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西遼(遼・西夏・金)第3代

仁宗正徳皇帝耶律夷列

在位 1150–1163年(13年3日)

日本は平安時代

西遼を建てた耶律大石の子で、紹興として位にあった西遼の皇帝である。

仁宗正徳皇帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1150年〜1163年
13年3日長い順104位/365人即位の年齢は不詳
没年
1163年年齢不詳
死因
同じ死因31人/365人
即位経路
(経緯記載なし)
先代
次代
呼び名
姓耶律諱夷列廟号仁宗呼び名の見方

出典

在位
遼史 巻三十 天祚皇帝紀四付録(西遼仁宗)
死因
遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)
即位経路
遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)

生涯

どんな皇帝か

遼史の付録に残る記事は数行しかなく、本人の言葉や逸話を伝える記事は見当たらない。

即位まで

耶律大石の子である。大石が没したときは幼く、により大石の皇后の塔不煙が国政を預かって、咸清と改元した。皇后が7年政治を執ったあと、仁宗が即位して紹興と改元した。

史料について

遼史も、元の通鑑続編や清の御批歴代通鑑輯覧も、この皇后が仁宗の母だとは書かない。通鑑続編はこの紹興元年を1142年に置き、輯覧は同じ年に皇后が死んで仁宗が立ったとするが、遼史は皇后の死を書かない。

治世と最期

18歳以上の民を戸籍に載せ、8万4500戸を得た。没しては仁宗とされた。子が幼かったので、により妹の普速完が国政を預かって崇福と改元した。

普速完はのちに夫の蕭朶魯不の弟と通じて夫を殺し、夫の父の斡里剌に射殺された。そののち仁宗の次子の直魯古が即位した。

史料について

遼史が伝える治世の事績は戸籍の一件だけで、死因・没年齢・陵墓も書かない。輯覧は斡里剌が直魯古を迎えて立てたとする。遼史の論は、大石の後を寡母弱子が代わる代わる継いで九十年近く国が続いたのは難しいことだったと評する。遼史は即位と死去の年を示さず在位の年数だけを書くので、このページの年は大石の没年を1143年として在位年数を足した推定で、通鑑続編と輯覧が置く年より8年から9年遅い。

仁宗正徳皇帝とつながる皇帝

在位中の出来事

改元1
  1. 改元1150年元号を「紹興」とする

西遼の歴代皇帝

歴代5人の一覧
  1. 第2代蕭塔不煙皇帝を名乗っていない1143頃–1150年頃
  2. 第4代耶律普速完皇帝を名乗っていない1163頃–1177年頃

年表

遼・西夏・金の時代を年表で見る

西遼が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「継承(経緯記載なし)」の17名をデータベースで見る

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