中国皇帝統計

赫連昌

夏・五胡(五胡十六国)|在位 425–428年

諱(本名)
赫連昌
在位
425–428年
在位期間
2年270日365名中234位
即位経路
世襲
死因
処刑
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
3112名中24位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

父・赫連勃勃の死後に後を継いだ(『魏書』原文「始光二年,屈孑死,昌僭立」)。勃勃末年の後継者争い(長男・赫連璝の挙兵とその鎮圧)を経て三男の赫連昌が太子に立てられ、即位した。

出典: 魏書/卷95補記: zh.wikisource.org原文

死因の経緯

427年に北魏の侵攻で統万城が陥落すると上邽に逃れて抗戦したが428年に安定で北魏軍に捕らえられた。太武帝の庇護下で会稽公・秦王として厚遇され始平公主を娶ったが、434年に弟・赫連定の敗死後に謀反を企てて西走を図り、誅殺された。『魏書』巻95原文「後侍御史安頡擒昌,世祖使侍中古弼迎昌至京師…又詔昌尚始平公主,假常忠將軍、會稽公,封為秦王。坐謀反,伏誅」。

出典: 魏書/卷95補記: zh.wikisource.org原文

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

昌の在位中(425-428年、北魏に捕縛されるまで)に確認できる改元はこの即位時の建元のみ。それ以降、捕縛(安颉が昌を擒える)までの間に改元記事はない。

大赦回数

在位期間(425-428年、北魏書列伝第八十三夏国伝)に「大赦」「大赦天下」等の記述は見られない。

立后回数

列伝には昌の在位中に皇后を冊立した記述はない。

皇太子廃立回数

列伝には「议废其长子璝,璝,自长安起兵攻屈孑,屈孑中子太原公昌破璝,杀之。屈孑以昌为太子」とあるが、これは父・赫連勃勃(屈孑)が長子璝を廃し昌を太子に立てた出来事で、屈孑在位中(「始光二年,屈孑死,昌僭立」の前)に生じている。昌自身の在位中(僭位後)に皇太子を廃立した記述はない。

親征回数

始光二年(425)即位〜神䴥元年正月(428)安頡に捕らえられるまでの在位期間を対象とした。3件はいずれも北魏太武帝の侵攻に対する応戦・反撃であり、遠隔地への能動的遠征ではなく籠城戦・防衛戦としての性格が強いため、伝統的な『親征』概念にどこまで当てはまるか解釈の幅がある(confidence medium)。ただし夏国伝・資治通鑑いずれも昌自身が陣頭に立って戦った旨を明記しており、本ブロックの定義(皇帝自身が軍を率いて戦場に赴いた場合)には該当すると判断した。北魏太武帝紀側の親征記録(beiwei-taiwudiのpersonalCampaignCount)で対赫連昌の遠征が2件(始光3年冬〜4年正月/始光4年5〜8月)に区切られている構造と対応させた。

反乱鎮圧回数

在位期間中の主な軍事的対立は北魏(太武帝)という対等な独立政権との統一戦争であり、鎮圧・被反乱の対象から除外される。夏国内部での臣下・部族による武装反乱(挙兵)の記録は魏書夏国伝・資治通鑑いずれにも見当たらなかった。

被反乱回数

北魏の侵攻は対等な独立政権との統一戦争のため被反乱の対象外。魏書列伝第八十三に「秦雍氐、羌皆叛昌詣斤降」(始光3年12月、北魏軍が長安・蒲阪方面に進出した際、秦雍地方の氐・羌が昌を離れ北魏の奚斤に投降した)との記述があり服属民の離反とも読めるため検討したが、実際の武装蜂起(挙兵して夏に敵対した)という描写ではなく、侵攻軍の接近に伴う無抵抗の帰順・投降と解釈できるため、本項目の『実際の兵力行使を伴う反乱』の閾値を満たさないと判断し計上しなかった。この判断には解釈の幅があるため要確認事項として記録する。

遷都回数

晋書載記を通読。赫連勃勃の統万城定都(建国時の定都、群臣の長安遷都進言を明確に拒否)から427年の統万陥落後の平涼転戦期を含め、恒久的な再定都は確認されない。

即位時年齢・没年齢

既存レコード(deathCause/accessionRoute/reignData/reigns[].note)および_corpus_cache/xia-helianchang.txt、china-history/魏書列伝第八十三巻(夏国伝原文)を確認したが、赫連昌の生年・享年・即位時年齢を示す「時年」「享年」等の直接記載は見当たらなかった。『魏書』夏国伝には「屈孑(赫連勃勃)之第三子」「始光二年、屈孑死、昌僭立」(即位=425年)、「後侍御史安頡擒昌…坐謀反、伏誅」(誅殺=434年、月日不詳)とあるのみで、生年・年齢の記載はない。凤翔元年(413年)に太原公に封じられた記事はあるが、何歳での任官か不明で年齢逆算の根拠にはできないため採用しなかった。調査済みだが生年月日・享年とも原典に直接記載がなく不明。

在位中の出来事(4件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

親征426年11月〜426年12月北魏(太武帝拓跋燾の奇襲軍)

対象: 北魏(太武帝拓跋燾の奇襲軍)

結果: 太武帝が軽騎二万で統万城を奇襲。昌は自ら出撃したが敗れ城内に退却。魏軍は西宮に侵入し西門を焼いたが陥落せず、民一万余家を捕虜として掠め撤退した。

魏書列伝第八十三夏国伝「時冬至之日、昌方宴飨、王師奄到…昌乃出戰。世祖馳往擊之、昌退走入城」、資治通鑑巻一二〇(元嘉三年)に同内容。統万城への籠城戦だが昌自身が城外に出て応戦した記述があるため親征に計上した(防御的性格であることは要留意)。

親征427年5月〜427年6月北魏(太武帝拓跋燾)

対象: 北魏(太武帝拓跋燾)

結果: 太武帝の第二次西伐に対し歩騎三万を率いて統万城を出て迎撃したが大敗(尚書斛黎文らが討たれ、弟の河南公満・甥の蒙逊も戦死)。統万城は陥落し、昌は上邽へ敗走した。

魏書列伝第八十三「六月甲辰、昌引衆出城、大破之…昌將麾下數百騎西南走、奔上邽」。同事象は資治通鑑巻一二〇(元嘉四年)にも詳述(「甲辰、將步騎三萬出城」)。

親征428年1月北魏(奚斤・安頡の軍)

対象: 北魏(奚斤・安頡の軍)

結果: 上邽から平凉に退いた後、丘堆の輜重部隊を自ら急襲して撃破し、以後連日安定城下で奚斤の軍を攻撃した(自ら陣頭に立って搏戦)が、大風・砂塵に乗じた安頡の伏兵に馬が躓いて捕らえられた。これにより夏の統治は事実上終焉した。

資治通鑑巻一二一(元嘉五年)「夏主襲之、堆兵敗…夏主自出陳前搏戰…遂擒之」。魏書夏国伝「後侍御史安頡擒昌」に対応。捕縛後は魏の秦王・会稽公として処遇され謀反で誅殺されるが、それは夏滅亡後・在位終了後の出来事のため対象外とした。

改元日付不詳屈孑死去後、昌が僭位し、年号を「永光」に改めた(即位に伴う建元)。

屈孑死去後、昌が僭位し、年号を「永光」に改めた(即位に伴う建元)。「昌,字还国,一名折,屈孑之第三子也。既僭位,改年永光。」

出典: 魏书列传第八十三(夏国伝)

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