後梁・
朱友珪
在位 912–913年(249日)912年7月21日 〜 913年3月27日
日本は平安時代
父の朱全忠を殺して後梁の帝位を奪い、翌年に宮中へ攻め込まれて死んだ皇帝である。
朱友珪の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 912年7月21日〜913年3月27日
- 没年
- 913年年齢不詳
- 死因
- 自害自ら命を絶った死。廃位や敗戦に追い詰められての死や、朝廷から死を賜った死を含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因15人/365人
- 即位経路
- 簒奪前の皇帝を退けて、自ら位を奪った即位。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。
- 先代
- 太祖朱全忠後梁・
五代十国 朱友珪は太祖の子
- 太祖朱全忠後梁・
- 次代
- 末帝後梁・
五代十国 末帝は朱友珪の弟
- 末帝後梁・
- 呼び名
- 姓朱諱友珪幼名遥喜呼び名の見方
- 目立つ記録
- 遷都 1回多い順同率9位
出典
- 在位
- 旧五代史 梁書・
太祖紀七(末尾)/末帝紀上(冒頭) - 死因
- 新五代史 巻十三(梁家人伝第一)/旧五代史 巻十一(引『五代会要』)
- 即位経路
- 旧五代史 巻七(梁書・
太祖紀七)/巻八(末帝紀上)
生涯
どんな皇帝か
死後は庶人官位や身分を持たない、ふつうの民に廃された。春秋の法なら君と書くべきなのになぜ本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分に入れないのかという問いに、欧陽脩は賊を討った末帝の志を伸べるためと答えた。
即位まで
朱全忠の子で、母は身分の低い女だった。成長すると弁が立って悪賢く、郢王に封じられた。父は養子の博王友文を愛し、その妻の王氏を寵愛した。友珪は不満を抱き、過ちを咎められて鞭打たれ、いっそう不安になった。912年、莱州刺史州という地方の区画を治めた長官に出されると、左遷された者は多く後に死を賜っていたため、恐れた。妻の張氏は、伝国の宝が王氏に渡ったと告げて夫婦で泣いた。友珪は統軍軍を率いる武官の役職名の韓勍と謀り、その牙兵将軍が身辺に置いた直属の兵五百とともに禁中皇帝の住む宮中の奥に入って潜み、夜に寝殿へ押し入った。驚いて起きた父が、もとからこの賊を疑っていたと叫んだ後、配下の馮廷諤が父の腹を刺した。友珪は喪を秘し、友文が謀反して兵を殿中皇帝の宮殿の内に突入させたのを自分が討ったと偽る詔を出し、東都の友文を殺させた。府庫の金帛を諸軍と百官朝廷のすべての役人に賜り、友文の死を聞いてから喪を発して即位した。
史料について
母を、旧五代史は亳州の営妓、新五代史は旅宿の女とする。妻が泣いた場面を、資治通鑑は左遷の前、新五代史は後に置く。友文を殺させたのを、資治通鑑と旧五代史の末帝紀は弟の均王に命じたとし、新五代史は均王の名を出さない。
治世と最期
志を得るとたちまち荒淫になり、金帛を与えても誰も従わなかった。
河中の朱友謙は即位を認めず、晋に付いた。懐州で叛いた龍驤軍の党類を一族ごと誅し続け、大梁の龍驤軍を召すと、弟の均王につけ込まれ、天子はお前たちを穴埋めにするつもりだと兵を激怒させられた。
913年、袁象先らが禁兵宮中や都を守る兵を率いて宮中に突入すると、友珪は妻と馮廷諤とともに逃れようとして果たせず、廷諤に妻と自分を殺させ、廷諤も自ら命を絶った。死後、庶人に廃された。
史料について
龍驤軍を召したのを、旧五代史の末帝紀と新五代史は均王が友珪の詔を偽ったとし、旧五代史の注に引く考異は実際に友珪が召したとする。死を、旧五代史は宗室伝で自殺、末帝紀で誅殺と書き分ける。
朱友珪とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱4・遷都1・改元1・大赦2
- 反乱912年8月5日張厚の乱(匡国節度使韓建殺害)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。912年8月16日
- 反乱912年9月龍驤軍の乱(懐州戍卒の潰乱)
- 反乱912年9月朱友謙の離反(河中節度使、晋への帰順)
- 改元913年2月元号を「鳳暦」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。913年2月
- 反乱913年3月袁象先の禁軍クーデター(均王友貞擁立)
- 遷都913年3月西都(洛陽) → 東京(開封)
後梁・五代十国の歴代皇帝
歴代2人の一覧- 第1代太祖朱全忠907–912年暗殺
- 歴代外朱友珪912–913年自害
- 第2代末帝913–923年自害
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