中国皇帝統計

献宗

西夏|在位 1223–1226年

諱(本名)
李徳旺
在位
1223–1226年
在位期間
2年215日365名中240位タイ
即位経路
禅譲
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
46歳(数え年)269名中・長寿順99位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

父・神宗遵頊がモンゴルの圧力を恐れて譲位(「遵頊懼,遜位於次子徳旺,自號上皇」)。

出典: 西夏書事 巻41

死因の経緯

「蒙古兵深入,城邑盡潰。徳旺憂悸,不知所為,發病卒」=モンゴル軍侵攻下で恐慌・憂悸のうちに発病して死去。

出典: 西夏書事 巻42

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

西夏書事 巻四十一・巻四十二を通読。1223年十二月の即位時点では特に建元せず(神宗の元号『乾定』以前の状況を継続)、翌年正月から『嘉定十七年、夏乾定元年』として乾定を建元したことが紀年表記から確認できる。以後、崩御まで乾定の元号が継続使用され、崩御記事にも『改元一』と明記されているため、生涯で改元(建元含む)は1回のみと判断した。国号変更に該当する事実はない。

大赦回数

西夏書事 巻四十一(神宗禅位記事を含む)・巻四十二(献宗紀・乾定元年~三年)を通読したが「大赦」「大赦天下」等の記載は一切確認できなかった。モンゴルの侵攻が続く中、在位期間(1223年即位~1226年崩御)を通じて大赦の記録なしと判断。ただし編年体史書の性質上、簡略な省筆により記録が漏れている可能性も否定できないため確信度は中とした。

立后回数

西夏書事 巻四十一・巻四十二を通読したが、献宗(徳旺)の皇后冊立に関する記載は確認できなかった。在位約3年弱(1223年即位~1226年崩御)はモンゴル侵攻下の戦時体制で、政務記事も軍事・外交(対金修好)中心であり、後宮関係の記事自体が乏しい。記録が残っていないだけの可能性もあるため確信度は中とした。

皇太子廃立回数

西夏書事 巻四十一・巻四十二を通読。献宗(徳旺)自身の在位期間中に皇太子を立てた記録も廃した記録も見当たらない。なお同書には「夏四月、幽太子徳任於霊州」(巻四十一)という皇太子廃立事件が存在するが、これは徳旺の父・神宗(遵頊)在位中に長兄・徳任が廃されたものであり(徳旺自身が即位する前の出来事)、献宗自身の治世の出来事ではないため本項目には含めない。徳任は後に献宗没後の末主(李見)代、乾定四年十一月に「故太子徳任」として霊州陥落時に死去した旨が記録される(巻四十二)。

親征回数

原文キャッシュ(西夏書事巻四十一~四十二)を通読したが、德旺(献宗)が自ら軍を率いて出征した記載は見当たらない。乾定元年~三年の軍事関連記事はすべて蒙古軍が主体で沙州・銀州・黒水城・甘州・西凉府を攻撃する側であり、夏側は籍辣思義・曲也怯律・阿綽ら将領が守城する側として描かれる。德旺自身は「結漠北諸部兵以拒蒙古」等の外交・同盟策を主導したのみで、親征の事実は確認できない。

反乱鎮圧回数

原文キャッシュ中に西夏国内の反乱鎮圧に関する記載は見当たらない。軍事記事はすべて蒙古による対外侵攻とそれに対する各地守将の防戦(沙州の籍辣思義、銀州の塔海、甘州の曲也怯律・阿綽、西凉府の斡扎箦等)であり、対等勢力間の対外戦争にあたるためルールにより鎮圧カウントの対象外。国内蜂起・部族反乱の記載は確認できない。

被反乱回数

原文キャッシュ中に国内の農民反乱・部族反乱・弑逆クーデター等の記載は見当たらない。在位中の主要な軍事的脅威は蒙古の侵攻(沙州・銀州・黒水城・甘州・西凉府等への攻撃)であり、これは対等勢力(蒙古)との対外戦争として本ルールにより被反乱カウントの対象外とする。崩御自体もモンゴル侵攻下での憂悸・発病によるものであり、弑逆・クーデターの類ではない。

遷都回数

西夏書事を通読。興慶府(後の中興府)が景宗の建国当初から一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

西夏書事 巻四十二、崩御記事に「徳旺憂悸,不知所為,發病卒,年四十六,在位四年,改元一,廟號獻宗」と明記。享年46歳(数え年)。生年月日・即位時年齢の直接記載はなし。なお同記事直後の「論曰」評伝では『在位三年』と表記されており、原典内でも在位年数の記述に揺れがある(乾定元年=1224年、乾定三年七月=1226年七月に崩御という同書自身の紀年構造とは整合)。

在位中の出来事(1件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元1224年父・神宗(遵頊)の禅位を受け1223年十二月に即位した後、翌年(南宋嘉定十七年)を「乾定元年」として建元。

父・神宗(遵頊)の禅位を受け1223年十二月に即位した後、翌年(南宋嘉定十七年)を「乾定元年」として建元。以後、崩御(乾定三年=1226年七月、通称『乾定四年七月』)まで乾定の年号を継続使用し、改元は行わなかった。西夏書事 巻四十二の崩御記事に「改元一」と明記されており、献宗の治世を通じて改元は建元時の1回のみと確認できる。

出典: 西夏書事 巻四十二

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