中国皇帝統計

荘宗・李存勗

後唐(五代十国)|在位 923–926年

荘宗・李存勗の肖像
諱(本名)
李存勗
在位
923–926年
在位期間
3年3日365名中223位
即位経路
建国
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
43歳(数え年)269名中・長寿順116位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
2267名中152位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
4225名中101位タイ
被反乱
8289名中59位タイ
遷都
145名中12位タイ

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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

唐の後継(正統な継承者)を自称して即位したが、実態は後梁を武力で滅ぼし新たに政権を樹立したものであり、既存王朝(後梁)からの禅譲・継承ではない。王朝創始者は建国に統一する既定方針に従う。

出典: 旧五代史 巻三十(唐書・荘宗紀四)

死因の経緯

同光4年4月1日、近衛軍「従馬直」指揮使・郭従謙が本営の部隊を率いて興教門を攻撃。荘宗は自ら防戦したが流矢に当たり崩御。乱後、明宗は郭従謙を「弑荘宗」の首謀者として誅殺した。同一政権内部(禁軍将校)による兵変での謀殺のため暗殺。

出典: 旧五代史 巻三十四(唐書・荘宗紀八)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

同光元年(923年)四月の建元「同光」以降、同光四年(926年)四月の崩御まで年号「同光」を継续使用しており、再改元の记事は见当たらない(旧五代史 卷三十二~三十四でも「同光二年」「同光三年」「同光四年」と继续记载)。したがって皇帝としての改元は即位建元の1回のみ。

大赦回数

同光元年十月(后梁平定直後)にも「宜特行于赦宥」との诏(旧五代史卷三十)があり、伪命流贬责授官の复资・京畿诸道禁囚の减刑等を布告しているが、「大赦天下」の明记がなく、罪の内容も一部限定(大辟罪を流罪に降す等)であるため部分的恩赦とみなしカウント対象外とした。同光四年正月の诏(卷三十四)も「应合抵极刑者,递降一等」等の罪一等减軽に留まり「大赦」の语が無いためカウント対象外。晋王期(天祐年间)にも大赦の明记记事は见当たらない。

立后回数

在位中(晋王期・皇帝期通算)、皇后に册立されたのは刘氏一人のみ。廃后・再冊立の记录は见当たらない。なお同光二年冬十月には淑妃韩氏・德妃伊氏の册立记事があるが、いずれも妃であり皇后ではないため対象外。

皇太子廃立回数

旧五代史 荘宗紀一~八(卷二十七~三十四)を通读したが、荘宗の在位期間中(晋王期・皇帝期とも)に皇太子・皇太弟・皇太孙等の法定推定继承者が立てられた记事、およびその廃立记事は见当たらない。子の李继岌は魏王・诸道行营都统(対蜀征讨の総帅)に任じられたのみで、皇太子册立の记录はない。

親征回数

旧五代史 荘宗紀を通読。即位後(同光元年四月〜同光四年四月)の期間中、荘宗自身が軍を率いて戦場に赴いた事例は後梁討滅の役(同光元年十月)の1件のみ確認できた。前蜀征討(同光三年)は皇子継岌・郭崇韜による代行親征であり荘宗自身は出陣していないため対象外。既存データをそのまま採用。

反乱鎮圧回数

同光四年(926年)二〜三月に鄴都・邢州・西川等で連鎖的に発生した反乱群のうち、政権側が実際に鎮圧に成功したもの(楊立・従馬直兵変・邢州赵太・康延孝)のみを計上。鄴都の乱・沧州王景戡・潞州孔勍は崩御まで未鎮圧のためrebellionSufferedCountのみに計上。既存データをそのまま採用。

被反乱回数

反乱鎮圧回数と同じ4件(楊立・従馬直兵変・邢州赵太・康延孝)に加え、荘宗崩御までに鎮圧が完了しなかった鄴都の乱(貝州兵変・赵在礼・皇甫暉)・沧州王景戡・潞州孔勍の3件、および荘宗自身を弑逆した興教門の変(郭従謙)を合わせて8件。既存データをそのまま採用。

遷都回数

在位中に遷都1回(0923年 汴州(旧梁の東京、開封)→西京(洛陽))。

即位時年齢・没年齢

旧五代史 巻二十七に「唐光启元年岁在乙巳,冬十月二十二日癸亥,生帝于晋阳宫」と出生年月日が明記。同巻の「时年二十有四」は天祐五年(908年)の晋王位継承時の年齢であり皇帝即位(923年)時の年齢ではない(皇帝即位時の年齢は原文に明記なし、生年から数えると数え39歳相当)。崩御は旧五代史 巻三十四に「帝为流矢所中,亭午,崩于绛霄殿之庑下,时年四十三」と明記(コーパスで「时年四十三」を確認済み)。既存データをそのまま採用。

在位中の出来事(18件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

親征923年11月12日〜923年11月19日後梁(朱氏梁、末帝朱瑱)

対象: 後梁(朱氏梁、末帝朱瑱)

結果: 後梁を滅亡させた(汴州陥落、梁末帝は臣下皇甫麟に殺害され、その首級を献上された)

同光元年(923年)十月、自ら大軍を率いて汴州(後梁の都)へ進撃し滅亡させた。即位前(晋王期)の対梁抗争はaccessionRoute領域として対象外、即位後のこの最終親征のみ計上。前蜀征討は魏王継岌・郭崇韜が主帥で荘宗は洛陽に留まり親征していないため計上せず。

遷都923年12月1日汴州(旧梁の東京、開封) → 西京(洛陽)

『旧五代史』荘宗紀四:同光元年(923年)四月に魏州(東京興唐府)で即位したのは建国時の定都のため対象外。同紀四で同光元年十月に後梁を滅ぼし汴州(開封)を占領後、十一月壬子「诏取今月二十四日幸洛京」、甲子(二十四日)「车驾发汴州」、十二月庚午朔「车驾至西京。是日,有司自石桥具仪仗法物,迎引入于大内」と洛陽へ盛儀入城。同時に「汴州开封府复为宣武军」と開封を降格。以後、洛陽が後唐滅亡(936年)までの首都であった。(出典: 旧五代史 荘宗紀四(同光元年十一月~十二月))

反乱鎮圧924年5月〜924年7月潞州小校楊立の乱

首謀者: 楊立

結果: 鎮圧成功(李嗣源が討伐し潞州を収復、楊立は捕らえられ都で磔刑に処された)

同光二年四月丙申、潞州の小校楊立が城を占拠して反乱。李嗣源を招討使として討伐にあたらせ、五月に潞州を収復、六月に楊立らを都に送って磔刑とした。

被反乱924年5月〜924年7月潞州小校楊立の乱

首謀者: 楊立

結果: 反乱側敗北(鎮圧され、楊立は捕らえられて磔刑)

rebellionSuppressionCountと同一事象。

反乱鎮圧926年3月従馬直宿衛兵の反乱未遂

首謀者: 王温ほか4名

結果: 即日鎮圧(他の衛兵に捕らえられ、5名とも本営門前で磔刑に処された)

同光四年二月甲午の夜、宮中宿衛軍「従馬直」の兵士王温ら5名が本軍の指揮官を殺害して反乱を企てたが、同夜のうちに他の衛兵に捕らえられ処刑された。

反乱鎮圧926年3月〜926年4月邢州軍の反乱

首謀者: 赵太

結果: 鎮圧成功(李绍真が邢州を収復し、首謀者赵太ら21名を捕らえて鄴都城下で磔刑に処した)

同光四年二月庚子、邢州の左右歩直軍400人が城を占拠して反乱し、軍校赵太を留後に推戴。李绍真に討伐を命じ、翌三月丁未に邢州を収復、赵太ら21名を処刑した。

反乱鎮圧926年3月〜926年4月康延孝の西川反乱

首謀者: 康延孝

結果: 鎮圧成功(西面行営副招討使任圜が漢州を収復し康延孝を捕らえた)

同光四年二月己亥、魏王継岌が康延孝が反乱し西川に取って返して寇したと奏上。副招討使任圜に討伐を命じ、三月に漢州を収復し康延孝を捕らえた。康延孝は元は後梁の将で荘宗に投降し前蜀征討にも従軍したが、その後反乱した(コーパスで来奔・重用・従軍の経緯を確認済み)。

被反乱926年3月従馬直宿衛兵の反乱未遂

首謀者: 王温ほか4名

結果: 即日鎮圧・処刑された

rebellionSuppressionCountと同一事象。

被反乱926年3月〜926年4月邢州軍の反乱

首謀者: 赵太

結果: 鎮圧された(捕らえられ処刑)

rebellionSuppressionCountと同一事象。

被反乱926年3月〜926年4月康延孝の西川反乱

首謀者: 康延孝

結果: 鎮圧された(捕らえられた)

rebellionSuppressionCountと同一事象。

被反乱926年3月貝州兵変・鄴都の乱

首謀者: 赵在礼(乱兵の首謀者は皇甫暉、赵在礼は乱兵に擁立された)

結果: 未鎮圧のまま荘宗崩御。討伐に向かった元行钦は攻略できず、次いで派遣された李嗣源も鄴都城下で乱兵に擁立される事態となり(後の明宗)、荘宗自身も鎮圧のため東征したが汴州近郊で軍が離散し洛陽へ引き返した直後、興教門の変で崩御した。

同光四年二月丙申、貝州に屯駐していた兵士が皇甫暉らに率いられて指揮使楊仁晸を殺害して反乱し、赵在礼を強制的に主帥に擁立、鄴都(魏州)を占拠。乱の収拾がつかないまま同光四年四月一日、荘宗は興教門の変で崩御した。

被反乱926年3月沧州の反乱(自立)

首謀者: 王景戡

結果: 未鎮圧のまま荘宗崩御(史料上、鎮圧記事が見当たらない)

鄴都の乱と同時期、沧州でも王景戡が城を占拠し自ら留後を称した。詳細な経緯・鎮圧の記録は本紀に見当たらず、荘宗崩御までに鎮圧されたか不明。

被反乱926年4月安義軍節度使孔勍の潞州拠城

首謀者: 孔勍

結果: 未鎮圧のまま荘宗崩御(発覚から数日後に崩御)

荘宗崩御の数日前、安義軍節度使孔勍がすでに監軍使を殺害して潞州城を掌握していたが、朝廷には偽りの奏上をしていた。荘宗崩御までにこの事実が朝廷に把握され鎮圧行動が取られた形跡はない。

被反乱926年5月15日興教門の変(従馬直による弑逆)

首謀者: 郭従謙

結果: 荘宗、乱軍との戦闘中に流矢に当たり崩御

同光四年四月丁丑朔(926-05-15)、近衛軍「従馬直」指揮使の郭従謙が本営の部隊を率いて興教門を攻撃・放火し、荘宗は自ら防戦したが流矢に当たり崩御した。deathCauseと同一事象だが別軸集計のため本カウントにも計上する(基準4:朝廷内部・禁軍将校による兵力を伴う弑逆クーデターのため鎮圧の主体が皇帝側ではない)。乱後、明宗(李嗣源)が郭従謙を「弑荘宗」の首謀者として誅殺した。

改元同光元年四月己巳(923年)「帝升坛,祭告昊天上帝,遂即皇帝位…礼毕,御应天门宣制:改天佑二十年为同光元年,大赦天下」。

「帝升坛,祭告昊天上帝,遂即皇帝位…礼毕,御应天门宣制:改天佑二十年为同光元年,大赦天下」。即位と同時に建元し、皇帝として最初かつ唯一の年号「同光」を制定。【皇帝即位(改元同時)】。晋王時代(907~923年)は唐の元号「天祐」をそのまま継续使用しており独自の改元は行っていないため、本カウントには含めない。

出典: 旧五代史 卷二十九(唐书・庄宗紀三)

大赦同光元年四月己巳(923年)皇帝即位の礼を了えた同日、応天门にて宣制し「改天佑二十年为同光元年,大赦天下」。

皇帝即位の礼を了えた同日、応天门にて宣制し「改天佑二十年为同光元年,大赦天下」。十恶五逆・放火行劫・持杖杀人・官典犯赃・屠牛铸钱・合造毒药を除き罪の轻重を问わず赦免。【皇帝即位(改元同時)】

出典: 旧五代史 卷二十九(唐书・庄宗紀三)

大赦同光二年二月己巳朔(924年)南郊圜丘にて昊天上帝を亲祀した礼毕後、五凤楼にて宣制し「大赦天下,应同光二年二月一日昧爽已前,所犯罪无轻重常赦所不原者,咸赦除之」(十恶五逆・屠牛铸钱・故意杀人・合造毒药・持杖行劫・官典犯赃は除く)。

南郊圜丘にて昊天上帝を亲祀した礼毕後、五凤楼にて宣制し「大赦天下,应同光二年二月一日昧爽已前,所犯罪无轻重常赦所不原者,咸赦除之」(十恶五逆・屠牛铸钱・故意杀人・合造毒药・持杖行劫・官典犯赃は除く)。【皇帝在位中】

出典: 旧五代史 卷三十一(唐书・庄宗紀五)

立后同光二年四月己卯(924年)「帝御文明殿,册魏国夫人刘氏为皇后」正式册立の礼。

「帝御文明殿,册魏国夫人刘氏为皇后」正式册立の礼。なお同年正月癸未に「宰臣豆卢革率百官上表,请立中宫。制以魏国夫人刘氏为皇后,仍令所司择日备礼册命」との立后の制が先行して出されており、四月に正式册命の礼を挙行した一连の立后事象として1回とカウント。

出典: 旧五代史 卷三十一(唐书・庄宗紀五)

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