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西夏第6代

桓宗李純祐

在位 1193–1206年(12年155日)1193年10月16日 〜 1206年3月1日

日本は鎌倉時代

父の仁孝の後を継いだが、一族の李安全に位を奪われ、廃されてまもなく死んだ西夏の皇帝である。

桓宗の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 1193年10月16日〜1206年3月1日
12年155日長い順111位/365人17歳で即位(数え年)
没年
1206年30歳(数え年)長生き順同率186位/266人
死因
同じ死因31人/365人
即位経路
(経緯記載なし)
先代
  • 仁宗西夏桓宗は仁宗の子
次代
  • 襄宗西夏襄宗は桓宗の従兄弟
呼び名
姓李諱純祐呼び名の見方

出典

在位
西夏書事 卷三十八(即位)・卷三十九(廃位・崩御)
死因
西夏書事 卷三十九/宋史 夏國傳下/金史 列傳第七十二 西夏
即位経路
宋史 巻486

生涯

即位まで

仁宗の長子で、母は章献欽慈皇后の羅氏である。羅氏はもと中国の人で、宮中に入って仁宗に寵愛され、1167年に后に立てられた。1193年に仁宗が没すると即位し、翌年に天慶とした。1194年に金から夏国王にされた。

治世と最期

一族の越王仁友の子の安全が父の爵を継ぎたいと願うと、純祐は許さずに鎮夷郡王としたので、安全は怨みを抱いた。政治に関わり始めた安全が甘言で誘うと、重臣の劉忠亮は自分を釣る餌だと言って退けた。

1205年にモンゴルが初めて攻め入り、瓜州・沙州などが荒らされても、純祐はあえて拒まなかった。モンゴル軍が退くと城塞を直し、興慶府を中興府と改めた。

1206年、安全は羅氏とともに純祐を廃して自ら立った。そののち羅氏の名で、純祐に代えて安全を立てたと告げる表が金に送られた。金は羅氏の意向を問い、再び表が来てから安全を夏国王に冊した。純祐は廃所でほどなく死んだ。

史料について

西夏書事の按は、モンゴルに一矢も報いず初めから弱みを見せたと批判する。廃位の時期は、西夏書事・宋史と金史の西夏伝とで異なる。表を、金史の章宗紀は安全が遣わしたとし、西夏書事は羅氏が遣わしたとしつつ、安全がそそのかしたと評する。廃位に羅氏が加わったとするのは西夏書事で、宋史・金史は書かない。西夏書事・宋史・金史は純祐の死に手を下した者を書かないが、西夏書事の按は、罪なく廃されて間もなく死んだのは弑と変わらないと評する。その論は、仁慈恭倹で宮中にを聞かなかったと称えつつ、母の愛を失って位を奪われたと哀れむ。

桓宗とつながる皇帝

宋・遼・金・西夏の勢力図(1193年)

勢力図

宋・遼・金・西夏の勢力図で見る

1193–1206年の地図に、桓宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・改元1・大赦1
  1. 反乱1206年3月1日鎮夷郡王・李安全(後の襄宗)による廃位クーデター
  2. 改元日付不詳元号を「天慶」とする
  3. 日付不詳

西夏の歴代皇帝

歴代10人の一覧

年表

遼・西夏・金の時代を年表で見る

西夏が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「継承(経緯記載なし)」の17名をデータベースで見る

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