献宗の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 1224年1月〜1226年8月旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1223年12月から
- 没年
- 1226年8月46歳(数え年)長生き順同率99位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓李諱徳旺呼び名の見方
出典
- 在位
- 西夏書事 巻四十一(即位記事、直後に「●卷四十二」が続くため前巻と判断・
巻見出し自体はキャッシュ範囲外)/巻四十二(崩御記事) - 死因
- 西夏書事 巻42
- 即位経路
- 西夏書事 巻41
生涯
即位まで
神宗の次子である。モンゴルにたびたび責められた父の李遵頊が恐れて、位を譲った。
史料について
譲位の理由を書くのは西夏書事で、宋史と金史は位を伝えたとだけ記す。
治世と最期
1224年、チンギス・カンが西域から戻らないと聞くと、漠北の諸部と結んでモンゴルを防ぐ計を立てた。同じ年、金に使者を送って修好を求めた。銀州が落ち、漠北の諸部も潰えると、人質を出すと約束して降伏を請うた。
1225年、モンゴルが人質を求めると、高良恵らが送るよう勧めても、金との修好を理由に送らなかった。同じ年、昼に太白金星の古い呼び名星が見えると直言を求め、人質を送るよう求める条も含む切実な上奏をした張公輔を、御史中丞官吏の不正を取り締まる役所の高官に抜擢した。金とは兄弟の国となって各自の年号を使う和議を結んだ。モンゴルの仇である乃蛮部の亡命者を受け入れると、金の援けは頼れないと説き続けた羅世昌は、受け入れを強く諫めて聞かれず、職を退いた。
1226年、西夏が仇人を受け入れて人質を送らなかったことを理由に、チンギス・カンが自ら西夏を討った。モンゴル軍は黒水城を破って粛州を屠り、甘州と西涼府を取った。城邑が潰えるなかで、李徳旺は憂え恐れて病を発し、没した。国人は南平王を立てた。
史料について
西夏書事の按は、漠北と結ぶ策は勝算があったが事が漏れたと惜しみ、智は父に勝るが時に恵まれなかったとしつつ、人質の約束を軽々しく翻して禍を早めたと批判する。金史の西夏伝は和議を前年に置く。宋史と金史は死因を書かない。後を継いだ南平王を、西夏書事は弟の清平郡王の子、新元史は従子、続資治通鑑は弟とし、宋史は続柄を書かない。
献宗とつながる皇帝

勢力図
宋・
1224–1226年の地図に、献宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
改元1
- 改元1224年元号を「乾定」とする
西夏の歴代皇帝
歴代10人の一覧年表
遼・
西夏が