襄宗
西夏|在位 1206–1211年
- 諱(本名)
- 李安全
- 在位
- 1206–1211年
- 在位期間
- 5年150日365名中183位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 不詳
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 42歳(数え年)269名中・長寿順123位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 2回112名中41位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
1206年正月、桓宗純祐を廃して自立(「鎮夷郡王安全廢其主純祐自立,改元應天」)。
出典: 金史 列伝72/宋史 巻486/西夏書事 巻39
死因の経緯
「八月,安全死。年四十二」。西夏書事は「安全書'死',不書'卒',篡逆之人不得正其終也」と春秋筆法上の断罪はするが殺害の具体的記述はない。遵頊の即位が安全死去の1ヶ月前とされ政変による死の可能性を排除できないが確定できないため不詳。
出典: 金史 列伝72/西夏書事 巻40
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
宋史巻486「安全…在位六年,改元應天四年、皇建二年」、西夏書事巻四十「年四十二,於是月五日卒。在位六年,改元二」と複数史料が明記し、応天・皇建の2回で確定。国号変更は無く、いずれも正規の建元・改元。
大赦回数
在位区間(1206年正月〜1211年8月、西夏書事巻三十九〜四十該当箇所、金史列伝72、宋史巻486該当箇所)を通読したが「大赦」「大赦天下」等の記載は見当たらなかった。桓宗純祐の代(1206年蒙古撤退時)や仁宗乾順の代には「大赦境内」「大赦国中」の記載があるのに対し、安全(襄宗)の在位中には同種の記載が一切なく、対蒙古戦・対金外交中心の記述に終始する。他の紀伝体史料(金史本紀・宋史本紀)まで悉皆検索したわけではないため確信度はmediumとした。
立后回数
在位区間の記述(西夏書事巻三十九〜四十、金史列伝72、宋史巻486該当箇所)に「皇后」「立后」「册后」等の記載は見当たらなかった。安全は桓宗純祐の母・罗氏と結んで簒奪した経緯が中心に記録され、自身の后妃冊立に関する記述は原典に確認できず。皇后不在(0回)と判断したが、悉皆的な内証記録の欠落の可能性もありconfidenceはmediumとした。
皇太子廃立回数
安全の子・承禎は「世子」として1209年の対蒙古戦で主将を務めた記録があるが(西夏書事巻四十「安全遣世子承禎為主将…」)、正式に皇太子として冊立された記載自体が見当たらず、安全没後も「安全有子承禎,不得嗣」(西夏書事巻四十、金史列伝72に同趣旨)とあるのみで、廃立(皇太子の地位を剥奪する行為)が行われた記述はない。単なる後継争いでの落選であり、本項目の対象(廃立)には該当しない。
親征回数
原文で「安全」を主語に明確な親率・親督表現が確認できるのはこの2件のみ(中興府防衛戦・黒塔坦迎撃戦)。いずれも防御的出兵で「出征」の典型例ではないが、対外戦争ルールの「皇帝自身が親征した場合のみ計上」に照らし、皇帝自身が軍事行動を直接指揮した記述がある本2件を計上。対金の葭州攻撃(1210年)は「遣万骑攻」で将軍派遣のみのため除外、対蒙古の1207-08年侵攻対応も「安全集右厢诸路兵以拒」で直接戦闘指揮の記述がないため除外。
反乱鎮圧回数
在位中(1206-1211)、原文中に西夏国内の部族反乱・農民反乱・地方蜂起の鎮圧記事は見当たらない。原文中に登場する「叛」字は全て金国側の反乱者(金叛人李藻・程陈僧・葩俄族汪三郎等)に関するもので西夏の被治民の反乱ではなく、対金外交・対金戦争の文脈で言及されているのみ。対蒙古・対金・対黒塔坦の戦争は本ブロックのルールにより対外戦争として鎮圧対象から除外。
被反乱回数
安全自身は1206年に桓宗純祐を廃して自立しており(簒奪)、これはaccessionRoute領域として被反乱の対象外。在位中に自身に対する軍事力を伴う反乱・クーデターの記述は見当たらない。1211年の後継者遵頊への即位(安全死去の1ヶ月前)は原文が「是可疑也」「金卫绍王无实录,莫得其故也」と経緯不詳を明記するのみで、兵力を伴う弑逆・クーデターであったことを示す具体的記述(兵を率いて攻撃した等)がないため計上を見送った。死因調査でも同様に断定されていない。
遷都回数
西夏書事を通読。興慶府(後の中興府)が景宗の建国当初から一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
『宋史』巻486夏国伝下「嘉定四年八月五日安全殂,年四十二」、『西夏書事』巻四十「年四十二,於是月五日卒」の両方が没年齢42歳・崩御日(旧暦嘉定四年八月五日)を直接記載し一致。生年・即位時年齢の直接記載は見当たらず(逆算は可能だが原文非記載のため不採用)。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
親征1208年9月〜1208年12月蒙古(中興府包囲戦への親征防衛)
対象: 蒙古(中興府包囲戦への親征防衛)
結果: 安全自ら中興府城壁上で将士を督戦し防御、大雨で河堤決壊し蒙古軍撤退。安全は納女して和議。
「蒙古主引兵薄中兴府,安全亲督将士登城守御,蒙古兵不能破」。対蒙古戦は対等外国勢力との対外戦争のため、安全自身が親しく指揮した本件のみ計上(息子承祯が主将だった前段の河西侵攻・克夷門攻防は将軍任せのため対象外)。
親征1211年5月黑塔坦(河西侵攻への迎撃)
対象: 黑塔坦(河西侵攻への迎撃)
結果: 安全自ら兵を率いて拒戦するも大敗、公主を失い臣礼を申し出て塔坦は撤退。
「黑塔坦国攻河西,御之,败绩...安全亲率兵拒战,大败,失其公主,遣使请以臣礼事」。対等外国勢力(黒塔坦)との対外戦争だが安全自身が親率したため計上。
改元日付不詳桓宗純祐を廃して自立したのと同日(旧暦正月二十日)に、天慶十三年を応天元年と改元。
桓宗純祐を廃して自立したのと同日(旧暦正月二十日)に、天慶十三年を応天元年と改元。西夏書事「鎮夷郡王安全廃其主純祐自立,改元応天」「安全久専国政,是月二十日,与純祐母羅氏廃純祐自立,改天慶十三年為応天元年」。即位と改元が同時(皇帝即位(改元同時))であり、二段階即位パターンには該当しない(安全は簒奪当初から皇帝の礼号を用いたとされる=flags.usedEmperorTitleFrom=1206)。
出典: 西夏書事 巻三十九
改元日付不詳応天四年(1209年)から皇建元年(1210年)へ改元。
応天四年(1209年)から皇建元年(1210年)へ改元。西夏書事は紀年見出し「嘉定三年、夏皇建元年春三月」で切り替わるのみで、改元自体の詳細な月日記事は見当たらない。宋史巻486「安全…在位六年,改元應天四年、皇建二年」、西夏書事巻四十末尾の総括「在位六年,改元二」と符合し、在位中の改元回数は応天・皇建の計2回であることが確認できる。皇帝在位中の改元。
出典: 西夏書事 巻四十/宋史 巻486