中国皇帝統計

閔帝・李従厚

後唐(五代十国)|在位 933–934年

諱(本名)
李従厚
在位
933–934年
在位期間
155日365名中331位
即位経路
世襲
死因
暗殺
即位時年齢
20歳(数え年)172名中・若い順77位タイ
没年齢
21歳(数え年)269名中・長寿順230位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

明宗の実子(五男)として柩前即位した正規継承。

出典: 旧五代史 巻四十五(唐書・閔帝紀)

死因の経緯

潞王李従珂の挙兵で廃位・鄂王に降格後、末帝の命により衛州刺史の子・王峦が持参した鴆(毒酒)で毒殺された。政権交代直後の勝者による隠密な鴆殺であり、南朝ブロック等で確立した「政権交代後の隠密な謀殺」パターンに準じ暗殺と判定。

出典: 旧五代史 巻四十五(唐書・閔帝紀)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

『旧五代史』閔帝紀(長興4年12月の柩前即位〜応順元年4月の廃位・崩御まで)を通読。改元は応順元年正月の1回のみ確認。閔帝は明宗の実子として柩前で正規に即位した皇帝であり、王・天王からの2段階即位パターンには該当しない。

大赦回数

在位中(長興4年12月〜応順元年4月、約4ヶ月間)に「大赦」「大赦天下」と明記された記事はこの応順改元時の1回のみで、他に確認されなかった。

立后回数

『旧五代史』閔帝紀本文には立后(冊立)の記事はなく、末尾に「皇后孔氏」の記載があるのみ。ただし『新五代史』后妃伝(愍帝哀皇后孔氏伝)に「愍帝即位,立为皇后,未及册命而难作」と明記されており、閔帝即位に伴い孔氏を皇后とすることは定まったが、正式な冊命(冊立の儀)が行われる前に潞王李従珂の挙兵という政変が発生し儀礼が完遂しなかったと判断してcount 0とした。『旧五代史』輯本注(『五代会要』引用)も、孔氏は当初「鲁国夫人」に封じられていたとするのみで、皇后への冊立儀礼の記事は確認できない。孔氏は応順元年4月の廃位直後、末帝の命で四子とともに殺害された。

皇太子廃立回数

『旧五代史』閔帝紀(長興4年12月の柩前即位〜応順元年4月の廃位・崩御まで、在位約4ヶ月間)を通読したが、「太子」「皇太子」の語は盧質の官職「太子少傅」の1箇所のみで、実際に皇太子(皇太弟・皇太孫等を含む)が立てられた記事・廃された記事はいずれも見当たらない。

親征回数

在位約4ヶ月間(長興4年12月〜応順元年4月)を通読したが、帝自身が軍を率いて出征した記録はない。潞王李従珂討伐は王思同・薬彦稠・安彦威・康義誠ら諸将が指揮し、帝自身は洛陽の宮中に留まった。原文「朕当与左右自往凤翔,迎兄主社稷」と自ら赴く意向を一度示した箇所はあるが、康義誠の諫止(「臣请自往关西」)により実行されず、実際の親征(帝自らの出征)には至っていない。

反乱鎮圧回数

在位中の反乱鎮圧事案は、応順元年2月に発生した潞王李従珂の拒命(鳳翔での自立)に対する討伐の1件のみ確認。安州節度使符彦超が部曲王希全に殺害された記事(正月丁巳「安州奏,此月七日夜,节度使符彦超为部曲王希全所害,废朝一日」)も確認したが、続報・朝廷による鎮圧行動の記事が原文になく、皇帝統治に対する継続的な武装反乱と断定する根拠が乏しいため計上しなかった(一節度使の私的な部曲による殺害事件として除外)。

被反乱回数

鎮圧側(rebellionSuppressionCount)と同一の潞王李従珂の反乱を計上しているためcountは一致(1件)。

遷都回数

旧五代史帝紀を通読。荘宗期の洛陽遷都を継承、以後追加の遷都記録なし。

即位時年齢・没年齢

生年は『旧五代史』閔帝紀冒頭「天祐十一年岁在甲戌,十一月二十八日庚申,生帝于晋阳旧第」と直接記載(天祐十一年=914年、干支庚申が暦計算と一致)。没年齢は「帝遇鸩而崩,时年二十一」(応順元年四月九日=0934-05-24、鴆殺)と直接記載。即位時年齢20歳は生年(914年)と即位年(長興4年12月1日、柩前即位)の差分から数え年で逆算した値で、没年齢21歳と整合。原文中の干支(正月朔壬申・閏月朔壬寅・二月乙亥・二月庚寅・三月甲辰・三月庚申・四月三〜九日等)をsxtwlで換算し、既存データと日精度まで一致することを本タスクで再確認済み。

在位中の出来事(4件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元934年1月24日応順元年(長興五年)正月七日戊寅、明堂殿にて「長興五年を応順元年と改める」と改元。

応順元年(長興五年)正月七日戊寅、明堂殿にて「長興五年を応順元年と改める」と改元。即位(長興4年12月1日、柩前即位)の時点では先代明宗の長興を継続使用しており、翌年正月に改めて改元した。原文:「戊寅,御明堂殿,仗卫如仪,宫悬乐作,群臣朝服就位,宣制大赦天下,改长兴五年为应顺元年。」

出典: 旧五代史 巻四十五(唐書・閔帝紀)

大赦934年1月24日応順元年(長興五年)正月七日戊寅、明堂殿での改元と同時に大赦天下を宣した。

応順元年(長興五年)正月七日戊寅、明堂殿での改元と同時に大赦天下を宣した。原文:「戊寅,御明堂殿,仗卫如仪,宫悬乐作,群臣朝服就位,宣制大赦天下,改长兴五年为应顺元年。」

出典: 旧五代史 巻四十五(唐書・閔帝紀)

被反乱934年4月6日〜934年5月24日潞王李従珂の反乱

首謀者: 潞王李従珂(明宗の養子、のちの後唐末帝)

結果: 反乱成功。討伐軍が瓦解したのち潞王が東進、洛陽を占領して応順元年四月五日に即位(末帝)。閔帝は四月七日に鄂王へ降格・廃位され、四月九日、末帝の命により衛州で鴆殺された(享年21)。

原文:「(二月)庚寅…西京留守王思同奏,凤翔节度使、潞王从珂拒命」に始まり、鳳翔での討伐軍瓦解・潞王の東進(侍衛馬軍都指揮使安従進の内応による枢密使冯贇殺害、枢密使朱宏昭の投井自殺、帝の出奔と従騎の誅殺を含む)を経て、「四月三日,潞王入洛。五日,即位。七日,废帝为鄂王…九日,帝遇鸩而崩,时年二十一」に至る一連の反乱・弑逆事件を1件として計上した。安従進による冯贇殺害は潞王側に内応した将による兵力を伴う実力行使であり、独立したクーデターとしては別立てせず同一反乱の一環として扱った。

反乱鎮圧934年4月13日〜934年5月2日潞王李従珂反乱鎮圧の試み(鳳翔討伐)

首謀者: 王思同(西面行営都部署)・薬彦稠(副部署)・のち康義誠(凤翔行営都招討使)

結果: 失敗。西面行営都部署王思同・副部署薬彦稠らが鳳翔を包囲攻撃したが、応順元年三月十六日、厳衛右廂都指揮使尹暉・右羽林都指揮使楊思権らの部隊が戦陣で潞王側に寝返り、討伐軍は瓦解(「山南軍潰」)。王思同は潼関で潞王軍に捕らえられ殺害された。後任として康義誠が凤翔行営都招討使に任じられたが、出陣する間もなく政権中枢が崩壊(冯贇殺害・朱宏昭投井自殺・帝の出奔)し、鎮圧は完全に失敗した。

原文:「丁酉,王思同加同平章事,充西面行营都部署」(討伐軍編成の起点)〜「庚申,西面步军都监王景从等自军前至,奏:今月十五日,大军进攻凤翔。十六日,严卫右厢都指挥使尹晖引军东面入城,右羽林都指挥使杨思权引军西面入城,山南军溃」(討伐軍瓦解)〜「甲子,陕州奏,潞王至潼关,害西面都部署王思同」。

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