恵宗
西夏|在位 1068–1086年
- 諱(本名)
- 李秉常
- 在位
- 1068–1086年
- 在位期間
- 18年211日365名中61位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 不詳
- 即位時年齢
- 7歳(数え年)172名中・若い順13位タイ
- 没年齢
- 26歳(数え年)269名中・長寿順207位タイ
- 改元
- 4回332名中29位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
毅宗崩御により7歳で即位、梁太后摂政。
出典: 宋史 巻486
死因の経緯
宋史「秉常殂,時年二十六」、西夏書事「国主秉常卒」のみで死因記載なし。
出典: 宋史 巻485/西夏書事 巻30付近
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
西夏書事(daizhigev20/史藏/別史/西夏書事.txt、秉常在位区間は概ね3286〜4210行付近)と宋史巻二百四十五(夏国下、china-history/宋史/列伝/第二百四十五章)を通読。両史料とも秉常は即位当初から国主(事実上の皇帝)として即位しており、王等の身分を経て皇帝に即位する2段階即位パターンには該当しないため、各eventのnoteに【皇帝即位前】等のタグは付していない。国号(大夏/西夏)自体の変更は本人の治世中になく、改元との混同はない。
大赦回数
西夏書事巻二十三、熙寧五年(天賜礼盛国慶三年)九月条に「国主生辰,赦」とあり、按語も「赦」を「国家鉅典」と特筆しているが、用字は単に「赦」であり、他の西夏君主(徳明・元昊・乾順・純祐等)の記事で用いられる「大赦」「大赦国中」「大赦境内」とは書き分けられている。指示された判定基準(「大赦」「大赦天下」等の明記のみを対象)に厳密に従い、この一件は対象外としカウントしなかった。西夏書事巻二十二〜二十四・宋史巻二百四十五(夏国下)の秉常在位期間(治平四年冬即位〜元祐元年七月崩御)を通読した限り、他に大赦の記載は見当たらない。
立后回数
宋史巻二百四十五(夏国下)秉常本伝、西夏書事巻二十二〜二十四の秉常在位区間を通読したが、「立后」「冊后」等の立后儀礼を明記する記述は見当たらなかった。後継者乾順の生母は宋史で「昭簡文穆皇后梁氏」と呼ばれるが、これは乾順即位後の追尊的呼称であり、秉常在位中に正式冊立が行われたことを示す記事ではない。よって0回とした。
皇太子廃立回数
秉常在位中に皇太子(皇太弟等を含む)が立てられ、それが廃されたという記述は見当たらない。なお元豊四年(1081年)、生母梁太后・伯父梁乙埋らが秉常(国主本人)を興州木寨に幽閉し政権を奪った事件(西夏書事「梁氏幽其主秉常」「梁氏幽秉常,復視国事」、宋史「國母知之,遂誅清而奪秉常政」)があるが、これは在位中の皇帝本人の幽閉・廃位未遂事件であり、法定推定継承者たる皇太子の廃立には該当しないため対象外とした。
親征回数
西夏書事巻二十二〜二十八(daizhigev20/史藏/别史/西夏书事.txt)を全在位期間(1068〜1086年)にわたって精査したが、対宋・対吐蕃(西蕃董毡等)との軍事行動は一貫して梁太后・梁乙埋・梁乙逋(外戚権臣)が「督兵」「遣兵」「乙埋督親軍復戦」等の形で指揮したと明記され、秉常自身が「自将」「親帥」等の形で軍を率いたとする記述は皆無。熙寧九年(1076年、時年十六)条に「国主始親政,以兵犯麟、府」とあるが、これも「用梁乙埋言」で梁乙埋の献策に従った兵威誇示であり、秉常本人が陣頭で軍を率いた記述はない。よって親征0件と判定。なお対宋戦争(橫山の役・永楽城の戦い等の元豊五路討伐など)はいずれも西夏vs宋の対等勢力間戦争であり、対象時代ルールによりそもそも本フィールドの対象外(親征に該当する場合のみ計上だが、その親征自体が確認できない)。
反乱鎮圧回数
西夏書事の記述は大半が対宋・対遼・対吐蕃の対外戦争、および朝貢・国境交渉であり、対象時代ルールによりこれらは鎮圧・被反乱いずれにも計上しない。西夏国内の農民反乱・部族反乱を鎮圧した記録は原文中に見当たらない(梁乙逋・仁多氏の対立等は朝廷内権力争いであり秉常在位末期にはまだ武力衝突に至っていない)。よって鎮圧0件。
被反乱回数
原文に「梁氏幽其主秉常」「国主復位」と明記されており、事件自体の存在・期間は高確度。ただし内部クーデターを本データセットの『反乱』としてカウントする分類自体は方針上の判断(例外4適用)を伴うため、その適用判断にnoteで根拠を明記した。
遷都回数
西夏書事を通読。興慶府(後の中興府)が景宗の建国当初から一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
宋史巻二百四十五(夏国下)に「治平四年冬即位,時年七歳」「秋七月乙丑,秉常殂,時年二十六」と明記。西夏書事巻二十二末尾(daizhigev20/史藏/別史/西夏書事.txt)にも「秉常時年八歳」(熙寧元年正月時点)「年二十六,在位二十年,改元四」とあり、享年26歳で一致。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1068年父毅宗(諒祚)崩御(治平四年=1067年十二月)を受け即位(治平四年冬)。
父毅宗(諒祚)崩御(治平四年=1067年十二月)を受け即位(治平四年冬)。翌年(宋熙寧元年=1068年)正月、即位に伴う最初の建元として「乾道」を制定。西夏書事巻二十二冒頭「宋神宗熙寧元年、夏乾道元年春正月」。宋史は在位20年間の改元回数の内訳を「改元乾道二年,天賜禮盛國慶五年,大安十一年,天安禮定一年」(各元号の存続年数)と記し、西夏書事も末尾で「改元四」と総括、両史料で改元回数(4回)が完全に一致する。
出典: 西夏書事 巻二十二/宋史 巻二百四十五(夏国下)
改元1070年「天賜礼盛国慶」に改元(乾道は2年で終了)。
「天賜礼盛国慶」に改元(乾道は2年で終了)。皇帝在位中の改元。
出典: 西夏書事 巻二十二
改元1075年「大安」に改元(天賜礼盛国慶は5年で終了)。
「大安」に改元(天賜礼盛国慶は5年で終了)。皇帝在位中の改元。
出典: 西夏書事 巻二十三〜二十四
被反乱1081年3月〜1083年6月梁氏(梁太后一派)による幽閉クーデター
首謀者: 梁氏(梁太后)・梁乙埋・罔萌訛
結果: 元豊四年(1081)三月、将軍李清が秉常に宋への河南地割譲帰順を説き秉常がこれに従おうとしたところ、梁氏がこれを察知し李清を誅殺した上で秉常自身を興州の木寨に幽閉(「梁氏幽其主秉常」)。梁乙埋・罔萌訛らが兵馬を集めて河梁を断ち音信を絶ち、秉常旧臣は各地で擁兵自固し「国内大乱」となった。宋はこれを口実に元豊五路討伐(対外戦争、本カウント対象外)を起こした。梁氏側は財政窮乏・民心離反を受け元豊六年(1083)閏六月に秉常を国主に復位させたが(「国主復位」)、実権は引き続き梁乙埋・梁乙逋ら外戚が握り続けた。
朝廷内部の権力者(秉常自身の外戚・摂政である梁氏一派)による兵力を伴うクーデター・幽閉であり、対象時代ルールの例外4(内部権力者による弑逆・クーデターはsufferedのみ計上)に該当すると判断。秉常自身は復位したものの武力による奪還ではなく梁氏側の政治判断によるものであり、秉常によるrebellionSuppressionCountには計上しない。
改元1086年「天安礼定」に改元(大安は11年で終了)。
「天安礼定」に改元(大安は11年で終了)。西夏書事巻二十四「宋哲宗元祐元年、夏天安礼定元年春正月」。皇帝在位中の改元。この元号は同年七月の秉常崩御によりわずか1年で終わり、同年八月には子・乾順代に梁乙逋が不逾年改元で「天儀治平」へ改元しているが、これは乾順の治世に属するため本人(惠宗)のカウントには含めない。
出典: 西夏書事 巻二十四/宋史 巻二百四十五(夏国下)