西夏第4代分裂期の王朝中国がいくつもの政権に分かれていた時代に、その一つを占めた王朝・政権。
崇宗李乾順
在位 1086–1139年(52年314日)1086年8月21日 〜 1139年7月1日
日本は平安時代
幼くして即位して母の梁太后と外戚皇帝の母や皇后の実家の一族の梁乙逋に政治を握られ、のちに国学国が建てた、学問を教える学校を建て、遼が滅びかけると金に臣従した西夏の皇帝である。
崇宗の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 1086年8月21日〜1139年7月1日
- 没年
- 1139年7月1日56歳(数え年)長生き順同率51位/266人
- 死因
- 不詳死因を書いた記録が史書に見当たらない。同じ死因31人/365人
出典
- 在位
- 西夏書事 巻二十七(即位)・
巻三十五(崩御) - 死因
- 宋史 巻486/西夏書事 巻37付近
- 即位経路
- 宋史 巻486
生涯
即位まで
恵宗の長子で、母は梁氏である。恵宗が、后の梁氏とその兄の梁乙逋が権を握るなかで没すると、1086年に幼くして位に就いた。
史料について
宋史は即位の経緯を書かず、遼史は遼が使者を送って国事を執らせたと記す。
治世と最期
1094年、簒奪を謀った梁乙逋を大首領たちが討ち、一家を滅ぼした。1096年の金明寨攻めでは、梁太后と乾順の母子が自ら陣太鼓で兵を督した。
1099年に梁太后が没した。同じ年に宋へ送った乾順の名の謝罪の表は、凶悪な舅が命をほしいままにしたと述べた。1101年には蕃学とは別に国学を建て、学生三百人を置いた。母の死後はいつも仏を供養して冥福を祈り、1103年には甘州で出た臥仏を祀る寺を建てさせた。1119年には弟の察哥が宋将の劉法を破り、この戦いの死者は十万に及んだ。
遼が滅びかけると天祚帝を自国に迎えようとしたが、1124年には遼に仕えたのと同じ礼で金に臣従し、旧儀を争った末に起立して誓詔臣従の誓いを認める、宗主国の君主の文書を受けた。遼の成安公主が生んだ世子王や諸侯の跡継ぎの仁愛はこれを泣いて諫めて聴かれず、鬱々として没した。1139年に霊芝歌を作って臣下に唱和させたが、その年のうちに没した。
史料について
梁乙逋の誅殺を、宋史の夏国伝は条として立てない。梁太后の死を、宋史は記すだけだが、西夏書事は遼主が毒殺させたとし、続資治通鑑長編の注が引く呂恵卿家伝も、夏の牒が遼の毒殺と言ったと記す。西夏書事・宋史・金史はいずれも死因を書かない。西夏書事の著者は、母の死を幸いとしたと乾順を非難し、遼の恩を受けながら一度の敗戦で背を向けたと責めつつ、国学を建てたことを評価する。
崇宗とつながる皇帝

勢力図
宋・
1086–1139年の地図に、崇宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・親征2・皇后1・改元8・大赦2
- 改元1086年9月元号を「天儀治平」とする
- 改元1090年元号を「天祐民安」とする
- 反乱1094年梁乙逋纂奪未遂事件
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1096年宋(延州・
金明寨) - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1097年
- 改元1098年元号を「永安」とする
- 改元1101年元号を「貞観」とする
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1107–1110年宋(懐德軍/平夏城方面)
- 改元1114年元号を「雍寧」とする
- 改元1119年元号を「元徳」とする
- 改元1127年元号を「正徳」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1127年
- 改元1135年元号を「大徳」とする
- 皇后1138年任氏を皇后に冊立。
西夏の歴代皇帝
歴代10人の一覧年表
遼・
西夏が