赫連昌は夏の赫連勃勃の子で、即位後に北魏に都を奪われて捕らえられ、のちに北魏から逃れようとして殺された。
赫連昌の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 425年〜428年
- 没年
- 434年年齢不詳
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 呼び名
- 姓赫連諱昌字還国呼び名の見方
出典
- 在位
- 十六国春秋輯補 巻六十七 夏録二(赫連昌)
- 死因
- 魏書/卷95
- 即位経路
- 魏書/卷95
生涯
どんな皇帝か
晋書の載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録は赫連昌について、潼関で晋将を捕らえた働きと、継いでまもなく魏に捕らえられたことを短く書く。
即位まで
赫連勃勃の第三子で、413年に太原公に封じられて潼関に鎮した。418年には潼関で晋の朱齢石らを攻め落として捕らえ、長安へ送った。身の丈八尺で、姿が美しかった。父が長子の赫連璝を廃そうとして争いが起こると、赫連昌は璝を襲って殺し、太子に立てられた。425年に父が死ぬと、即位した。
史料について
十六国春秋と魏書は第三子、北史は第二子とする。争いを、魏書は璝が挙兵して父を攻めたとし、資治通鑑は璝が弟の赫連倫を殺したのち赫連昌が璝を襲ったとし、十六国春秋は事情を書かない。晋書の載記にはこの争いが無い。
治世と最期
426年、北魏の太武帝が統万を奇襲すると、冬至の宴の最中だった赫連昌は出戦して敗れ、城に退いた。427年に再び攻められた。魏に降った将は、赫連昌が城を守って弟の赫連定を待つ策をよしとしていると告げた。ところが赫連昌は、逃げ込んだ魏兵の、魏軍は兵糧が尽きたという話を信じて城を出て大敗し、上邽へ逃れた。弟や兄の子は戦場で死に、妻妾や宮人宮中に仕え暮らした女性たちは捕らえられた。太武帝ははじめ、国を失った逃亡者は後で取ればよいと追撃を渋ったが、奚斤が強く求めたので許した。
428年、赫連昌は安定に籠る魏軍の、租の取り立てに出た部隊を破り、毎日のように攻め寄せた。短気で謀が無いと見た監軍軍を見張り監督する役の安頡は、奚斤が渋るなか、ひそかに騎兵を選んで待ち構えた。赫連昌は大風の中で退く途中に馬から落ち、安頡に捕らえられた。
太武帝は赫連昌を平城へ迎えて西宮の門内に住まわせ、妹の始平公主を娶らせて会稽公とした。二人だけで鹿を追うこともあり、諸将が危ぶむと、天命があるなら何を恐れようと言った。430年春に秦王に進められた。その冬には平涼で、城を守る赫連定の弟の社于に降伏を説かされたが、このときは降らなかった。434年に北魏から逃げ出し、二日後に討ち取られた。弟たちもみな誅された。
史料について
十六国春秋の別伝は、秦州へ逃れて娥清に捕らえられたとし、資治通鑑の考異は魏書に従う。十六国春秋は、のちに謀反に坐して誅されたとだけ書く。
赫連昌とつながる皇帝

勢力図
南北朝の勢力図で見る
425–428年の地図に、赫連昌が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
親征3・改元1・大赦1
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。425年赫連勃勃の死を受けて永安殿で即位し、境内へ殊死已下の赦を行った。
- 改元425年9月元号を「承光」とする
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。426年北魏(太武帝拓跋燾の奇襲軍)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。427年北魏(太武帝拓跋燾)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。428年3月北魏(奚斤・
安頡の軍)
夏・五胡の歴代皇帝
歴代3人の一覧- 第1代武烈帝419–425年病死
- 第2代赫連昌425–428年処刑
- 第3代赫連定428–431年処刑
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