慕容瑤
西燕(五胡十六国)|在位 386年
- 諱(本名)
- 慕容瑤
- 在位
- 386年
- 在位期間
- 30日365名中356位タイ
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
慕容沖の死後の短期混乱を経て、左僕射・慕容恆の主導で沖の子・瑤が皇帝に擁立され建平と改元(「恆立西燕主沖之子瑤為帝,改元建平」)。
出典: 資治通鑑巻106 晋紀二十八補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
人心が瑤から離れ慕容永のもとへ集まり、永が瑤を捕らえて殺害した(「眾皆去瑤奔永,永執瑤,殺之」)。西燕内部の実力者による殺害。
出典: 資治通鑑巻106 晋紀二十八補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
原文:「恆立西燕主沖之子瑤為帝,改元建平,謚沖曰威皇帝。眾皆去瑤奔永,永執瑤,殺之」。即位に伴う建元1回のみで、在位中の追加改元は確認できない。
大赦回数
慕容瑤の在位期間(改元建平〜永に殺されるまでの数ヶ月)を記す該当箇所に「大赦」の語は見られない。
立后回数
在位期間が極めて短く、立后の記録は見られない。
皇太子廃立回数
在位期間が極めて短く、皇太子を立てた記録も廃した記録もない。
親征回数
在位は擁立から慕容永に殺されるまで数十日程度の極短期間で、資治通鑑(晋紀二十八、太元十一年)に瑤自身が軍を率いて出征した記録は見られない。即位・被弑逆の記述のみ。
反乱鎮圧回数
瑤の在位中に瑤側が鎮圧主体となった反乱の記録はない。唯一の軍事的事件は慕容永による瑤弑逆であり、これは反乱者側が主体(鎮圧されなかった)なので鎮圧回数には計上しない。
被反乱回数
五胡十六国期・西燕の内紛。慕容永は独立した対等政権の君主ではなく西燕内部の実力者(かつて「西燕将軍慕容永」「尚書慕容永」として同政権に属していた)であり、兵力(瑤から離反した衆)を背景に瑤を捕殺したクーデターと判断した。
遷都回数
晋書載記を通読。慕容沖ら西燕初期(長安入城まで)は建国時の定都選定過程の一部と判断。長安→長子の遷都は慕容永の代の出来事。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(reignData・note・raw等)および_corpus_cache/xiyan-murongyao.txt(資治通鑑晋紀二十八)を確認したが、慕容瑤の生年月日・享年・即位時年齢についての直接記載は見当たらなかった。慕容永による弑逆記事のみで年齢情報なし。調査済みだが不明。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
被反乱386年慕容永による慕容瑤弑逆・簒奪
首謀者: 慕容永
結果: 慕容恆に擁立され建平と改元した瑤だったが、まもなく人心が慕容永の下へ去り、永が瑤を捕らえて殺害した。永はその後、慕容泓の子・忠を擁立している。
原文:「恆立西燕主沖之子瑤為帝,改元建平,謚沖曰威皇帝。眾皆去瑤奔永,永執瑤,殺之,立慕容泓子忠為帝,改元建武」(資治通鑑 晋紀二十八)。慕容永は西燕政権内部の将軍・尚書であり外部の独立政権ではないため、判定基準の例外4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当し、被反乱側にのみ計上し鎮圧側には計上しない。
改元日付不詳西燕左僕射慕容恆が段随殺害後に擁立された宜都王子顗(改元建明)を経て、恆が西燕主慕容沖の子・慕容瑤を帝に立て、改元建平(即位に伴う建元)。
西燕左僕射慕容恆が段随殺害後に擁立された宜都王子顗(改元建明)を経て、恆が西燕主慕容沖の子・慕容瑤を帝に立て、改元建平(即位に伴う建元)。太元十一年(386年)内の出来事だが月は明記されず。まもなく人心が慕容永の下へ去り、永が瑶を捕えて殺害した。
出典: 資治通鑑 晋紀二十八(太元十一年)