慕容瑤の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 386年〜386年
- 没年
- 386年年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 姓慕容諱瑤呼び名の見方
出典
- 在位
- 資治通鑑 巻一百六 晋紀二十八(太元十一年)
- 死因
- 資治通鑑巻106 晋紀二十八
- 即位経路
- 資治通鑑巻106 晋紀二十八
生涯
どんな皇帝か
資治通鑑・魏書・北史・十六国春秋の中では、立てられ、去られ、殺される側としてだけ現れ、本人の言葉や命令は一つも伝わらない。
即位まで
西燕の主の慕容沖の子である。386年、長安に居ついて東へ帰らない慕容沖を鮮卑が怨み、韓延が慕容沖を殺して部将の段随を燕王に立てた。同じ年、慕容恒と慕容永が段随を殺して慕容顗を立て、鮮卑の男女を率いて長安を去り東へ向かった。慕容恒の弟の慕容韜が慕容顗を臨晋に誘い出して殺すと、慕容恒は怒って慕容韜のもとを去り、慕容永に攻められた慕容韜は慕容恒の陣営へ逃げ込んだ。そのあと慕容恒が慕容瑤を帝に立て、建平と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることし、父の慕容沖に威皇帝の諡が贈られた。
史料について
慕容沖の子であること以外、生年や経歴は確かめた範囲の書には無い。慕容沖を殺した者を、晋書の孝武帝紀は許木末、慕容盛載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録は段木延、十六国春秋は韓延と許木末とする。長安を去った人数を、資治通鑑は四十余万口、魏書は三十余万口とする。
治世と最期
人々はみな慕容瑤のもとを去って慕容永に奔り、慕容永が慕容瑤を捕らえて殺した。慕容永はそのあと慕容泓の子の慕容忠を帝に立て、慕容忠は慕容永を太尉朝廷で最も位の高い大臣の一つ・河東公としたが、その慕容忠ものちに刁雲に殺された。
史料について
名を、資治通鑑と十六国春秋は瑤とし、魏書と北史は望とする。晋書には擁立も殺害も無い。確かめた範囲の書は、即位と死の月日、人々が去った理由、本人の言葉を書かない。
慕容瑤とつながる皇帝

勢力図
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386年の地図に、慕容瑤が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・改元1
- 反乱386年慕容永による慕容瑤弑逆・
簒奪 - 改元386年4月元号を「建平」とする
西燕の歴代皇帝
歴代7人の一覧- 第1代慕容泓皇帝を名乗っていない384年
- 第2代威帝385–386年暗殺
- 第3代段随皇帝を名乗っていない386年
- 第4代慕容顗皇帝を名乗っていない386年
- 第5代慕容瑤386年暗殺
- 第6代慕容忠386年暗殺
- 第7代慕容永386–394年処刑
年表
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