朱友珪
後梁・五代十国|在位 912–913年
- 諱(本名)
- 朱友珪
- 在位
- 912–913年
- 在位期間
- 243日365名中312位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 自尽
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 4回289名中127位タイ
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
実父太祖を弑殺した後、偽の詔で博王友文に謀逆の罪を着せて誅殺させ、自ら皇帝位に即いた。
出典: 旧五代史 巻七(梁書・太祖紀七)/巻八(末帝紀上)
死因の経緯
均王友貞(末帝)のクーデターにより洛陽の宮城を突破され、妻張氏と共に北垣楼下まで逃れたが城壁を越えられず、配下の馮廷諤に命じて妻と自分を刺させた。『五代会要』も「友珪自殺」と明記。臣下に自裁を強要された場合は実行形式を優先し自尽に分類する既定方針に従う。
出典: 新五代史 巻十三(梁家人伝第一)/旧五代史 巻十一(引『五代会要』)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
旧五代史 巻八(末帝紀上、引『五代会要』)にも「至乾化二年六月三日篡位、伪改凤历元年」との記載があり、新五代史(巻十三)の「三年正月、友珪祀天于洛阳南郊、改元曰凤历」と符合する。十国春秋(呉越世家)も「天宝六年春正月梁友珪改元凤历」と同時期の改元を記録しており、複数史料で一致。友珪即位から凤历改元までは乾化の元号を継続使用していたため、改元は在位中1回のみ。
大赦回数
友珪在位(乾化二年六月~乾化三年二~三月)中の大赦は、旧五代史(巻七・太祖紀七/巻八・末帝紀上)・新五代史(巻十三・梁家人伝第一)本文には明記が確認できなかった。唯一、十国春秋(呉越世家、呉越の天宝年号で「天宝六年春正月梁友珪改元凤历肆赦」と記載)に改元と同時の大赦が記録されており、これを1回として計上した。一次史料(旧・新五代史)による直接の裏付けがないため confidence は medium とした。
立后回数
友珪の妻は張氏(新五代史では終始「友珪妻張氏」と記される)だが、皇后として正式に冊立されたとの記載はいずれの史料にもなし。友珪誅殺時、張氏は友珪と共に冯廷谔の手で殺害された(新五代史 巻十三)。友珪自身が父を弑して簒奪した「篡逆」の身分で、正史では「庶人」として扱われ本紀を立てられていないことも、正式な立后儀礼が行われなかったことと符合する。
皇太子廃立回数
同上。皇太子の冊立・廃立に関する記事は一切見当たらない。
親征回数
『資治通鑑』巻268(乾化二年六月~乾化三年二月、友珪在位期間)を確認したが、友珪自身が軍を率いて出征した記録は見当たらない。在位中に生じた龍驤軍の乱・朱友謙の離反への対応はいずれも韓勍・康懐貞・牛存節・霍彦威・杜晏球ら将軍の派遣によるもので、皇帝自身の親征ではない。在位期間が乾化二年六月~凤历元年二月の約8か月と短く、対等勢力(十国・契丹等)との外征も確認されない。
反乱鎮圧回数
_corpus_cache自体には友珪在位中の反乱鎮圧の詳細記載がなく、『資治通鑑』巻268(乾化二年六月~乾化三年二月)を追加確認して判定した。楊師厚が友珪の召還に応じて兵1万を率い洛陽に迫った一件(友珪が財貨で懐柔し無事に帰した)は、実際の交戦や離反宣言に至らなかったため反乱として計上していない。
被反乱回数
_corpus_cache自体には最後のクーデター(既存deathCauseと重複)以外の反乱記載がなく、『資治通鑑』巻268を追加確認して判定した。張厚の乱・楊師厚が潘晏を殺害し天雄鎮を掌握した一件(友珪はこれも追認したのみ)は史料が「作乱」の語を用いず友珪への反抗という文脈も薄いため反乱として計上せず(張厚の乱は「作乱」の語が明記され上官殺害という点で計上対象とした)。
遷都回数
在位中に遷都1回(0913年 西都(洛陽)→東京(開封))。
即位時年齢・没年齢
『旧五代史』(末帝紀上・列伝)『新五代史』梁家人伝第一・『資治通鑑』巻268いずれにも友珪の生年・没年齢の直接記載(「時年◯◯」等)は見当たらず、逆算可能な即位前後の年齢記載も確認できなかった。母は「亳州営倡」(亳州の営妓)で、太祖が宣武節度使として宋・亳間を転戦していた際(880年代前半頃)に生まれたとされるのみで、具体的な生年は不明。調査済みだが不明として確定する。
在位中の出来事(9件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
被反乱912年7月張厚の乱(匡国節度使韓建殺害)
首謀者: 張厚
結果: 不鎮圧のまま在位終了。許州の馬歩都指揮使張厚が上官である匡国節度使韓建を殺害し実権を奪ったが、友珪は「不敢诘」(罰することができず)、逆に張厚を陳州刺史に任命して黙認した。
『資治通鑑』巻268乾化二年六月条「许州军士更相告变、匡国节度使韩建皆不之省、亦不为备。丙申、马步都指挥使张厚作乱、杀建、友珪不敢诘。甲辰、以厚为陈州刺史」。友珪の統治機構下にある将領による武装蜂起であり、鎮圧が着手されなかったためsuppressionには含めずsufferedのみに計上(パターン2)。
反乱鎮圧912年9月龍驤軍の乱(懐州戍卒の潰乱)
首謀者: 劉重遇
結果: 鎮圧成功。東京馬歩軍都指揮使霍彦威・左耀武指揮使杜晏球を派遣し乱軍を撃破、首謀者劉重遇を鄢陵で捕らえ処刑。ただし残党の捜索は経年(翌年まで)続いた。
『資治通鑑』巻268乾化二年八月「龍驤軍三千人戍怀州者、溃乱东走、所过剽掠…击破乱军、执其都将刘重遇于鄢陵、斩之」。この乱および残党捜索は_corpus_cache内の『通鉴考异』引用(『梁太祖实录』丙戌条)にも痕跡が残る。
反乱鎮圧912年9月朱友謙の離反(河中節度使、晋への帰順)
首謀者: 朱友謙
結果: 鎮圧失敗。友珪は韓勍を西面行营招讨使として討伐を命じたが友謙は晋(後の後唐)に帰順して救援を求め、九月に康懐貞(後に牛存節と合流、5万の兵)で河中城を包囲するも晋王李存勗自ら救援に来援し梁軍は解县で大敗、陝州へ撤退。友珪在位中(凤历元年二月の弑逆まで)ついに解決せず、末帝即位後の三月に懐柔でようやく帰順した。
『資治通鑑』巻268乾化二年八月~十月、乾化三年三月条。護国節度使冀王朱友謙が友珪の即位を認めず「先帝晏驾不以理、吾且至洛阳问罪」と拒絶したことに始まる。友珪の統治機構下にある節度使(服属民)の離反であり、対等勢力間の統一戦争とは区別して計上した。
被反乱912年9月龍驤軍の乱(懐州戍卒の潰乱)
首謀者: 劉重遇
結果: 鎮圧成功(首謀者劉重遇を捕殺、残党捜索は経年に及んだ)
rebellionSuppressionCountの同名事件と対応。
被反乱912年9月朱友謙の離反(河中節度使、晋への帰順)
首謀者: 朱友謙
結果: 鎮圧失敗。友珪在位中は未解決のまま崩御し、末帝代に懐柔で解決した。
rebellionSuppressionCountの同名事件と対応。
改元913年1月友珪は乾化二年(912年)六月に父・太祖を弑して即位したが、その年の残りは先代の元号「乾化」をそのまま使用(改元せず)。
友珪は乾化二年(912年)六月に父・太祖を弑して即位したが、その年の残りは先代の元号「乾化」をそのまま使用(改元せず)。翌乾化三年(913年)正月、洛陽南郊で郊天の礼を行い、正式に「凤历」と改元した。この1回のみを改元としてカウントする(即位時点では建元せず既存の乾化を継続使用したため、即位に伴う建元は発生していない)。この凤历の号は非正統として扱われ、友珪誅殺後、末帝により乾化三年に戻された。
出典: 新五代史 巻十三(梁家人伝第一)
大赦913年1月乾化三年(凤历元年)正月、友珪が洛陽南郊で郊天の礼を行い凤历と改元した際に大赦(原文「肆赦」)を実施したとの記載。
乾化三年(凤历元年)正月、友珪が洛陽南郊で郊天の礼を行い凤历と改元した際に大赦(原文「肆赦」)を実施したとの記載。旧五代史・新五代史の梁関連本紀・列伝には友珪在位中の大赦の明記は見当たらないが、十国春秋(呉越世家)に改元と同時の大赦が記録されている。
出典: 十国春秋 巻七十八(吴越世家二)
遷都913年2月西都(洛陽) → 東京(開封)
『旧五代史』末帝紀上:乾化二年(912年)に朱友珪が太祖朱温を弑して洛陽で即位したが、翌年(凤历元年=乾化三年)二月に均王朱友貞(末帝)が挙兵し友珪を誅殺。将領らが洛陽での即位を勧めたが、末帝は「夷门,太祖创业之地……若都洛下,非良图也。公等如坚推戴,册礼宜在东京」と述べて洛陽定都を拒否し、「是月,帝即位于东京,乃去凤历之号,称乾化三年」と東京開封で即位。以後、後梁滅亡(923年)まで開封が首都であり続けた。(出典: 旧五代史 末帝紀上(乾化三年二月))
被反乱913年3月袁象先の禁軍クーデター(均王友貞擁立)
首謀者: 袁象先(駙馬都尉趙岩・均王友貞と共謀、杨師厚の黙認を得て決行)
結果: 友珪弑逆・自尽により廃位。凤历元年二月十七日(庚寅、グレゴリオ暦0913年3月)、侍衛親軍都指揮使袁象先が禁兵数千を率いて宮城に突入、友珪は妻張氏と共に北垣楼下に逃れたが逃げ切れず馮廷諤に妻と自身を刺させ自尽した。
『資治通鑑』巻268乾化三年二月条・『新五代史』梁家人伝第一と符合(既存deathCauseフィールドと同一事件)。朝廷内部の軍事権力者によるクーデターであり、鎮圧の主体が皇帝側でないためrebellionSuppressionCountには計上せずsufferedのみに計上(パターン4)。クーデターを主導した均王友貞(次代末帝)自身の即位前行為はaccessionRoute領域のため、友貞側の記録としては対象外。