大噪,火发烛城,李霸与其徒燔建国门,不克」)。皇帝側の龍驤都将杜晏球が乱軍を撃破し首謀者を誅殺(原文:「未明,晏球诛霸及其同恶,京师方定」)。皇帝配下の禁軍将校による武装蜂起であり、身分・規模を問わず計上する。

被反乱916年5月23日捉生都将李霸の乱

首謀者: 李霸(捉生都将)

結果: 鎮圧成功・即日誅殺(龍驤都将杜晏球が乱軍を撃破し首謀者を誅殺)

rebellionSuppressionCountと同一事象。貞明二年四月癸卯(暦変換により916-05-23)夜、捉生都将李霸が建国門に放火する反乱を起こしたが、龍驤都将杜晏球により即日鎮圧・誅殺された(原文:「捉生都将李霸作乱,龙骧都将杜晏球讨平之…未明,晏球诛霸及其同恶,京师方定」)。

反乱鎮圧919年4月〜919年10月兗州節度使張守進の反乱

首謀者: 張守進(兗州節度使、旧名張万进/守进)

結果: 鎮圧成功(劉鄩が兗州を攻略、張守進を捕らえ一族を誅滅)

貞明五年三月癸未(暦変換により919-04-18)、朝廷は「兗州节度使张守进在身官爵」を削奪する制を発した(反乱認定、原文:「癸未,制削夺兗州节度使张守进在身官爵,以其叛故也。仍命刘鄩为兗州管内安抚制置使,领兵以攻之」)。貞明五年冬十月(月精度、暦変換によりおよそ919-10-27)、劉鄩が兗州を攻め落とし張守進を捕らえて一族を誅した(原文:「冬十月,刘鄩攻下兗州,擒张守进,夷其族」)。梁の統治下にある節度使の離反であり計上する。

被反乱919年4月〜919年10月兗州節度使張守進の反乱

首謀者: 張守進(兗州節度使)

結果: 鎮圧成功(劉鄩が兗州を攻略、張守進を捕らえ一族を誅滅)

rebellionSuppressionCountと同一事象。貞明五年三月癸未(暦変換により919-04-18)に反乱認定(原文:「制削夺兗州节度使张守进在身官爵,以其叛故也」)、貞明五年冬十月(暦変換によりおよそ919-10-27)に劉鄩が鎮圧(原文:「刘鄩攻下兗州,擒张守进,夷其族」)。

被反乱920年6月〜920年10月河中節度使朱友謙の反乱(同州占拠・晋への帰順)

首謀者: 朱友謙(河中護国軍節度使)

結果: 未鎮圧のまま推移(朝廷軍は晋の援軍に敗れ撤退、同州は朱友謙が晋の支援を得て確保、末帝崩御まで解決せず)

貞明六年、河中節度使朱友謙が同州を襲い占拠、子の令徳を同州留後として節旄を求めたが朝廷はこれを許さず、逆に同州兼鎮を命じたところ、その制命が届く前に友謙は既に反し晋に援軍を求めた(原文:「先是,河中朱友谦袭陷同州,节度使程全晖单骑奔京师…友谦以其子令德为同州留后,表求节旄,不允;既而帝虑友谦怨望,遂命兼镇同州,制命将下而友谦已叛,遣使求援于晋,故命将讨之」)。朝廷は劉鄩・尹皓・温昭図・段凝に同州攻撃を命じたが(貞明六年六月、暦変換によりおよそ920-06-19)、貞明六年九月(暦変換によりおよそ920-10-16)に晋の援軍(李嗣昭・李存審・王建及)が到来し梁軍は敗退した(原文:「晋王遣都将李嗣昭、李存审、王建及率师来援同州,战于城下。我师败绩,诸将以余众退保华州罗文寨」)。以後、末帝紀の記述中に同州奪還・朱友謙討伐成功の記事はなく、末帝崩御(龍德三年)まで未鎮圧のまま推移したと判断し、rebellionSuppressionCountには含めずsufferedのみに計上する。

反乱鎮圧920年8月〜920年11月陳州妖賊毋乙・董乙の乱

首謀者: 毋乙・董乙(陳州の宗教結社「上乗」の首領、毋乙は自ら天子を僭称)

結果: 鎮圧成功(禁軍及び数郡の兵を動員して撃破、毋乙ら首領80余人を生け捕り都で斬首)

貞明六年秋(原文「是岁秋,其众益盛」、暦変換によりおよそ920-08-17を起点として推定)、陳州の邪教集団「上乗」の首領毋乙・董乙が勢力を拡大し陳・頴・蔡三州を荒らし、毋乙を天子に擁立するに至った(原文:「群贼乃立毋乙为天子,其余豪首,各有树置」)。当初州兵による討伐は失敗したが、貞明六年冬十月(暦変換によりおよそ920-11-14)に禁軍と数郡の兵を合わせて追撃し、毋乙ら首領80余人を生け捕りにして都で斬首した(原文:「至是,发禁军及数郡兵合势追击,贼溃,生擒毋乙等首领八十余人,械送阙下,并斩于都市」)。統治下の民衆による武装蜂起であり身分・規模を問わず計上する。

被反乱920年8月〜920年11月陳州妖賊毋乙・董乙の乱

首謀者: 毋乙・董乙

結果: 鎮圧成功(禁軍及び数郡の兵で撃破、毋乙ら首領80余人を生け捕り斬首)

rebellionSuppressionCountと同一事象。貞明六年秋(暦変換によりおよそ920-08-17を起点として推定)に陳州の邪教集団「上乗」の首領毋乙が天子を僭称するまで勢力を拡大(原文:「群贼乃立毋乙为天子」)、貞明六年冬十月(暦変換によりおよそ920-11-14)に禁軍と数郡の兵で鎮圧(原文:「发禁军及数郡兵合势追击,贼溃,生擒毋乙等首领八十余人,械送阙下,并斩于都市」)。

反乱鎮圧921年5月〜921年8月陳州刺史惠王友能の反乱

首謀者: 惠王友能(陳州刺史、末帝の叔父)

結果: 鎮圧成功(朝廷軍が撃破、友能は陳州に籠城後に降伏、房陵侯に降格)

龍德元年夏四月(月精度、暦変換によりおよそ921-05-11)、陳州刺史惠王友能が挙兵して朝廷に向かった(原文:「陈州刺史惠王友能反,举兵向阙。帝命将出师逆击,败之。友能走保陈州,诏张汉杰率兵进讨」)。龍德元年秋七月(原文「秋七月,陈州硃友能降」、同月庚子の詔が房陵侯への降格を示す、暦変換によりおよそ921-08-22)に降伏した(原文:「特进、检校太傅、使持节陈州刺史…惠王友能…忽称兵而向阙,敢越境以残民…沥恳继陈于章表,束身愿赴于阙庭…可降封房陵侯」)。末帝自身は将軍を派遣して迎撃させており親征ではないため、personalCampaignCountには計上しない。

被反乱921年5月〜921年8月陳州刺史惠王友能の反乱

首謀者: 惠王友能(陳州刺史、末帝の叔父)

結果: 鎮圧成功(朝廷軍が撃破、友能は陳州に籠城後に降伏し房陵侯に降格)

rebellionSuppressionCountと同一事象。龍德元年夏四月(暦変換によりおよそ921-05-11)に挙兵(原文:「陈州刺史惠王友能反,举兵向阙。帝命将出师逆击,败之」)、龍德元年秋七月(暦変換によりおよそ921-08-22)に降伏し房陵侯に降格された(原文:「陈州硃友能降…可降封房陵侯」)。

改元921年6月9日【皇帝在位中】貞明七年五月丙戌朔、制により「貞明七年」を「龍德元年」と改称(貞明→龍德への改元)。

【皇帝在位中】貞明七年五月丙戌朔、制により「貞明七年」を「龍德元年」と改称(貞明→龍德への改元)。原文:「今以薰风方扇,旭日初升,朔既视于正阳,历宜更于嘉号……其贞明七年,宜改为龙德元年」。

出典: 旧五代史 巻十(末帝紀下)

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