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西夏第8代

神宗李遵頊

在位 1211–1223年(12年145日)1211年8月12日 〜 1224年1月 ( 1223年12月まで)

日本は鎌倉時代

に首位で及第したから位に就いたが、金と十年にわたって争い、モンゴルにたびたび責められて子に位を譲った西夏の皇帝である。

神宗の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 1211年8月12日〜1224年1月 1223年12月まで
12年145日長い順112位/365人49歳で即位(数え年)1223年に献宗に位を譲り(内禅)、3年後の1226年に没
没年
1226年3月64歳(数え年)長生き順同率26位/266人
死因
同じ死因31人/365人
即位経路
(経緯記載なし)
先代
  • 襄宗西夏神宗は襄宗の同族(遠縁)
次代
  • 献宗西夏献宗は神宗の子
呼び名
姓李諱遵頊呼び名の見方
目立つ記録
  • 皇太子を廃した 1回多い順同率4位

出典

在位
西夏書事 巻四十(即位) / 巻四十一(禅位)
死因
西夏書事 巻41-42/宋史 巻486
即位経路
金史 列伝72/西夏書事 巻39-40

生涯

即位まで

斉王の子で、人となりが端正で聡明、群書に通じ、隷書・篆書に巧みだった。1203年にで首位となって進士に及第し、斉王の爵を継いだ。1211年、李安全が没する少し前に立ち、光定とした。安全には子の承禎がいたが、継げなかった。

史料について

父の名を、宋史は彦宗とし、西夏書事は彦忠と書く。即位の事情を、金史は分からないとする。

治世と最期

1217年、金が和を望むと聞いて将士に金の境を犯さぬよう戒めたというが、夏兵はやがて黄鶴岔で金に敗れた。

1218年、モンゴルに都を囲まれると、太子の李徳任に留守させて西涼へ逃れた。金と和してモンゴルを防ぐよう涙ながらに争った蘇寅孫を、その忠を知って抜擢した。同じ年に金に交易の再開を求めて許されず、その後モンゴル兵を導いて金の葭州から攻め入った。

1223年、太子の李徳任に金を討たせようとし、和を約すべきだと諫められても聞かず、李徳任が太子を辞して僧になりたいと願うと、怒って霊州に幽閉した。国が荒れ果てているのに兵を集めて金の鞏州を図り、太子を戻すよう上奏した梁徳懿を、率直な言葉を嫌って官を辞めさせた。やがて子の李徳旺に位を譲って、上皇と号した。李遵頊は1226年に没した。

史料について

黄鶴岔の前の戒めを、金史の西夏伝は間者の言として伝え、西夏書事はしばらくして果たされなかったとする。西夏書事の按は、都を死守もできず君主の道があったと言えるかと責める。譲位を、西夏書事はモンゴルにたびたび責められて恐れたためとし、その按は責めを子に委ねたと評する。西夏書事の論は、才は優れていたが、兵を好んで災いを招き、慌てて逃げて位を譲ったと批判する。

神宗とつながる皇帝

宋・遼・金・西夏の勢力図(1211年)

勢力図

宋・遼・金・西夏の勢力図で見る

1211–1224年の地図に、神宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

皇太子1・改元1
  1. 改元1211年8月12日元号を「光定」とする
  2. 皇太子1223年皇太子李徳任が父・遵頊の対金侵攻方針を諫め、聞き入れられず出家(避太子位)を願い出たところ、遵頊は激怒し徳任を霊州に幽閉した。

西夏の歴代皇帝

歴代10人の一覧

年表

遼・西夏・金の時代を年表で見る

西夏が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「継承(経緯記載なし)」の17名をデータベースで見る

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