中国皇帝統計

世宗・柴栄

後周(五代十国)|在位 954–959年

世宗・柴栄の肖像
諱(本名)
柴栄
在位
954–959年
在位期間
5年152日365名中182位
即位経路
世襲
死因
病死
即位時年齢
34歳(数え年)172名中・若い順121位タイ
没年齢
39歳(数え年)269名中・長寿順137位タイ
改元
0
大赦
1267名中194位タイ
立后
2204名中14位タイ
皇太子廃立
0
親征
5112名中12位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

郭威の甥で養子として迎えられ、生前より開封尹・晋王として後継者の地位を確立、郭威の遺制により柩前で即位。

出典: 旧五代史 巻一百十三(周書・太祖紀四)

死因の経緯

契丹遠征中、瓦橋関で発病し帰還を待たず崩御。

出典: 旧五代史 巻一百十九(周書・世宗紀六)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

顕徳の元号は世宗の即位前、太祖郭威自身が顕徳元年正月丙子朔の郊祀に際し「大赦天下,改廣順四年爲顯德元年」と改元したもの(旧五代史巻一百十三・太祖紀四)。太祖はその後同月壬辰に崩御し、世宗は丙申に柩前で即位したが、既に定まっていた顕徳の元号をそのまま継続使用したため、世宗自身による改元・建元とはみなさない。世宗は顕徳元年〜六年(顕徳六年六月崩御)まで在位中一度も改元しておらず、eraChangeCount=0とした。

大赦回数

旧五代史世宗紀一〜六(巻一百十四〜一百十九)を通読し「大赦天下」等の明記がある全国規模の恩赦を抽出。「曲赦」は地域限定のため除外した。

立后回数

顕徳四年四月壬午「故彭城郡夫人劉氏追冊爲皇后」(旧五代史巻一百十七・世宗紀四)は既に故人となっていた先妻への没後の追冊であり、生前の正式冊立ではないため本カウントには含めていない(既存データの後燕慕容熙条にある先例と同様の扱い)。廃后・再冊立の事例はなし。

皇太子廃立回数

世宗の在位中(顕徳元年〜六年)に皇太子(皇太弟・皇太孫を含む)が立てられた記録は見当たらず、従って廃立の記録もない。世宗自身も太祖の代に正式な「皇太子」号を受けたわけではなく、開封尹・判内外兵馬事という形で事実上の後継者の地位を得ていた。世宗の子・宗訓(後の恭帝)も顕徳六年六月癸未に梁王に封じられたのみで、皇太子には立てられていない。

親征回数

旧五代史世宗紀一〜六(巻一百十四〜一百十九)を通読。北漢・契丹(顕徳元年)、南唐(顕徳三〜五年、3回)、契丹(顕徳六年)の計5回、いずれも「车驾发京师」「帝亲率诸军」等の記述で皇帝本人の出陣が明記されている。淮南(南唐)遠征は同一相手だが、毎回京師へ帰還した後に新たな詔で再出征しており、年をまたいだ再出征として3回に分けてカウントした(既存の他エンペラー事例における運用基準に整合)。

反乱鎮圧回数

旧五代史世宗紀一〜六を通読したが、世宗の在位中(顕徳元年〜六年)に後周が鎮圧主体となった服属民・節度使等の離反・武装蜂起は見当たらなかった。北漢・南唐・契丹との戦争は対等な独立政権・外国勢力との統一戦争/外征でありrebellionSuppressionCountの対象外(personalCampaignCountに計上済み)。潘叔嗣による朗州節度使王進逵殺害(顕徳三年、湖南・武平軍領域内部の権力闘争)は後周が鎮圧行動を取っておらず(新指導者・周行逢をそのまま追認)、対象外とした。

被反乱回数

旧五代史世宗紀一〜六を通読したが、世宗の統治機構下(後周直轄の節度使・将軍・官僚)による離反・武装蜂起で世宗自身に対して起こされたものは見当たらなかった。検討したが除外した事案:(a)顕徳三年二月、潘叔嗣による朗州節度使王進逵殺害は湖南・武平軍節度使領域(半独立政権)内部の権力闘争であり、後周が直接の攻撃対象になったものではない。(b)顕徳六年正月、青州節度使・陳王安審琦が部曲に殺害された事件は記述が一行のみで蜂起の規模・性質が不明のため不採用。北漢・南唐・契丹との戦争は対等な独立政権・外国勢力との統一戦争/外征でありrebellionSufferedCountの対象外(personalCampaignCountに計上済み)。高平の戦いで敗走した将軍樊愛能・何徽の処刑は臨陣逃亡(軍紀違反)による処罰であり、反乱には該当しないため対象外とした。

遷都回数

旧五代史帝紀を通読。後漢の都・開封をそのまま継承、在位中を通じて遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

旧五代史巻一百十四(周書・世宗紀一)冒頭に「帝以唐天祐十八年,歲在辛巳,九月二十四日丙午,生於邢州之別墅」と生年月日が直接記載。巻一百十九(世宗紀六)崩御記事に「帝崩于萬歲殿,聖壽三十九」と没年齢(数え年)が直接記載されている。即位時年齢34歳(数え年)は生年(921年)と即位年(顕徳元年=954年)の差から逆算した値で、没年齢39歳(959年)との整合(959-921+1=39)を確認済み。既存データを再検証し変更なし。

在位中の出来事(8件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

親征954年4月〜954年7月北漢(劉崇)・契丹(援軍)

対象: 北漢(劉崇)・契丹(援軍)

結果: 高平の戦いで北漢・契丹連合軍に大勝(貼将張暉らを斬殺、契丹軍は不戦のまま撤退)。逃走した劉崇を追撃して北漢の都・太原を包囲したが、大雨と兵站難のため攻略できず撤退(北漢政権は存続)。

顕徳元年三月癸未「诏以刘崇入寇,车驾取今月十一日亲征」、乙酉「车驾发京师」で出征、癸巳に高平で会戦・大勝。潞州経由でそのまま「亲征刘崇」と明記された太原包囲戦に移行し(京師への帰還を挟まない継続行動)、六月庚午「帝至自河东」で帰京。北漢・契丹は後周と対等な独立政権・外国勢力であり反乱扱いとせず親征のみに計上。

親征956年2月〜956年6月南唐(李景)

対象: 南唐(李景)

結果: 正陽で南唐の劉彦貞軍を撃破、滁州・泰州・光州等を制圧する等緒戦に連勝。しかし寿州(寿春)包囲は長期化し攻略できず、李穀の退却の失策もあって戦線が伸びたため、いったん京師へ帰還(南唐はなお抵抗を継続)。

顕徳三年正月「车驾发京师」で淮南(南唐)へ出征、五月「上至自淮南」で帰京。南唐は後周と対等な独立政権(十国の一つ)であり親征回数にのみ計上。

親征957年3月〜957年5月南唐(李景)

対象: 南唐(李景)

結果: 紫金山に集結した南唐の援軍を撃破して寿州を孤立させ、守将劉仁贍が降伏して寿州(寿春)が陥落。淮南北部の要衝を制圧して京師へ帰還。

顕徳四年二月「车驾发京师」で再出征、四月「车驾至自下蔡」で帰京。前回(顕徳三年)の遠征とは京師帰還を挟んで年をまたいだ再出征のため、既存データ(例:隋煬帝の高句麗三征)の運用基準に従い別カウントとした。

親征957年11月〜958年5月南唐(李景)

対象: 南唐(李景)

結果: 濠州・泗州・楚州を相次いで攻略し南唐軍を各地で撃破。南唐主李景は江北十四州六十県の割譲・臣従を申し出て講和し、淮南全域の平定を完了して京師へ帰還。

顕徳四年冬十月「诏取月内车驾暂幸淮上」壬午「驾发京师」で三度目の淮南出征、翌顕徳五年四月「车驾发扬州还京」で帰京。前回(顕徳四年二月〜四月)の遠征と京師帰還を挟んで再出征のため別カウントとした。

親征959年4月〜959年6月契丹(遼)

対象: 契丹(遼)

結果: 契丹側の守将が相次いで無血開城し瓦橋関・益津関等三関三州(州十七県)を接収したが、幽州攻略を目前に発病、遠征を中止して帰還する途上崩御した(帰京直後の同月に崩御)。

顕徳六年三月甲戌「车驾发京师」で契丹(遼)征討へ出征、五月甲戌「上至自雄州」で帰京、同月癸巳に崩御。契丹は服属していない外国勢力のため親征回数にのみ計上。

大赦顕徳元年三月辛巳(954年)河東(劉崇)出兵の詔に続き「制:大赦天下,常赦所不原者,咸赦除之」と全国規模の大赦を実施。

河東(劉崇)出兵の詔に続き「制:大赦天下,常赦所不原者,咸赦除之」と全国規模の大赦を実施。なお同年正月丙子朔の大赦(旧五代史巻一百十三太祖紀四、改元「広順四年為顕徳元年」と同時)は太祖郭威が崩御(同月壬辰)する前に自ら行ったもので世宗自身の治世下の事績ではないため対象外とした。在位中に見られる「曲赦潞州」(顕徳元年)「曲赦秦鳳階成等州」(顕徳二年)「曲赦寿州管内」(顕徳四年)「曲赦淮南道諸州」(顕徳三年)はいずれも地域限定の恩赦のため含めていない。

出典: 旧五代史 巻一百十四(周書・世宗紀一)

立后顕徳元年四月壬戌(954年)衛国夫人符氏(後の宣懿皇后)を皇后に冊立。

衛国夫人符氏(後の宣懿皇后)を皇后に冊立。原文「制立衛國夫人符氏爲皇后,仍令有司擇日備禮冊命」。同后は顕徳三年七月辛亥に崩じ、同年十月に「宣懿皇后」と諡され懿陵に葬られた。

出典: 旧五代史 巻一百十四(周書・世宗紀一)

立后顕徳六年六月癸未(959年)魏王符彦卿の娘(先の宣懿皇后の妹、通称「小符皇后」)を皇后に冊立。

魏王符彦卿の娘(先の宣懿皇后の妹、通称「小符皇后」)を皇后に冊立。原文「立魏王符彥卿女爲皇后,仍令所司擇日備禮冊命」。世宗はその直後の同年六月癸巳に崩御し、恭帝の代も引き続き皇后(のち皇太后)となった。

出典: 旧五代史 巻一百十九(周書・世宗紀六)

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