中国皇帝統計

崇宗

西夏|在位 1086–1139年

諱(本名)
李乾順
在位
1086–1139年
在位期間
52年326日365名中5位
即位経路
世襲
死因
不詳
即位時年齢
3歳(数え年)172名中・若い順5位タイ
没年齢
56歳(数え年)269名中・長寿順51位タイ
改元
8332名中6位タイ
大赦
2267名中152位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
2112名中41位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

恵宗崩御と同日、3歳で即位。

出典: 宋史 巻486

死因の経緯

宋史「六月四日,乾順殂,年五十七」のみで死因記載なし。

出典: 宋史 巻486/西夏書事 巻37付近

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

西夏书事の崇宗崩御記事「在位五十四年、改元八」、および宋史巻486の「在位五十四年、改元天儀治平四年、天祐民安八年、永安三年、貞觀十三年、雍寧五年、元德八年、正德八年、大德五年」(合計4+8+3+13+5+8+8+5=54年)の両史料が完全に一致して8元号(改元8回)を裏付けている。ただし各改元の正確な月日は西夏书事に明記されるもの(天仪治平=1086年8月、正德=1127年3月)以外は不詳のためyear精度とした。国号(西夏/大夏)の変更は本人代には発生していないため改元回数に含めていない。

大赦回数

「大赦」「肆赦国中」と明記される全国規模の恩赦は2回確認。1097/1098年の事件は西夏书事と宋史とで紀年に1年のずれがあるため年代確定度はmedium。徽宗の熙河等における「曲赦」(宋史486、地域限定の恩赦)は西夏国主の大赦ではなく中国側の地域恩赦のため対象外とした。

立后回数

在位中に確認できる立后は任氏の1回のみ。曹氏は「立妃」(1120年、宣和二年/元德二年)であり皇后册立ではないため対象外とした。廃后・再冊立の記録もなし。

皇太子廃立回数

崇宗(乾顺)の世子(皇太子に相当)仁爱は成安公主(辽国出身)所生で1120年(夏元德二年、宣和二年)に誕生したが、1125年(夏元德七年、宣和七年)九月に病没した記録があるのみ(西夏书事「九月、世子仁爱卒」)。廃立(廃嫡)を示す記述は原典に見当たらない。後継者仁孝は1139年の崇宗崩御に伴い即位しており、皇太子廃立の記録は確認できないためcount=0とした。

親征回数

西夏书事本紀では大部分の対宋・対吐蕃・対遼・対金の軍事行動は母梁氏・梁乙逋・仁多保忠・晋王察哥・李良辅ら摂政/将軍が主体(「梁氏自将」「乙逋遣兵」「察哥将兵」「乾顺遣兵/遣使」等)であり、乾顺自身が「将兵」「自将」等の語で明記される事例は上記2件のみ。対等勢力(宋)への親征のためrebellionSuppression/Sufferedには計上しない。

反乱鎮圧回数

乾顺治世中、独立した国内反乱を乾顺側が武力鎮圧した明確な事例は原文キャッシュ内に見当たらなかった。唯一の内部権力事件(梁乙逋纂奪未遂、1099年)は他の重臣による討伐であり乾顺自身の鎮圧行為ではないため、また共通ルール例外(4)によりsuffered側にのみ計上する方針としたためsuppressionには含めない。宋・遼・金・吐蕃諸部(阿里骨・董毡・拢拶等)との戦争は対等勢力間の対外戦争としてルール上suppression対象外。

被反乱回数

上記1件以外、乾顺自身の治世(1086-1139)中に明確な国内反乱・クーデター類の記述は見当たらなかった(後継者仁孝代に発生した萧合达の乱・慕洧の乱・饥饉による諸州盗起等は原文キャッシュに含まれるが、いずれも绍兴十年(1140)以降=乾顺没後の仁孝朝の出来事であり対象外とした)。仁多保忠が宋への内附を企図した件(崇宁三年)は「不果」(実行に至らず)と明記されており、兵力行使を伴わなかったため計上していない。

遷都回数

西夏書事を通読。興慶府(後の中興府)が景宗の建国当初から一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

即位時年齢は西夏书事「方三岁」、宋史486「生三歲即位」で一致(高信頼)。崩御時年齢は西夏书事に「年五十六」と明記される一方、宋史486には「年五十七」とあり1歳の差異がある(数え年の起算差または誤記の可能性)。ユーザー提供情報の享年56歳は西夏书事の記載と一致するためdeathAgeは56を採用したが、宋史との不一致がある点に留意。

在位中の出来事(14件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元1086年8月皇帝即位(建元)。

皇帝即位(建元)。3歳で即位した1086年、当初は父惠宗の元号「天安礼定」を数ヶ月継続したが、梁乙逋の勧めにより同年8月に「天仪治平」へ改元した(西夏书事「八月、改元天仪治平」「乾顺幼稚、梁乙逋专政、劝梁氏即月改元、于是以天安礼定元年八月为天仪治平元年」)。史家はこれを「不逾年改元」(前代崩御の年のうちに改元)と批判している。即位に伴う最初の建元として1回とカウント。

出典: 西夏书事(崇宗紀、天仪治平元年条)

改元1090年天仪治平より天祐民安(原典表記は「天民安」)へ改元。

天仪治平より天祐民安(原典表記は「天民安」)へ改元。西夏书事「元五年、夏天民安元年春二月」の記述が初出。

出典: 西夏书事(崇宗紀、天祐民安元年条)

親征1096年10月宋(延州・金明寨)

対象: 宋(延州・金明寨)

結果: 金明寨を陥落させたが、延州本城までは攻めず撤退

西夏书事:绍圣三年(夏天民安七年)冬十月「国主奉母将兵寇延,陷金明寨」。史臣按語で「前书梁氏『自将』,恶梁氏也;此书『奉母将兵』,罪乾顺也」と明記され、母梁氏に随従するだけでなく乾顺自身が親征したことが強調されている。当時乾顺は13歳前後(数え)。

大赦1097年彗星出現を凶兆として梁氏が集めた兵を解散させ、乾顺は減膳・避殿・下罪己诏の上「大赦」を行い、翌年の元号を「永安」に改めることを決定した。

彗星出現を凶兆として梁氏が集めた兵を解散させ、乾顺は減膳・避殿・下罪己诏の上「大赦」を行い、翌年の元号を「永安」に改めることを決定した。西夏书事「乾顺仿中国制、减膳、避殿、下罪己诏、大赦、改明年元曰『永安』」、宋史486「彗星見、乾順赦國中」に相当。

出典: 西夏书事(崇宗紀、天佑民安八年条)/宋史 巻486 列伝二百四十五 夏国下(元符元年十二月条)

改元1098年彗星出現を機に大赦・减膳・避殿・下罪己诏を行うとともに、翌年の元号を「永安」と改めることを決定(西夏书事「改明年元曰『永安』」)。

彗星出現を機に大赦・减膳・避殿・下罪己诏を行うとともに、翌年の元号を「永安」と改めることを決定(西夏书事「改明年元曰『永安』」)。上記amnestyCountの1件目と同一事件。

出典: 西夏书事(崇宗紀、天佑民安八年条)/宋史 巻486 列伝二百四十五 夏国下

被反乱1099年10月梁乙逋纂奪未遂事件

首謀者: 梁乙逋(摂政太后梁氏の兄、外戚実力者)

結果: 嵬名阿吴・仁多保忠・撒辰らが兵を集めて討殺(伏誅)、一族も誅滅

西夏书事:绍圣二年(夏天民安六年)冬十月「梁乙逋伏诛」。原文に「乙逋恃其威势,独专国政……既,又潜谋篡夺,刑赏自专,梁氏亦为所制……大首领嵬名阿吴、仁多保忠、撒辰等知其谋,集部众讨杀之,灭其家」とあり、外戚実力者梁乙逋が兵力を背景に纂奪(政権簒奪)を謀ったが、他の重臣らが兵を集めて未然に討伐した事件。共通ルールの例外(4)「朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター」に該当すると判断し、rebellionSufferedCountにのみ計上(討伐側は他の重臣であり乾顺自身の鎮圧行為ではないため、rebellionSuppressionCountには計上しない)。当時乾顺は16歳前後(数え)で実権は依然母后一族にあった。

改元1101年永安より贞观へ改元。

永安より贞观へ改元。西夏书事「宋徽宗建中靖国元年、夏贞观元年春二月」の記述が初出。

出典: 西夏书事(崇宗紀、贞观元年条)

親征1107年〜1110年宋(怀德军/平夏城方面)

対象: 宋(怀德军/平夏城方面)

結果: 宋将(泾原第十将)吴に敗退

西夏书事:靖康元年冬十一月条の回想記事に「大观中……乾顺曾以三千骑攻之,为泾原第十将吴所败」とあり、大観年間(1107-1110、原文に正確な年月記載なし)に乾顺自ら3000騎を率いて怀德军方面を攻撃し敗れたことが記される。

改元1114年贞观より雍宁へ改元。

贞观より雍宁へ改元。西夏书事「政和四年、夏雍宁元年春三月、筑藏底河城」の記述が初出。

出典: 西夏书事(崇宗紀、雍宁元年条)

改元1119年雍宁より元德へ改元。

雍宁より元德へ改元。西夏书事「宣和元年、夏元德元年春三月、败熙河经略使刘法军于统安城」の記述が初出。

出典: 西夏书事(崇宗紀、元德元年条)

改元1127年3月金から天徳・雲内等の割譲を受けたことに伴い、元德九年を正德元年に改元。

金から天徳・雲内等の割譲を受けたことに伴い、元德九年を正德元年に改元。同時に国中に大赦(amnestyCountの2件目と同一事件)。宋史486「歲丁未、乾順改元正德、時建炎元年也」で年次を確認。

出典: 西夏书事(崇宗紀、正德元年三月条)/宋史 巻486 列伝二百四十五 夏国下

大赦1127年3月金より天徳・雲内等の割譲を受けたことを群臣が祝賀し、乾顺は「国中に肆赦」(全国規模の大赦)を行うと同時に元德九年を正德元年に改元した。

金より天徳・雲内等の割譲を受けたことを群臣が祝賀し、乾顺は「国中に肆赦」(全国規模の大赦)を行うと同時に元德九年を正德元年に改元した。西夏书事「群臣上表贺、乾顺肆赦国中、改元德九年为正德元年」。宋史486にも「歲丁未、乾順改元正德、時建炎元年也」と改元自体は確認できる(大赦の記述は西夏书事のみ)。

出典: 西夏书事(崇宗紀、正德元年三月条)/宋史 巻486 列伝二百四十五 夏国下

改元1135年正德より大德へ改元。

正德より大德へ改元。西夏书事「绍兴五年、夏大德元年春正月、金使来告哀及报即位」の記述が初出。宋史486「五年、乾順改元大德」でも確認。

出典: 西夏书事(崇宗紀、大德元年条)/宋史 巻486 列伝二百四十五 夏国下

立后1138年8月任氏を皇后に册立。

任氏を皇后に册立。曹氏・任氏の両妃が並立し嫡后不在であったため、御史大夫芭里祖仁が「中宮の位は虚しくすべからず」と上奏、群臣が門第・才徳ともに任妃を推したことにより、芭里祖仁が册を持って任氏を皇后に立てた(西夏书事「秋八月、立任氏为皇后」「乾顺遂使芭里祖仁持册立为皇后」)。それ以前に崇宗の立后記録は原典に見当たらない。

出典: 西夏书事(崇宗紀、绍兴八年/大德四年八月条)

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。