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後梁・五代十国第2代

末帝朱友貞

在位 913–923年(10年236日)913年3月27日 〜 923年11月18日

日本は平安時代

朱全忠の子で、兄の友珪を倒して即位し、晋(のちの後唐)に敗れて滅びた後梁の最後の皇帝である。

末帝の人物データ

生年
888年10月20日
在位
  • 913年3月27日〜923年11月18日
10年236日長い順128位/365人即位の年齢は不詳
没年
923年11月18日36歳(数え年)長生き順同率150位/266人
死因
同じ死因15人/365人
即位経路
先代
  • 朱友珪後梁・五代十国末帝は朱友珪の弟
次代
—
呼び名
姓朱諱友貞呼び名の見方

出典

在位
旧五代史 巻八 梁書・末帝紀上/巻十 梁書・末帝紀下
死因
旧五代史 巻十(末帝紀下)
即位経路
旧五代史 巻八(末帝紀上)

生涯

どんな皇帝か

資治通鑑は温恭倹約で荒淫の失はないとしつつ、趙岩・張漢傑を寵信して旧臣を疎んじたことが滅亡を招いたと記し、旧五代史のは仁だが武が無いと評した。

即位まで

朱全忠の子で、母は張氏である。888年に生まれ、容姿が美しく口数が少なく、儒士を好んだ。後梁が建つと均王に封じられた。912年に兄の友珪が父を殺して即位すると、東京の留守を任された。やがて趙岩と謀り、魏州の楊師厚へ腹心を送って説かせた。友珪に召された龍驤軍を、皆穴埋めにされると言って激怒させ、太祖の像を示して泣きながら、洛陽で逆賊を捕らえよと説いた。913年、袁象先らが友珪を倒して即位を請うと、都は太祖が創業した東京にすべきだと答え、東京で即位した。

史料について

旧五代史と新五代史のは、このとき友貞が友珪の詔を偽作したとし、旧五代史の注に引く考異はこれを否定する。

治世と最期

915年、莘県に籠もる劉鄩が奇策は無いと答えると、末帝は怒って督戦させ、劉鄩は、主上は宮禁の奥で兵機を知らないと諸将に語った。翌年に劉鄩は大敗し、河北の諸州が晋に入った。

敬翔は、晋王は自ら薪を負って水を渡るのに陛下は深宮でとだけ事を計っていると諫めた。末帝はその誠意を知りながら、敬翔に恨みがあると趙岩・張漢傑らが言ったため聴かなかった。920年、同州攻めに出た劉鄩が、姻戚の朱友謙に帰順を説いてとどまると、尹皓・段凝らが賊を養っていると訴え、末帝はそれを認めた。のちに召し返された劉鄩に、が朝廷ので毒を飲ませた。

923年、晋王が唐の皇帝を称し、王彦章が中都で敗れて捕らえられた。末帝は敬翔を召し、ふだん卿の上奏を軽んじて今日に至った、朕をどこへ帰すべきか言ってくれと頼み、君臣は向き合って慟哭した。唐軍が迫ると、晋とは代々の仇で刑を待つべきでないと、側近の皇甫麟に命を絶つよう迫った。その夕、末帝は麟の刃で死に、麟も自刎した。

史料について

最期を、旧五代史は麟が刃を進めて帝が崩じたと書き、新五代史は麟が帝に刃を進めたと書き、資治通鑑は麟が弑したと書く。

末帝とつながる皇帝

五代十国の勢力図(913年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

913–922年の地図に、末帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱8・改元2
  1. 反乱914–915年徐州節度使王殷の反乱
  2. 改元915年元号を「貞明」とする
  3. 反乱915年魏博軍乱(賀徳倫兵変・六州の晋への帰属)
  4. 反乱915年康王友孜による宮中クーデター未遂(弑逆謀反)
  5. 反乱916年捉生都将李霸の乱
  6. 反乱919年兗州節度使張守進の反乱
  7. 反乱920年河中節度使朱友謙の反乱(同州占拠・晋への帰順)
  8. 反乱920年陳州妖賊毋乙・董乙の乱
  9. 改元921年元号を「龍徳」とする
  10. 反乱921年陳州刺史惠王友能の反乱

後梁・五代十国の歴代皇帝

歴代2人の一覧

年表

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後梁・五代十国が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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