恵宗の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 1068年1月27日〜1086年8月21日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1067年12月20日から
- 没年
- 1086年8月21日26歳(数え年)長生き順同率205位/266人
- 死因
- 不詳死因を書いた記録が史書に見当たらない。同じ死因31人/365人
- 呼び名
- 姓李諱秉常呼び名の見方
出典
- 在位
- 西夏書事 巻二十一(推定・
巻頭見出し未確認)/ 巻二十七(崩御記事) - 死因
- 宋史 巻485/西夏書事 巻30付近
- 即位経路
- 宋史 巻486
生涯
即位まで
毅宗の長子で、母は梁氏である。1068年の初めに父が没すると幼くして位に就き、母の梁太后が摂政幼い君主に代わって政治を執る役目して、国政を弟の梁乙埋に任せた。1069年、夏は、宋が首領に官を与えて勢力を分けようとした詔を拒んだ。
史料について
宋の詔を拒んだのを、宋史は恵宗とし、西夏書事は梁太后とする。
治世と最期
1076年に親政君主が自分で政治を執ることを始めたが、梁乙埋の言に従って麟州・府州の間に兵を出した。1080年には宋の制度を好んで蕃儀を廃し、漢礼を行うよう命じて、梁乙埋らの諫めを聞かなかった。
1081年、将軍の李清が河南の地をもって宋に帰順するよう説き、恵宗が従おうとすると、梁太后は李清を殺して恵宗を興州の木寨に閉じ込めた。宋の种諤は囚われた恵宗を理由に出兵を説き、恵宗は小僧にすぎないと大言して、神宗は諸路に兵を出させた。霊州では夏側が黄河の水を決して宋軍の陣を水浸しにし、1082年には永楽城を落とした。両役の宋の死者は六十万人に及んだ。1083年、財政の窮乏と飢えから、梁太后は恵宗を国主国を治める主。皇帝を名乗らない君主の称号にもに戻した。
1084年には大軍で蘭州を十昼夜攻めたが、落とせなかった。1085年の大旱では甘州・涼州の穀物を運ばせて民を救った。同じ年に梁太后が没すると、その遺言どおり、恭順を示す使者を宋に送った。皇后の梁氏とその兄の梁乙逋が権を握るなかで、1086年に没した。
史料について
李清の件を、東都事略と続資治通鑑長編の載せる宋側の報は、李将軍(長編は李郎君)が恵宗のために漢の倡婦と楽人を招き入れ、梁氏が酒宴で捕らえて殺したとする。种諤ははじめ恵宗が殺されたと報じ、のちに木寨に健在だと改めた。復位を西夏書事は記し、宋史の夏国伝はその語を使わない。蘭州攻めを、宋史は李憲が退けたとだけ書く。死因を、西夏書事は梁氏の専権に憂い憤って死んだとし、宋史は書かない。
恵宗とつながる皇帝

勢力図
宋・
1067–1086年の地図に、恵宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・改元4
- 改元1068年2月元号を「乾道」とする
- 改元1070年元号を「天賜礼盛国慶」とする
- 改元1075年元号を「大安」とする
- 反乱1081–1083年梁氏(梁太后一派)による幽閉クーデター
- 改元1086年2月元号を「天安礼定」とする
西夏の歴代皇帝
歴代10人の一覧年表
遼・
西夏が