神宗
西夏|在位 1211–1223年
- 諱(本名)
- 李遵頊
- 在位
- 1211–1223年
- 在位期間
- 12年120日365名中113位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 不詳
- 即位時年齢
- 49歳(数え年)172名中・若い順158位
- 没年齢
- 64歳(数え年)269名中・長寿順26位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 1回29名中5位タイ
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
金史「安全薨,族子遵頊立…立在安全薨前一月,衞紹王無實録,不知其故」。西夏書事も安全死去前に既に即位していた異常な時系列を疑わしいとする。安全の実子・承禎を差し置いて擁立されており簒奪=クーデターを強く示唆するが原典自体が経緯不詳と認めるため確信度medium。
出典: 金史 列伝72/西夏書事 巻39-40
死因の経緯
「故主遵頊卒,年六十四」。西夏書事論曰「幸而天不永年」とあり、モンゴル侵攻の混乱下での病没・老衰死の可能性が高いが原文に病名等の明記なし。
出典: 西夏書事 巻41-42/宋史 巻486
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位13年間、光定元年から光定十三年まで一貫して同一元号を使用(史料上「光定二年」~「光定十三年」の逐年表記を確認済み、途中で別の年号名への切替なし)。西夏書事の遵頊崩御記事に付された総括「年六十四,在位十三年,改元一,謚曰英文皇帝,廟號神宗」が改元回数1回であることを直接裏付けている。
大赦回数
西夏書事(在位区間 巻41-42相当箇所、1211-1223年)、金史列伝72(夏国伝)、宋史巻486(夏国伝下)のいずれにも遵頊在位中の「大赦」「大赦天下」等の記事は見当たらない。西夏書事全体では他の皇帝(太宗徳明・景宗元昊・崇宗乾顺・桓宗純祐など)については大赦記事が複数確認できるため史書が大赦を記録する慣行はあるが、遵頊の治世(1211-1223、対金・対蒙古の戦乱期)については該当記事なし。原典に「見当たらない」という消極的事実に基づくためconfidenceはmediumとした。
立后回数
西夏書事の遵頊在位区間(1211-1223年、巻41-42相当)、金史列伝72、宋史巻486のいずれにも遵頊による立后(皇后冊立)の記事は見当たらない。西夏書事全体では他の皇帝(元昊・秉常・乾順・仁孝ら)について立后記事が複数確認できる(例:秉常期「立任氏為皇后」等)ため史書の記録慣行自体はあるが、遵頊についてのみ皇后に関する記述が一切ない。皇后不在(または記録されていない)と判断し count:0 とした。原典に明記された「立后なし」の直接文言はなく消極的事実に基づくためconfidenceはmediumとした。
皇太子廃立回数
金史列伝72(夏国伝)にも同じ諫言・幽閉の記事があり(「二年,遵頊使其太子德任來伐…遵頊怒,幽之靈州」)、西夏書事の記述と一致する。ただし金史側には「復其儲位」に相当する廃位確定の文言はなく、西夏書事の梁徳懿上奏文が廃位の直接的な文証となっている。
親征回数
在位13年間、金・蒙古との戦争が極めて頻発する治世だが、原文の大多数は「遵顼遣兵X万」「遣使」「遣将」等の派遣表現で将軍への委任を明示しており、皇帝自身の「自将」「親征」「帥師」等の直接従軍を示す語は一度も見当たらない。唯一「時遵頊圍平涼」(嘉定四年冬十一月・侵金涇原二州囲平涼府の条)が将軍名を伴わず遵頊を直接主語とする表現だが、編年体史書が国家の軍事行動を慣例的に君主名義で記す書き方(春秋筆法)との判別が難しく、これ単独では親征と断定する決め手に欠ける。また蒙古軍が中興府を包囲した際(嘉定十六年12月直前の記事)は「遵頊命太子德任居守,己出走西涼」と自ら出撃せず西涼へ退避しており、皇太子への出征命令を拒まれ「遣人代將出兵」で他者に代行させた記事(夏四月「幽太子德任於靈州」条)とも整合的に、遵頊自身は終始後方で指揮し前線には立たなかった人物像が原文全体から読み取れる。以上により親征0件と判定。
反乱鎮圧回数
本紀原文に記される軍事衝突は全て対金・対蒙古の対外戦争(西夏・金・蒙古はそれぞれ独立政権として扱うルールに基づき、鎮圧・被反乱の対象外)であり、国内の農民反乱・盗賊蜂起・地方蜂起等、鎮圧の対象となる国内反乱は原文中に記載が見当たらない。葩俄族(嘉定九年)・蕃族福山(嘉定十年)・河西将甘卜(嘉定十五年)ら夏国属下の部族・武将が金または蒙古へ「叛降」した記事はあるが、いずれも夏国側による武力鎮圧の記述を伴わず、対金・対蒙古戦争の劣勢に伴う戦時の離反・投降であり、鎮圧イベントとしては計上しない。
被反乱回数
太子德任の幽閉(嘉定十六年夏四月「幽太子德任於靈州」)は父子間の政治的対立・幽閉であり、兵力を伴うクーデター・弑逆には該当しないため対象外。葩俄族(1216)・蕃族福山(1217)・河西将甘卜(1222)ら属下部族の金・蒙古への離反も、夏国への武装蜂起・軍事衝突を伴わない戦時の投降であり反乱とは認定しない。国内での農民反乱・地方蜂起の記載も原文中に見当たらない。蒙古軍による中興府包囲(嘉定十五年12月・遵頊が西涼へ退避した事件)は独立勢力である蒙古との対外戦争であり、被反乱の対象外(ルール上、蒙古は金の名目藩属だったが対金開戦時点で事実上独立勢力として扱う旨が明記されており、対夏戦争でも同様に外国勢力として扱うのが妥当)。以上により被反乱0件と判定。
遷都回数
西夏書事を通読。興慶府(後の中興府)が景宗の建国当初から一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
西夏書事「遵頊於是月三日立,時年四十九」(光定元年=嘉定四年七月三日)。宋史巻486夏国伝下「嘉定四年七月三日立,時年四十九」も同旨で一致。没時:西夏書事「故主遵頊卒。年六十四,在位十三年,改元一,謚曰英文皇帝,廟號神宗」。宋史巻486「寶慶二年春,遵頊殂,年六十四」。金史巻134夏伝「三年二月,遵頊死」(正大三年=1226年)。三史とも没年齢64歳・在位13年で一致。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1211年8月12日李安全(襄宗)を廃するクーデターにより即位すると同時に建元。
李安全(襄宗)を廃するクーデターにより即位すると同時に建元。前代・安全の「皇建」二年を改めて「光定」元年とした(西夏書事「遵頊於是月三日立,時年四十九,改皇建二年為光定元年」)。以後、光定十三年(1223年)の禅位までこの元号を継続使用しており、在位中の再改元は確認されない。
出典: 西夏書事 巻41(光定元年七月条)/宋史 巻486(夏国伝下)
皇太子廃立1223年4月皇太子李徳任が父・遵頊の対金侵攻方針を諫め、聞き入れられず出家(避太子位)を願い出たところ、遵頊は激怒し徳任を霊州に幽閉した。
皇太子李徳任が父・遵頊の対金侵攻方針を諫め、聞き入れられず出家(避太子位)を願い出たところ、遵頊は激怒し徳任を霊州に幽閉した。同年(光定十三年)末の御史中丞梁徳懿の上奏文に「太子…一旦位遭廢斥,身辱幽囚」「召還青宮,復其儲位」と明記されており、単なる幽閉に留まらず皇太子位そのものの廃位を伴ったことが確認できる。廃位後、遵頊は同年十二月に次子・李徳旺へ禅位しており、徳任は皇太子に復位しないまま廃嫡された。
出典: 西夏書事 巻41(光定十三年夏四月・冬十月条)