明宗・李嗣源
後唐(五代十国)|在位 926–933年

- 諱(本名)
- 李嗣源
- 在位
- 926–933年
- 在位期間
- 7年197日365名中150位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 67歳(数え年)269名中・長寿順21位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 3回267名中121位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 16回225名中20位タイ
- 被反乱
- 17回289名中22位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
鄴都反乱鎮圧に派遣された李嗣源は自軍の兵変により本人の意に反して鄴城内に押し込まれた後、脱出して洛陽を目指す過程で諸方の軍が帰順。荘宗が興教門の変で崩御した後、群臣・重臣の推戴を経て監国・柩前即位した。自ら荘宗を弑したわけではなく群臣の推戴と正式な喪礼儀礼を経ての即位のため擁立と判定(境界事例、簒奪的側面もあり)。
出典: 旧五代史 巻三十四(荘宗紀八)/巻三十五(明宗紀一)
死因の経緯
長興4年11月26日崩御。原文に不審な兆候の記述はなく自然死と判定。
出典: 旧五代史 巻四十四(唐書・明宗紀十)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
明宗在位中の元号は天成(926年建元)・长兴(930年改元)の2つで、改元回数は計2回。長兴四年(933)に崩御するまで長兴が継続使用され、以後の改元はない。皇帝以外の身分(王等)での在位期間はなく、2段階即位パターンには該当しない。国号変更(例:大越→漢など)に相当する事象もない。
大赦回数
旧五代史・明宗紀(巻三十五~四十四)を通読し「大赦」の語で検索したところ、全国規模の「大赦天下」が明記された事例は3件のみ(即位建元時・长兴改元時・长兴四年受尊号時)。地域限定の恩赦・特赦の類は含めていない。
立后回数
在位中に生前に正式冊立された皇后は曹氏の1名のみ。なお先妻の夏氏(秦王从荣・愍帝の生母)は明宗即位前に既に死去しており、天成元年にまず晋国夫人に追封、长兴四年三月甲辰に至り「故晋国夫人夏氏追册皇后,有司上谥曰昭懿」として追册・追諡されているが、これは没後の追贈であり生前の正式冊立ではないため、本カウントには含めない(旧五代史巻四十四・明宗紀十、新五代史巻十四)。
皇太子廃立回数
明宗の在位中(天成元年~长兴四年)、皇太子は一度も正式に立てられていない。长兴四年、太仆少卿何泽が秦王从荣を皇太子に立てるよう上書したが、明宗はこれを喜ばず「群臣欲立太子,吾当养老于河东」と述べ、大臣らも可否を明言できず、从荣自身も「臣实不愿也」と固辞したため立太子の議は実現せず、代わりに从荣は天下兵马大元帅に任じられるに留まった(新五代史 巻六 明宗紀四年条、巻十五 从荣伝)。同年十一月、从荣は兵を率いて宮城を攻めたが敗死した(旧五代史巻四十四・新五代史巻六)。皇太子号を帯びた者が存在しない以上、廃立の事実もなく、廃立回数は0回とする。
親征回数
旧五代史 明宗紀(巻三十五~四十四)を通読。皇帝自身が軍を率いて出征したと明記される事例は天成三年十月の硃守殷討伐一件のみ。それ以外の対内反乱鎮圧・対外戦争(契丹・定州王都・荆南高季兴・東川董璋・夏州李彝超等)はすべて将軍・節度使への派遣によるもので、personalCampaignCountには含めない(rebellionSuppressionCount側で計上)。
反乱鎮圧回数
rebellionSufferedCountと同一の17件のうち、夏州留後李彝超の朝命拒否(0933-03-17~0933-07-21)は朝廷側の討伐が「王师攻夏州无功」で失敗・撤兵し、明宗崩御(長興四年十一月)まで未解決のまま在位が終了したため、鎮圧の着手はあったが完了しなかった事例としてsuppressionCountには含めずsufferedCountのみに計上した(差異1件)。それ以外の16件は成否を問わず鎮圧の主体が皇帝側(政権側)であったため両カウントに共通して計上。日付・分類判定の詳細根拠はrebellionSufferedCountのnoteを参照。
被反乱回数
旧五代史 明宗紀(巻三十五~四十四、天成元年~長興四年)を通読し、明宗の在位期間中(0926-06-03~0933-12-15)に起きた「反・谋叛・谋乱・作乱・拒命」等の記述を悉皆抽出。五代本朝内の各節度使・指揮使・刺史・軍士等による離反・武装蜂起はすべて計上し、後唐と対等な十国勢力(呉・前蜀・後蜀・南漢・南唐・閩・北漢等)との統一戦争は除外した。荊南(南平)高季興・東川董璋の件は事件当時なお後唐の藩鎮であり十国としての事実上の独立確立以前のため反乱として計上(note内に判定理由を明記)。日付は西暦換算アンカー4点(既存フィールドで確認済みの0926-06-03・0930-03-23・0933-08-27・0933-12-15)に基づく線形補間による概算のため全件datePrecision=monthとした。
遷都回数
旧五代史帝紀を通読。荘宗期の洛陽遷都を継承、以後追加の遷都記録なし。
即位時年齢・没年齢
既存データを再検証し、そのまま採用。生年は旧五代史巻三十五(明宗紀一)冒頭に「以唐咸通丁亥岁九月九日,懿皇后生帝于应州之金城县」と明記(咸通八年丁亥=867年)。没年は旧五代史巻四十四(明宗紀十)に「戊戌,帝崩于大内之雍和殿,寿六十七」(长兴四年十一月戊戌=0933-12-15)と明記、享年67。即位時(天成元年四月丙午、926年)の年齢は原文に直接記載なくaccessionAgeはnullのまま。
在位中の出来事(40件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元926年6月11日荘宗の急死を受け、天成元年四月丙午(0926-06-03)に柩前で即皇帝位、同月甲寅(0926-06-11、8日後)に文明殿にて受朝し「制改同光四年为天成元年,大赦天下」と正式に改元の詔を発布。
荘宗の急死を受け、天成元年四月丙午(0926-06-03)に柩前で即皇帝位、同月甲寅(0926-06-11、8日後)に文明殿にて受朝し「制改同光四年为天成元年,大赦天下」と正式に改元の詔を発布。即位に伴う最初の建元。原文:「(四月)甲寅,帝御文明殿受朝。制改同光四年为天成元年,大赦天下」。
出典: 旧五代史 巻三十六(明宗紀二)
大赦926年6月11日天成元年四月甲寅(即位の丙午から8日後、文明殿にて受朝の日)、改元の詔と同時に「大赦天下」。
天成元年四月甲寅(即位の丙午から8日後、文明殿にて受朝の日)、改元の詔と同時に「大赦天下」。原文:「甲寅,帝御文明殿受朝。制改同光四年为天成元年,大赦天下」。
出典: 旧五代史 巻三十六(明宗紀二)
反乱鎮圧926年7月麟州指揮使張延寵の乱
首謀者: 麟州指揮使 張延寵
結果: 地方官によりすでに鎮圧・殺戮済みの状態で朝廷に報告された
rebellionSufferedCountと同一事象。原文(明宗紀二・巻三十六、天成元年五月条):「麟州奏,指挥使张延宠作乱,焚剽市民,已杀戮讫。」
被反乱926年7月麟州指揮使張延寵の乱
首謀者: 麟州指揮使 張延寵
結果: 地方官によりすでに鎮圧・殺戮済みの状態で朝廷に報告された
天成元年五月、麟州の指揮使張延寵が「作乱」し市民を焼き掠めたが、報告時点ですでに「已杀戮讫」(地方の官憲により鎮圧済み)。原文(明宗紀二・巻三十六、天成元年五月条):「麟州奏,指挥使张延宠作乱,焚剽市民,已杀戮讫。」
反乱鎮圧926年8月汴州控鶴指揮使張談・趙虔の乱
首謀者: 汴州屯駐控鶴指揮使 張談(張諫)・謀乱指揮使 趙虔ほか
結果: 張談ら伏誅、趙虔以下3000人族誅、孔循が権知汴州となる
rebellionSufferedCountと同一事象。原文(明宗紀二・巻三十六、天成元年六月条):「汴州屯驻控鹤指挥使张谏等谋叛伏诛」「汴州知州孔循奏,召集谋乱指挥使赵虔已下三千人并族诛讫」。
反乱鎮圧926年8月滑州軍士の乱
首謀者: 滑州左右崇牙・長剣等軍の軍士(首謀者不詳)
結果: 軍士数百人を族誅、都校于可洪等も阙下で斬首
rebellionSufferedCountと同一事象。原文(明宗紀二・巻三十六、天成元年七月条):「诛滑州左右崇牙及长剑等军士数百人,夷其族,作乱故也。」
被反乱926年8月汴州控鶴指揮使張談・趙虔の乱
首謀者: 汴州屯駐控鶴指揮使 張談(張諫)・謀乱指揮使 趙虔ほか
結果: 張談ら伏誅、趙虔以下3000人族誅、孔循が権知汴州となる
天成元年六月、汴州屯駐の控鶴指揮使張談らが謀叛し伏誅。続けて汴州知州孔循が謀乱指揮使趙虔以下3000人を族誅と奏上。原文(明宗紀二・巻三十六、天成元年六月条):「汴州屯驻控鹤指挥使张谏等谋叛伏诛,以枢密使孔循权知汴州军州事」「汴州知州孔循奏,召集谋乱指挥使赵虔已下三千人并族诛讫」。同一の汴州騒乱の一連の鎮圧行動として1件に集約。
被反乱926年8月滑州軍士の乱
首謀者: 滑州左右崇牙・長剣等軍の軍士(首謀者不詳)
結果: 軍士数百人を族誅、都校于可洪等も阙下で斬首
天成元年七月、滑州の左右崇牙・長剣等の軍士数百人が作乱し、その一族もろとも誅殺された。原文(明宗紀二・巻三十六、天成元年七月条):「诛滑州左右崇牙及长剑等军士数百人,夷其族,作乱故也。其都校于可洪等相次到阙,亦斩于都市。」
反乱鎮圧926年9月涿州刺史劉殷肇の乱
首謀者: 涿州刺史 劉殷肇
結果: 王建立の派兵により劉殷肇と一党13人を捕縛
rebellionSufferedCountと同一事象。原文(明宗紀二・巻三十六、天成元年七月条):「镇州留后王建立奏,涿州刺史刘殷肇不受代,谋叛,昨发兵收掩,擒刘殷肇及其党一十三人。」
被反乱926年9月涿州刺史劉殷肇の乱
首謀者: 涿州刺史 劉殷肇
結果: 王建立の派兵により劉殷肇と一党13人を捕縛
天成元年七月、涿州刺史劉殷肇が交代命令を拒否して謀叛。鎮州留後王建立が発兵して鎮圧。原文(明宗紀二・巻三十六、天成元年七月条):「镇州留后王建立奏,涿州刺史刘殷肇不受代,谋叛,昨发兵收掩,擒刘殷肇及其党一十三人,见折足勘诘。」
反乱鎮圧926年10月登州刺史王公儼の乱
首謀者: 登州刺史 王公儼
結果: 霍彦威が王公儼と同党を擒殺
rebellionSufferedCountと同一事象。原文(明宗紀二・巻三十六、天成元年八月末~九月条):「新授青州节度使霍彦威奏,处斩新登州刺史王公俨,及同谋拒命指挥使李谨、王居厚等八人讫。」
被反乱926年10月登州刺史王公儼の乱
首謀者: 登州刺史 王公儼
結果: 霍彦威が王公儼と同党を擒殺
天成元年九月頃、登州刺史王公儼が監軍楊希望を殺害して州城を占拠し符節を求めたが、青州節度使に代わった霍彦威により擒殺された。原文(明宗紀二・巻三十六、天成元年八月末~九月条):「新授青州节度使霍彦威奏,处斩新登州刺史王公俨,及同谋拒命指挥使李谨、王居厚等八人讫」「彦威惩其初心,遣人擒公俨于北海县,与同党斩于州东」。
反乱鎮圧927年3月〜927年6月荊南(南平)高季興の乱
首謀者: 荊南節度使(南平王)高季興
結果: 討伐軍(劉訓ら)は不首尾で撤兵(「训南征无功」)。高季興は天成三年十一月に病没、子の高従誨が天成四年に帰順・進貢し、天成四年十月に高季興の官爵が追復された
rebellionSufferedCountと同一事象。討伐そのものは軍事的には失敗・撤兵したが、明宗の在位中(天成四年、929年)に高季興の病没と子の帰順によって事態は収束したため、成否を問わず鎮圧試行事例として計上(rebellionSufferedCountのnote参照)。原文(明宗紀三、天成二年二月条):「制曰:荆南节度使...南平王高季兴可削夺官爵,仍令襄州节度使刘训充南面招讨使...统蕃汉马步四万人进讨,以其叛故也」。
被反乱927年3月〜927年6月荊南(南平)高季興の乱
首謀者: 荊南節度使(南平王)高季興
結果: 討伐軍(劉訓ら)は不首尾で撤兵(「训南征无功」)。高季興は天成三年十一月に病没、子の高従誨が天成四年に帰順・進貢し、天成四年十月に高季興の官爵が追復された
天成二年二月、荊南節度使高季興が朝命に叛いたため官爵削奪の詔が出され、劉訓・夏魯奇・董璋・西方鄴らに討伐を命じたが、五月には「诏罢荆南之师」と撤兵。原文(明宗紀三、天成二年二月条):「制曰:荆南节度使...南平王高季兴可削夺官爵,仍令襄州节度使刘训充南面招讨使...统蕃汉马步四万人进讨,以其叛故也」。高季興は当時なお後唐から南平王・荊南節度使の官爵を受ける藩鎮であり(後の十国「荊南(南平)」としての事実上の独立確立は本事件以降に進行したものであり、本件時点では明確な対等勢力ではなく叛乱と判定)、天成三年十一月に病没(「房知温奏,荆南高季兴卒」)、子高従誨は天成四年に「上章首罪,乞修职贡」して帰順、天成四年十月に「制复故荆南节度使高季兴官爵」。明宗の在位中に一連の事態は収束したため鎮圧・被反乱双方に計上。
反乱鎮圧927年5月盧台戍軍の乱
首謀者: 盧台戍軍(銀槍効節軍)
結果: 房知温・安審通が鎮圧、乱兵はほぼ全滅
rebellionSufferedCountと同一事象。原文(明宗紀三、天成二年四月条):「前月二十一日,卢台戍军乱,害副招讨宁国军节度使乌震,寻与安审通斩杀乱兵讫。」
被反乱927年5月盧台戍軍の乱
首謀者: 盧台戍軍(銀槍効節軍)
結果: 房知温・安審通が鎮圧、乱兵はほぼ全滅
天成二年三月二十一日、盧台に駐屯していた銀槍効節軍が乱を起こし副招討・寧国軍節度使乌震を殺害。房知温・安審通が鎮圧し乱兵はほぼ全滅した。原文(明宗紀三、天成二年四月条・前月の記事):「前月二十一日,卢台戍军乱,害副招讨宁国军节度使乌震,寻与安审通斩杀乱兵讫」。詳細な経緯は同紀に長文で記述(银枪效节军の由来、房知温の脱出、掃討の顛末等)。
反乱鎮圧928年5月〜929年3月定州(義武軍)王都の乱
首謀者: 義武軍節度使(太原王) 王都
結果: 王晏球が天成四年二月に定州を奪還・王都を討ち取り鎮圧成功
rebellionSufferedCountと同一事象。原文:「北面副招讨、宋州节度使王晏球以定州节度使王都反状闻」(明宗紀五、天成三年四月条)、「王晏球奏,此月三日收复定州,获王都首级」(明宗紀六、天成四年二月条)。
被反乱928年5月〜929年3月定州(義武軍)王都の乱
首謀者: 義武軍節度使(太原王) 王都
結果: 契丹の援軍も撃退し、王晏球が天成四年二月に定州を奪還・王都を討ち取り鎮圧成功
天成三年四月、定州節度使王都の反乱が報告され官爵削奪の詔が出た。契丹の援軍も得たが王晏球・安審通らが唐河・満城・易州で連戦連勝し、天成四年二月三日に定州を陥落させ王都の首級を得た。原文:「北面副招讨、宋州节度使王晏球以定州节度使王都反状闻」(明宗紀五、天成三年四月条)、「王晏球奏,此月三日收复定州,获王都首级,生擒契丹托诺等二千余人」(明宗紀六、天成四年二月条)。
親征928年11月汴州節度使硃守殷(反乱鎮圧のための親征)
対象: 汴州節度使硃守殷(反乱鎮圧のための親征)
結果: 汴州を攻略し硃守殷を誅殺、鎮圧成功
天成三年十月、汴州節度使硃守殷が反乱を起こすと、明宗は自ら禁軍を率いて昼夜兼行で急行し、翌日汴州城を攻略して守殷を誅殺した。原文(旧五代史 明宗紀六・巻四十、天成三年十月条):「戊子,次京水,知硃守殷反,帝亲统禁军倍程前进。翼日,至汴州,攻其城,拔之,守殷伏诛。」明宗の在位中(天成元年~长兴四年)を通読した限り、皇帝自身が軍を率いて戦場に赴いた事例はこの一件のみ(契丹侵攻への対応・王都討伐・董璋討伐・荆南討伐等はいずれも将軍派遣のみで、皇帝本人は出征していない)。日付は西暦換算アンカー(0926-06-03・0930-03-23・0933-08-27・0933-12-15、いずれも既存フィールドで確認済み)に基づく線形補間による概算のためdatePrecisionはmonthとした。
反乱鎮圧928年11月汴州節度使硃守殷の乱
首謀者: 汴州節度使 硃守殷
結果: 明宗自らの親征により汴州陥落、硃守殷伏誅
rebellionSufferedCount・personalCampaignCountと同一事象。原文(明宗紀六、天成三年十月条):「知硃守殷反,帝亲统禁军倍程前进。翼日,至汴州,攻其城,拔之,守殷伏诛。」
被反乱928年11月汴州節度使硃守殷の乱
首謀者: 汴州節度使 硃守殷
結果: 明宗自らの親征により汴州陥落、硃守殷伏誅
天成三年十月、汴州節度使硃守殷が反乱。明宗自ら禁軍を率いて急行し、翌日汴州城を攻略して硃守殷を誅殺した。原文(明宗紀六、天成三年十月条):「知硃守殷反,帝亲统禁军倍程前进。翼日,至汴州,攻其城,拔之,守殷伏诛。」personalCampaignCountとも重複計上(明宗自身の親征)。
反乱鎮圧929年11月〜929年12月慶州刺史竇廷琬の乱
首謀者: 慶州刺史 竇廷琬
結果: 邠州節度使李敬周が慶州を攻略、竇廷琬は族誅
rebellionSufferedCountと同一事象。原文(明宗紀六、天成四年十月条・十二月条):「诏邠州节度使李敬周攻庆州,以刺史窦廷琬拒命故也」「邠州节度使李敬周奏,收下庆州,刺史窦廷琬族诛。」
反乱鎮圧929年11月安州駐屯軍の乱
首謀者: 安州屯駐左神捷・左懐順軍の軍士(首謀者不詳)
結果: 高行珪が乱兵を城外に逐い出し、何福進が残兵500人余を招収・処断
rebellionSufferedCountと同一事象。原文(明宗紀六、天成四年十月条・十一月条):「安州节度使高行珪奏,屯驻左神捷、左怀顺军士作乱,已逐杀出城」「捧圣指挥使何福进招收到安州作乱兵士五百人...并斩。」
被反乱929年11月〜929年12月慶州刺史竇廷琬の乱
首謀者: 慶州刺史 竇廷琬
結果: 邠州節度使李敬周が慶州を攻略、竇廷琬は族誅
天成四年十月、慶州刺史竇廷琬が朝命を拒否したため邠州節度使李敬周に討伐が命じられ、同年十二月に慶州は陥落し竇廷琬は族誅された。原文(明宗紀六、天成四年十月条):「诏邠州节度使李敬周攻庆州,以刺史窦廷琬拒命故也」、(同十二月条):「邠州节度使李敬周奏,收下庆州,刺史窦廷琬族诛。」
被反乱929年11月安州駐屯軍の乱
首謀者: 安州屯駐左神捷・左懐順軍の軍士(首謀者不詳)
結果: 安州節度使高行珪が乱兵を城外に逐い出し、後日捧聖指揮使何福進が残兵500人余を招収・処断
天成四年十月、安州に屯駐する左神捷・左懐順の軍士が作乱したが高行珪により城外に逐い出され、翌十一月に捧聖指揮使何福進が残兵を招収し首謀者級の者を斬った。原文(明宗紀六、天成四年十月条):「安州节度使高行珪奏,屯驻左神捷、左怀顺军士作乱,已逐杀出城」、(同十一月条):「捧圣指挥使何福进招收到安州作乱兵士五百人,自指挥使已下至节级四十余人并斩,余众释之。」
改元930年3月23日长兴元年二月乙卯、南郊にて昊天上帝を祀る礼を終えた当日、五凤楼にて「宣制:改天成五年为长兴元年;大赦天下」と改元。
长兴元年二月乙卯、南郊にて昊天上帝を祀る礼を終えた当日、五凤楼にて「宣制:改天成五年为长兴元年;大赦天下」と改元。原文:「乙卯,祀昊天上帝于圜丘,柴燎礼毕,郊宫受贺。是日,御五凤楼,宣制:改天成五年为长兴元年;大赦天下」。
出典: 旧五代史 巻四十一(明宗紀七)
大赦930年3月23日长兴元年二月乙卯、南郊祀天の礼を終えた当日、五凤楼にて改元と同時に「大赦天下,除十恶五逆、放火劫舍、屠牛、官典犯赃、伪行印信、合造毒药外,罪无轻重,咸赦除之」。
出典: 旧五代史 巻四十一(明宗紀七)
反乱鎮圧930年5月河中衙内指揮使楊彦温の乱
首謀者: 河中衙内指揮使 楊彦温
結果: 索自通・薬彦稠が河中を奪還、楊彦温は斬首
rebellionSufferedCountと同一事象。原文(明宗紀七、長興元年四月条):「衙内指挥使杨彦温据城叛」「索自通、药彦稠等奏,收复河中,斩杨彦温,传首来献。」
被反乱930年5月河中衙内指揮使楊彦温の乱
首謀者: 河中衙内指揮使 楊彦温
結果: 索自通・薬彦稠が河中を奪還、楊彦温は斬首
長興元年四月五日、皇子従珂が河中を留守中に衙内指揮使楊彦温が城に拠って反乱(宣命を奉じたと詐称)。索自通・薬彦稠が攻略し楊彦温を斬った。原文(明宗紀七、長興元年四月条):「衙内指挥使杨彦温据城叛」「索自通、药彦稠等奏,收复河中,斩杨彦温,传首来献。」なおこの事件は権臣安重誨が皇子従珂を陥れるための策謀との疑いが史書に付記されている。
立后930年6月13日长兴元年五月丁丑、淑妃曹氏を皇后に正式册立。
长兴元年五月丁丑、淑妃曹氏を皇后に正式册立。原文:「丁丑,帝临轩,命使册淑妃曹氏为皇后」。同年三月庚寅に先立ち「制淑妃曹氏可立为皇后,仍令择日册命」と立后の詔が出され、五月丁丑に正式な册命の礼を行った。曹氏は明宗が即位する前からの正妻で、天成元年に楚国夫人から淑妃に封じられていた(新五代史巻十四・皇后伝:「明宗即位,议立皇后,而曹氏当立…乃立曹氏为皇后」)。
出典: 旧五代史 巻四十一(明宗紀七)
反乱鎮圧931年10月〜932年6月東川節度使董璋の乱
首謀者: 東川節度使 董璋
結果: 朝廷は討伐の詔を発し石敬瑭らを都招討使に任命。董璋は最終的に汉州で孟知祥に大敗し部下王暉に殺害され乱は終息
rebellionSufferedCountと同一事象(分類判定理由は同note参照)。原文(明宗紀八、長興二年九月条):「东川节度使董璋谋叛,结连西川孟知祥」「诏东川节度使董璋可削夺在身官爵,仍征兵进讨」、(明宗紀九、長興三年六月条):「东川董璋领兵至汉州,西川孟知祥出兵逆战,璋大败...寻为...王晖所杀。」
被反乱931年10月〜932年6月東川節度使董璋の乱
首謀者: 東川節度使 董璋(西川節度使孟知祥も一時連座して官爵削奪)
結果: 朝廷は討伐の詔を発し石敬瑭らを都招討使に任命。実際には董璋は汉州で孟知祥に大敗し、部下王暉に殺害されて乱は終息
長興二年九月、東川節度使董璋が西川節度使孟知祥と結んで謀叛。朝廷は董璋の官爵を削奪し石敬瑭を東川行営都招討使、夏魯奇を副招討使に任じ討伐(夏魯奇は「没于王事」=この戦いで戦死)。孟知祥も一時「削夺官爵」とされたが、実際には董璋と交戦し長興三年六月に汉州で董璋を大破、董璋は部下王暉に殺害され乱は自壊的に終息した。孟知祥自身は朝廷側との交戦には至らず、事件後まもなく明宗に帰順・和解し(長興四年二月に剣南東西両川節度使・蜀王に封じられる)、当時はなお後唐の藩鎮であり、後蜀建国は明宗没後の934年のため独立十国政権との統一戦争ではなく藩鎮の叛乱と判定。原文(明宗紀八、長興二年九月条):「利、阆、遂三州奏,东川节度使董璋谋叛,结连西川孟知祥」「诏东川节度使董璋可削夺在身官爵,仍征兵进讨」、(明宗紀九、長興三年六月条):「东川董璋领兵至汉州,西川孟知祥出兵逆战,璋大败...寻为...王晖所杀,孟知祥已入梓州。」
反乱鎮圧932年1月〜932年3月党項諸族の叛乱
首謀者: 党項諸族(阿埋等十族、方渠・白魚谷方面)
結果: 薬彦稠・康福が討伐し党項の大首領6人・諸羌2千余人を捕獲
rebellionSufferedCountと同一事象。原文(明宗紀九、長興三年正月条・二月条):「遣邠州节度使药彦稠、灵武节度使康福率步骑七千往方渠讨党项之叛者」「药彦稠奏,诛党项阿埋等十族,与康福入白鱼谷追袭叛党,获大首领六人、诸羌二千余人。」
被反乱932年1月〜932年3月党項諸族の叛乱
首謀者: 党項諸族(阿埋等十族、方渠・白魚谷方面)
結果: 薬彦稠・康福が討伐し党項の大首領6人・諸羌2千余人を捕獲
長興三年正月、邠州節度使薬彦稠・霊武節度使康福に党項の叛乱を討伐するため方渠へ出兵を命じ、二月に白魚谷で追撃・掃討した。原文(明宗紀九、長興三年正月条):「遣邠州节度使药彦稠、灵武节度使康福率步骑七千往方渠讨党项之叛者」、(同二月条):「药彦稠奏,诛党项阿埋等十族,与康福入白鱼谷追袭叛党,获大首领六人、诸羌二千余人、孳畜数千」。党項は西北辺境の服属部族であり、原文が明確に「叛」の語を用いていることから被服属民の叛乱として計上。
反乱鎮圧932年3月霊武都指揮使許審環の乱
首謀者: 霊武都指揮使 許審環
結果: 謀乱発覚後ただちに伏誅
rebellionSufferedCountと同一事象。原文(明宗紀九、長興三年二月条):「灵武奏,都指挥使许审环等谋乱伏诛。」
被反乱932年3月霊武都指揮使許審環の乱
首謀者: 霊武都指揮使 許審環
結果: 謀乱発覚後ただちに伏誅
長興三年二月、霊武の都指揮使許審環らが謀乱を企てたが伏誅した。原文(明宗紀九、長興三年二月条):「灵武奏,都指挥使许审环等谋乱伏诛。」党項討伐と同日に報告されているが主体・場所とも別件のため独立の1件として計上。
被反乱933年3月〜933年7月夏州留後李彝超の朝命拒否
首謀者: 夏州留後(後の夏州節度使) 李彝超
結果: 朝廷は延州への転任を命じ安従進に討伐させたが「王师攻夏州无功」で撤兵、李彝超はそのまま夏州を保持し明宗崩御まで未解決のまま終わった
長興四年三月、夏州節度使李仁福の死去に伴い子の李彝超が留後を自称、朝廷は延州への転任を命じたが三軍百姓に拥隔されて赴任せず、朝廷は安従進に夏州攻撃を命じたものの七月に「诏安从进班师,时王师攻夏州无功故也」と失敗・撤兵した。以後、明宗崩御(長興四年十一月)までこの問題が再度取り上げられた記述はなく未解決のまま在位が終わったため、rebellionSuppressionCountには含めずrebellionSufferedCountのみに計上する。原文(明宗紀十、長興四年三月条):「延州节度使安从进奏,夏州节度使李仁福卒,其子彝超自称留后」、(同七月条):「诏安从进班师,时王师攻夏州无功故也。」
大赦933年8月27日长兴四年八月戊申、尊号「圣明神武广运法天文德恭孝皇帝」の受册の礼を終え「制大赦天下,常赦所不原者咸赦除之」。
长兴四年八月戊申、尊号「圣明神武广运法天文德恭孝皇帝」の受册の礼を終え「制大赦天下,常赦所不原者咸赦除之」。改元を伴わない単独の大赦。
出典: 旧五代史 巻四十四(明宗紀十)
反乱鎮圧933年11月秦王李従栄の兵変
首謀者: 天下兵馬大元帥・秦王 李従栄
結果: 禁軍が撃退し従栄は敗走中に殺害された
rebellionSufferedCountと同一事象。鎮圧の主体は明宗側(宮中の禁軍)であったため計上。原文(明宗紀十、長興四年十一月条):「天下大元帅...秦王从荣领兵阵于天津桥,内出禁军拒之。从荣败奔河南府,遇害。」
被反乱933年11月秦王李従栄の兵変
首謀者: 天下兵馬大元帥・秦王 李従栄
結果: 禁軍が撃退し従栄は敗走中に殺害された
長興四年十一月、天下兵馬大元帥・秦王李従栄が明宗重篤の報を受け天津橋に兵を陣し宮城に迫ったが、明宗は宮中の禁軍を出して防がせ、従栄は敗れて河南府に逃れる途中で殺害された。従栄は正式な皇太子ではなく(crownPrinceDepositionCount参照)、朝廷内部の兵権を持つ皇族による武力クーデターであり、鎮圧の主体は明宗側(禁軍)であったためrebellionSuppressionCountにも計上する。原文(明宗紀十、長興四年十一月条):「天下大元帅、守尚书令、兼侍中、秦王从荣领兵阵于天津桥,内出禁军拒之。从荣败奔河南府,遇害。」