桓宗
西夏|在位 1193–1206年
- 諱(本名)
- 李純祐
- 在位
- 1193–1206年
- 在位期間
- 12年155日365名中112位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 17歳(数え年)172名中・若い順62位タイ
- 没年齢
- 30歳(数え年)269名中・長寿順188位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
仁宗崩御と同日、17歳で即位。
出典: 宋史 巻486
死因の経緯
1206年正月、族兄・安全に廃位され、3月に幽閉先で急死(「暴卒于廢所」)。西夏書事の史論が「無罪被廢,廢不久而死,與弑何殊」(罪なく廃されすぐ死んだのは弑逆と何が違うか)と明言し暴力的死を強く示唆するが、具体的な加害記述はない。
出典: 金史 列伝72(外国下・西夏)/西夏書事 巻39
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
宋史「(仁宗殂)明年改元天慶」、西夏書事「紹熙五年、夏天慶元年春正月」、および桓宗崩御記事末尾の「改元一」の3箇所が一致して桓宗本人による改元が生涯で1回のみだったことを示す。
大赦回数
調査範囲(宋史巻486、金史列伝72、西夏書事巻39)のうち西夏書事にのみ記載。宋史・金史の桓宗関連記事は簡略な外交・征伐記事が中心で大赦への言及がないため、他に見落としがある可能性は排除できないが、確認できた大赦は1回。
立后回数
宋史巻486、金史列伝72、西夏書事巻39のいずれにも桓宗自身の皇后冊立の記載は見当たらない。史料に頻出する「羅氏」は桓宗の生母(仁宗の皇后・章献欽慈皇后)であり桓宗自身の后ではない。桓宗の後宮・立后に関する記録自体が乏しいため、真に皇后不在だったのか単なる記録欠落かは断定できない。
皇太子廃立回数
宋史巻486、金史列伝72、西夏書事巻39のいずれにも桓宗による立太子・皇太子(皇太弟等を含む)廃立の記載は見当たらない。桓宗は廃位後まもなく急死しており、後継者指名(立太子)自体が行われなかった可能性が高い。
親征回数
原文キャッシュ全体(1193-1208年在位期間)を確認したが、桓宗自身が軍を率いて出征した記録は無い。1205年11月「遣兵攻蒙古,不战而还」は「遣兵」(派兵)と明記され、桓宗本人の親征ではなく将に委ねた行動。対モンゴル侵攻(1205年力吉里寨・落思城侵略)に対しても「纯佑不敢拒」とあり応戦すらしていない。
反乱鎮圧回数
在位14年間、国内反乱を鎮圧した記録は原文に見当たらない。史臣評にも「在位十四年,四郊鲜兵革之患,国中无水旱之虞」とあり、対金・対モンゴルの朝貢外交と天変地異の記事が大半を占め、国内反乱・鎮圧の記述は無い。モンゴルの侵攻(1205年力吉里寨侵略・落思城掠奪、1207年斡罗孩城侵攻)は対等な外国勢力との対外戦争であり、本ブロックのルールにより計上対象外。
被反乱回数
李安全による廃位は原文に明記されており事実関係は明確。武力行使の具体的描写(兵を動員したか等)は原文になく宮廷内の権力移行として記述されているが、現職皇帝を強制的に廃した点で例外4(朝廷内部の権力者によるクーデター)に該当すると判断。
遷都回数
西夏書事を通読。興慶府(後の中興府)が景宗の建国当初から一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
宋史巻486(夏国下)「開禧二年正月二十日廢,遂殂,年三十。在位十四年」、西夏書事巻三十九「三月,故主純祐暴卒於廢所」「年三十,在位十四年,改元一」で没年齢30歳(数え年)が二資料一致で確認できた。仁宗崩御・即位の記事(紹熙四年九月二十日=1193年)には「時年十七」と明記。既存データセット reigns[0].note には「享年29」とあるが、原典(宋史・西夏書事)はいずれも「年三十」であり、1歳の差異がある。要確認・修正候補。金史列伝72は「泰和六年三月…廢純祐自立,再閲月死於廢所」とし、廃位から約2ヶ月後に死去という点で西夏書事の「三月」死去と符合する。生年月日は原文に直接の記載なし(即位時年齢からの逆算のみ可能)のためbirthDateはnullとした。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
被反乱1206年1月20日鎮夷郡王・李安全(後の襄宗)による廃位クーデター
首謀者: 李安全(鎮夷郡王)・母后羅氏
結果: 廃位され幽閉、同年3月に幽閉先で急死(「暴卒于废所」)。安全は応天と改元し自立。
原文「镇夷郡王安全废其主纯佑自立,改元应天」「是月二十日,与纯佑母罗氏废纯佑自立」。安全は仁孝族弟の子で朝廷内の宗室権力者であり、母后と結託して現職の皇帝を廃位した宮廷内クーデター(本ブロックの例外4パターンに該当、簒奪側の安全にとってはaccessionRoute領域だが廃位された桓宗本人にはrebellionSufferedとして計上)。史論も「无罪被废,废不久而死,与弑何殊」と暴力性を示唆。
改元日付不詳即位翌年(紹熙五年/天慶元年、1194年)正月に「天慶」へ建元。
即位翌年(紹熙五年/天慶元年、1194年)正月に「天慶」へ建元。仁宗崩御の年(紹熙四年=1193年)は仁宗の元号「乾祐」を継続使用し、翌年から新元号に切替え。在位中はそのまま天慶を使用し続けた。開禧二年(1206年)正月、廃位と同時に李安全が「天慶十三年」を「応天元年」に改めたが、これは桓宗本人による改元ではなく後継者(安全)による改元のためカウントしない。
出典: 宋史 巻486(夏国下)
大赦日付不詳開禧元年(天慶十二年)六月、モンゴル軍撃退後に「大赦境内」を実施し、興慶府を中興府と改称。
開禧元年(天慶十二年)六月、モンゴル軍撃退後に「大赦境内」を実施し、興慶府を中興府と改称。西夏一国全域を対象とする恩赦であり、部分的・地域限定の措置ではない。
出典: 西夏書事 巻三十九