
後周(五代十国)第2代分裂期の王朝中国がいくつもの政権に分かれていた時代に、その一つを占めた王朝・政権。
世宗柴栄
在位 954–959年(5年151日)954年2月26日 〜 959年7月27日
日本は平安時代
郭威の養子として後周を継ぎ、北漢を高平で破り、南唐から淮南を、遼から関南を奪ったが、幽州を前に病に倒れた皇帝である。
世宗の人物データ
- 生年
- 921年10月27日
- 在位
- 954年2月26日〜959年7月27日
- 没年
- 959年7月27日39歳(数え年)長生き順同率135位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
出典
- 在位
- 旧五代史・
周書 世宗紀一(即位)/世宗紀六(崩御) - 死因
- 旧五代史 巻一百十九(周書・
世宗紀六) - 即位経路
- 旧五代史 巻一百十三(周書・
太祖紀四)
生涯
どんな皇帝か
新五代史の欧陽脩は明達英果と称え、旧五代史の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は一代の英主としつつ、刑は峻に過ぎたと記す。
即位まで
本姓は柴で、郭威の妻柴氏の兄の子にあたり、921年に邢州で生まれ、幼くして叔母に従って郭威の家で育った。成長すると騎射に優れ、沈着で口数が少なかった。子の無い郭威の家が落ちぶれていた頃、謹厚さを買われて家の事を任され、よく切り盛りして養子とされた。950年、李業らの変で、都にいた妻の劉氏と幼い子らが殺された。953年に晋王に封じられ、954年に郭威が没すると喪を伏せたまま遺制亡くなった皇帝の名で出される命令の文書が出され、柩の前で即位した。
史料について
殺された子を、新五代史は3人とし、旧五代史は子の宗誼が漢末に害されたとする。
治世と最期
即位直後に北漢と契丹が攻め寄せると、馮道の反対を押して親征君主が自ら軍を率いて戦いに出ることし、高平で右翼の将が逃げるなか自ら親騎を率いて督戦し、大勝した。戦後、逃げた樊愛能・何徽ら将校70余人を斬ったので、驕った将も怠けた兵も恐れを知った。妻の符氏は、世宗が激しく怒るといつも落ち着いて取りなした。955年には勅額の無い寺院を廃し、出家に父母の許しと経文の試験を課した。銭を鋳るため民間の銅器や仏像を官に納めさせ、わが身で民を救えるなら惜しまないと述べた。
956年から南唐へ親征し、寿州を降して958年に淮南を平定し、州14・県60を得た。同じ年、唐の元稹の均田田地にかかる税の負担を公平にならすことの上奏を読んで図に描かせ、賦税を均すため諸道に配った。
959年に遼へ北征して瓦橋関などを戦わずに降した。幽州攻めを議すると諸将は早いと反対し、世宗は不満だったが、その日に病んで取りやめた。都に戻ってまもなく没した。
史料について
仏像についての言葉は資治通鑑と新五代史の論にあり、旧五代史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分には無い。幽州の議を、旧五代史の本紀は世宗が聴かず、その夜に病んだとし、資治通鑑は先鋒を固安へ出したその日に病んだとする。没した所を、旧五代史は万歳殿、新五代史は滋徳殿とする。旧五代史の史臣と資治通鑑は、刑の厳しさを世宗は後に自ら悔い、末年にはしだいに寛くしたと書く。
世宗とつながる皇帝

勢力図
五代十国の勢力図で見る
954–959年の地図に、世宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
親征5・皇后2・大赦1
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。954年4月〜954年7月北漢(劉崇)・
契丹(援軍) - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。954年4月12日
- 皇后954年5月23日衛国夫人符氏(後の宣懿皇后)を皇后に冊立。
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。956年南唐(李景)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。957年南唐(李景)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。957–958年南唐(李景)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。959年4月〜959年6月契丹(遼)
- 皇后959年7月17日皇后を立てる
後周の歴代皇帝
歴代3人の一覧- 第1代太祖951–954年病死
- 第2代世宗954–959年病死
- 第3代恭帝959–960年不詳
年表
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