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西夏第2代

毅宗李諒祚

在位 1048–1067年(20年8日)1048年1月19日 〜 1068年1月27日 ( 1067年12月20日まで)

日本は平安時代

幼くして西夏の位に就き、没蔵訛龐に政を握られたが、訛龐を討って自ら政を執り、漢の儀礼を採る一方で宋の辺境を攻めた皇帝である。

毅宗の人物データ

生年
1047年3月5日
在位
  • 1048年1月19日〜1068年1月27日 1067年12月20日まで
20年8日長い順56位/365人2歳で即位(数え年)
没年
1068年1月27日( 1067年12月20日)21歳(数え年)長生き順同率227位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 景宗李元昊西夏毅宗は景宗の子
次代
  • 恵宗西夏恵宗は毅宗の子
呼び名
姓李諱諒祚呼び名の見方

出典

在位
西夏書事 卷十八(即位)/卷二十一(崩御)
死因
西夏書事 巻23付近/宋史 巻485
即位経路
宋史 巻485

生涯

即位まで

景宗元昊の子で、母は没蔵氏である。元昊のは従弟を立てることだったが、母方の訛龐がこれを退け、1048年に即位した。幼い毅宗は訛龐のもとで育てられ、訛龐が国相として政権を握った。

史料について

生まれを、宋史は1047年とし、続資治通鑑長編と東都事略は元昊の死後に生まれた遺腹の子とする。

治世と最期

1056年に母の没蔵太后が没すると、訛龐は娘を毅宗の妻とし、誅殺も思いのままにした。

1061年、訛龐を討って一族を滅ぼした。毅宗と通じていた訛龐の子の妻の梁氏が、訛龐の謀を密告したためで、毅宗は訛龐の娘の后を廃して梁氏を宮中に入れた。訛龐を除くと、蕃礼をやめて漢の儀礼に従うことを宋に願い出て、なども求めた。

1064年、宋が使者を辱めたと受け止め、10万の兵で宋の諸州を攻めた。1066年には自ら大順城を攻めて督戦したが、矢を受けて退いた。韓琦は毅宗を元昊ほどの智計の無い狂童と見て問い詰めるよう説き、毅宗が謝罪すると、英宗は見立てどおりだと言った。1068年の初めに没し、を毅宗とされた。

史料について

太后の死を、宋史は没したとだけ記し、続資治通鑑長編と東都事略は李守貴が殺したとし、西夏書事は狩りの帰りに蕃騎に殺されたとする。没蔵后は、西夏書事では廃されてのちに死を賜り、東都事略では同時に殺された。死因を、続資治通鑑は病死とし、西夏書事はの家の婦女を乱して怨まれ、身体が衰えて死んだとする。

毅宗とつながる皇帝

宋・遼・金・西夏の勢力図(1048年)

勢力図

宋・遼・金・西夏の勢力図で見る

1048–1067年の地図に、毅宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱4・親征1・皇后2・改元5
  1. 改元1049年元号を「延嗣寧国」とする
  2. 改元1050年元号を「天祐垂聖」とする
  3. 改元1053年元号を「福聖承道」とする
  4. 皇后1056年外戚・没藏訛龐が実権を握る中、その娘(毅宗の生母=没藏氏〈皇太后〉が同年に暗殺された後)を毅宗の皇后として冊立。
  5. 改元1057年元号を「奲都」とする
  6. 皇后1061年皇后を立てる
  7. 改元1063年元号を「拱化」とする
  8. 反乱1063年横山酋輕泥懐側の叛乱
  9. 反乱1064年夏州羌邈奔の西蕃投降(隴・珠・阿諾三城割譲)
  10. 1066年宋(慶州・大順城)
  11. 反乱1067年横山羌令凌の宋への内附
  12. 反乱1067年嵬名山の綏州を以ての宋への内降

西夏の歴代皇帝

歴代10人の一覧

年表

遼・西夏・金の時代を年表で見る

西夏が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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