西夏第5代分裂期の王朝中国がいくつもの政権に分かれていた時代に、その一つを占めた王朝・政権。
仁宗李仁孝
在位 1139–1193年(54年107日)1139年7月1日 〜 1193年10月16日
日本は平安・
学校を建てて孔子を文宣帝と尊び、国を割こうとした権臣権力を握って君主をしのぐ家臣の任得敬を除いた西夏の皇帝である。
仁宗の人物データ
- 生年
- 1124年10月
- 在位
- 1139年7月1日〜1193年10月16日
- 没年
- 1193年10月16日70歳(数え年)長生き順同率12位/266人
- 死因
- 不詳死因を書いた記録が史書に見当たらない。同じ死因31人/365人
- 呼び名
- 姓李諱仁孝呼び名の見方
出典
- 在位
- 西夏書事 巻三十五(即位記事)・
巻三十八(崩御記事) - 死因
- 宋史 巻486/西夏書事 巻39付近
- 即位経路
- 宋史 巻486
生涯
どんな皇帝か
西夏書事の論は、儒学を崇んで学生を三千人に増やしたことを讃えつつ、任得敬を除いたのちに奢りが兆したと評する。
即位まで
崇宗の長子で、母は曹妃である。1139年に崇宗が没すると即位し、母の曹氏を尊んだ。1140年、聡明で書を知り漢の礼を好んだ罔氏を、その賢さを見て后に立て、深く愛し敬った。
史料について
即位後に尊んだのを、西夏書事は崇宗の皇后任氏と曹氏の二人とし、宋史は曹氏を国母としたとだけ記す。罔氏を、宋史は即位の年の暮れに納れたとする。
治世と最期
即位の直後に夏州で乱が起こると、静州統軍軍を率いる武官の役職名の任得敬が夏州を奪い返して取り立てられた。州県に学校を立てさせ、宮中に小学を置いて宗室君主と同じ一族の人々の子弟を学ばせた。1150年の初めに金の海陵王が熙宗を殺して立つと、告哀の使者を国境で詰問させて退けたが、金が改めて廃立君主や跡継ぎを退け、別の人を立てることの理由を知らせると受け入れ、同じ年に賀使を送った。1155年の狩りでは、駿馬が足を傷めると道を整えた者を殺すよう命じたが、阿華に諫められて取りやめた。
任得敬は1160年に楚王に封じられた。その後、学校の全廃を上言したが、仁宗は答えなかった。得敬は仁宗を瓜州・沙州へ移そうとした。仁宗は任得敬を抑えきれず、1170年に西南路と霊州の地を割いて国を立てさせ、金にその冊封君主が文書で王などの位を授けることを求めた。金の世宗は、これは権臣に迫られたものだとして冊封を拒み、貢物を返した。その年のうちに、仁宗は弟たちと変を企てた任得敬とその党を誅した。
1171年には、任得敬に憎まれて不遇だった斡道冲を、その節操を重んじて中書令皇帝の命令の文書を作る役所の長官に抜擢し、ほどなく宰相とした。1173年に日食が雲で見えなかったのを群臣が祝うと、これを退けた。1193年に没した。
史料について
宋史の夏国伝は任得敬の誅殺を1168年の段に置く。西夏書事・宋史・金史のいずれも死因を書かない。西夏書事の論は、儒学を崇び孔子を帝と尊んだことを讃えつつ、得敬の誅殺後に奢りが兆したとする。
仁宗とつながる皇帝

勢力図
宋・
1139–1193年の地図に、仁宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱5・皇后2・改元4・大赦1
- 改元1140年元号を「大慶」とする
- 皇后1140年皇后を立てる
- 反乱1140年夏州統軍蕭合達(李合達)の乱
- 反乱1141年慕洧兄弟の謀叛
- 反乱1143年威州大斌・
静州埋慶・ 定州也浪富児等族の飢民蜂起 - 改元1144年元号を「人慶」とする
- 改元1149年元号を「天盛」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1155年
- 反乱1165–1169年荘浪族(隴逋・龐拝・吹折・密臧諸門)及び結什角の離反
- 皇后1167年皇后を立てる
- 改元1170年元号を「乾祐」とする
- 反乱1170年任得敬の脅主分国・
クーデター未遂
西夏の歴代皇帝
歴代10人の一覧年表
遼・
西夏が