神宗の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 1211年8月12日〜1224年1月旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1223年12月まで
- 没年
- 1226年3月64歳(数え年)長生き順同率26位/266人
- 死因
- 不詳死因を書いた記録が史書に見当たらない。同じ死因31人/365人
- 呼び名
- 姓李諱遵頊呼び名の見方
- 目立つ記録
- 皇太子を廃した 1回多い順同率4位
出典
- 在位
- 西夏書事 巻四十(即位) / 巻四十一(禅位)
- 死因
- 西夏書事 巻41-42/宋史 巻486
- 即位経路
- 金史 列伝72/西夏書事 巻39-40
生涯
即位まで
斉王の子で、人となりが端正で聡明、群書に通じ、隷書・篆書に巧みだった。1203年に廷試皇帝の前で行う官吏登用の最終試験で首位となって進士に及第し、斉王の爵を継いだ。1211年、李安全が没する少し前に立ち、光定と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。安全には子の承禎がいたが、継げなかった。
史料について
父の名を、宋史は彦宗とし、西夏書事は彦忠と書く。即位の事情を、金史は分からないとする。
治世と最期
1217年、金が和を望むと聞いて将士に金の境を犯さぬよう戒めたというが、夏兵はやがて黄鶴岔で金に敗れた。
1218年、モンゴルに都を囲まれると、太子の李徳任に留守させて西涼へ逃れた。金と和してモンゴルを防ぐよう涙ながらに争った蘇寅孫を、その忠を知って抜擢した。同じ年に金に交易の再開を求めて許されず、その後モンゴル兵を導いて金の葭州から攻め入った。
1223年、太子の李徳任に金を討たせようとし、和を約すべきだと諫められても聞かず、李徳任が太子を辞して僧になりたいと願うと、怒って霊州に幽閉した。国が荒れ果てているのに兵を集めて金の鞏州を図り、太子を戻すよう上奏した梁徳懿を、率直な言葉を嫌って官を辞めさせた。やがて子の李徳旺に位を譲って、上皇と号した。李遵頊は1226年に没した。
史料について
黄鶴岔の前の戒めを、金史の西夏伝は間者の言として伝え、西夏書事はしばらくして果たされなかったとする。西夏書事の按は、都を死守もできず君主の道があったと言えるかと責める。譲位を、西夏書事はモンゴルにたびたび責められて恐れたためとし、その按は責めを子に委ねたと評する。西夏書事の論は、才は優れていたが、兵を好んで災いを招き、慌てて逃げて位を譲ったと批判する。
神宗とつながる皇帝

勢力図
宋・
1211–1224年の地図に、神宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
皇太子1・改元1
- 改元1211年8月12日元号を「光定」とする
- 皇太子1223年皇太子李徳任が父・
遵頊の対金侵攻方針を諫め、聞き入れられず出家(避太子位)を願い出たところ、遵頊は激怒し徳任を霊州に幽閉した。
西夏の歴代皇帝
歴代10人の一覧年表
遼・
西夏が