西遼を建てた耶律大石の子で、紹興と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることして位にあった西遼の皇帝である。
仁宗正徳皇帝の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 1150年〜1163年
- 没年
- 1163年年齢不詳
- 死因
- 不詳死因を書いた記録が史書に見当たらない。同じ死因31人/365人
- 呼び名
- 姓耶律諱夷列廟号仁宗呼び名の見方
出典
- 在位
- 遼史 巻三十 天祚皇帝紀四付録(西遼仁宗)
- 死因
- 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)
- 即位経路
- 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)
生涯
どんな皇帝か
遼史の付録に残る記事は数行しかなく、本人の言葉や逸話を伝える記事は見当たらない。
即位まで
耶律大石の子である。大石が没したときは幼く、遺命亡くなる人が生前に残した言いつけにより大石の皇后の塔不煙が国政を預かって、咸清と改元した。皇后が7年政治を執ったあと、仁宗が即位して紹興と改元した。
史料について
遼史も、元の通鑑続編や清の御批歴代通鑑輯覧も、この皇后が仁宗の母だとは書かない。通鑑続編はこの紹興元年を1142年に置き、輯覧は同じ年に皇后が死んで仁宗が立ったとするが、遼史は皇后の死を書かない。
治世と最期
18歳以上の民を戸籍に載せ、8万4500戸を得た。没して廟号皇帝の死後、祖先をまつる祭りで呼ぶための名は仁宗とされた。子が幼かったので、遺詔皇帝が死に際に残した命令により妹の普速完が国政を預かって崇福と改元した。
普速完はのちに夫の蕭朶魯不の弟と通じて夫を殺し、夫の父の斡里剌に射殺された。そののち仁宗の次子の直魯古が即位した。
史料について
遼史が伝える治世の事績は戸籍の一件だけで、死因・没年齢・陵墓も書かない。輯覧は斡里剌が直魯古を迎えて立てたとする。遼史の論は、大石の後を寡母弱子が代わる代わる継いで九十年近く国が続いたのは難しいことだったと評する。遼史は即位と死去の年を示さず在位の年数だけを書くので、このページの年は大石の没年を1143年として在位年数を足した推定で、通鑑続編と輯覧が置く年より8年から9年遅い。
仁宗正徳皇帝とつながる皇帝
在位中の出来事
改元1
- 改元1150年元号を「紹興」とする
西遼の歴代皇帝
歴代5人の一覧- 第1代徳宗天祐皇帝耶律大石1132–1143年不詳
- 第2代蕭塔不煙皇帝を名乗っていない1143頃–1150年頃
- 第3代仁宗正徳皇帝1150–1163年不詳
- 第4代耶律普速完皇帝を名乗っていない1163頃–1177年頃
- 第5代天禧皇帝1177–1211年病死
年表
遼・
西遼が