中国皇帝統計

慕容忠

西燕(五胡十六国)|在位 386年

諱(本名)
慕容忠
在位
386年
在位期間
213日365名中319位
即位経路
擁立
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

瑤を殺害した慕容永が自らは即位せず、慕容泓の子・忠を皇帝に擁立し建武と改元(「立慕容泓子忠為帝,改元建武」)。

出典: 資治通鑑巻106 晋紀二十八補記: zh.wikisource.org

死因の経緯

即位から約3ヶ月後、将軍・刁雲らに殺害された(「西燕刁雲等殺西燕主忠」)。西燕内部の将軍による謀殺。

出典: 資治通鑑巻106 晋紀二十八補記: zh.wikisource.org

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

忠の在位は建武の一元号のみで、六月に刁雲らに殺されるまで改元は他に見られない。eventCount=1。日付は月単位の推定(confidence medium)。

大赦回数

在位期間(386年3月頃〜6月)に西燕主忠自身による「大赦」の記述なし。同時期に「三月,大赦」とあるがこれは東晋の大赦であり(前後の文脈が謝玄・硃序ら東晋の人物・地名)、西燕には無関係。他に見える「大赦」は後燕(燕大赦,改元建興)、後秦(秦大赦/苌即位時の大赦)でいずれも西燕主忠とは別政権。

立后回数

在位期間中に立后の記述なし。原文には忠を太尉・守尚書令・河東公に封じた慕容永の処遇のみが記され、皇后に関する言及はない。

皇太子廃立回数

在位期間が数ヶ月と極めて短く、立太子・廃太子に関する記述は原文中に見当たらない。

親征回数

在位は太元十一年(386年)三月頃〜六月庚寅の約3ヶ月間。忠自身が軍を率いて敵対勢力を攻撃した記録は資治通鑑(晋紀二十八)に見られない。在位中の軍事行動としては、太尉・慕容永の主導下で長安を離れた鮮卑集団が閩喜に至り「燕熙城」を築いて留まった記事があるのみで、これは慕容垂の称帝を知って進軍を断念した退避・定着であり、皇帝自身が指揮する対敵遠征とは言えないため0回とした。

反乱鎮圧回数

在位約3ヶ月の間に忠側が反乱を鎮圧した記録はない。忠自身が刁雲らに殺害されて政権が慕容永に移ったのみで、鎮圧の主体が皇帝側であった事例は確認できない。

被反乱回数

刁雲は先に恆・韜の内紛でも登場する武衛将軍で、忠擁立後もその地位のまま忠を弑逆した。単一の首謀者・単一の事件として1件とカウント。

遷都回数

晋書載記を通読。慕容沖ら西燕初期(長安入城まで)は建国時の定都選定過程の一部と判断。長安→長子の遷都は慕容永の代の出来事。

即位時年齢・没年齢

既存レコード(reigns/accessionRoute/deathCause等)および_corpus_cache/xiyan-murongzhong.txt(資治通鑑晋紀二十八・晋書載記十五)を確認したが、慕容忠の生年月日・没年月日・享年に関する直接記載は見当たらなかった。在位は386年3月頃即位(建武と改元)〜386年6月庚寅に将軍刁雲らに殺害されるまでの約3ヶ月間で、この間の年齢を示す「時年」等の記述もない。調査済みだが不明。

在位中の出来事(2件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元386年3月西燕左僕射慕容恒・尚書慕容永が段随を殺した後、宜都王子顗を燕王に立て建明と改元→恒が瑶(冲の子)を帝に立て建平と改元→衆が瑶を去り永に奔ったため永が瑶を捕らえて殺し、慕容泓の子・忠を帝に立てて建武と改元した。

西燕左僕射慕容恒・尚書慕容永が段随を殺した後、宜都王子顗を燕王に立て建明と改元→恒が瑶(冲の子)を帝に立て建平と改元→衆が瑶を去り永に奔ったため永が瑶を捕らえて殺し、慕容泓の子・忠を帝に立てて建武と改元した。この建武への改元が忠の即位に伴う建元(最初で唯一の改元)。原文に日付の明記はないが、直前の「三月,大赦」(東晋)と直後の「夏,四月」の間に位置する記事であるため三月頃と推定。

出典: 資治通鑑 晉紀二十八(太元十一年)

被反乱386年6月刁雲らによる弑逆(西燕内部クーデター)

首謀者: 刁雲

結果: 西燕の武衛将軍・刁雲らが皇帝慕容忠を殺害し、太尉・慕容永を大都督中外諸軍事・大将軍・大単于等に推戴。永はその後、後燕の慕容垂に称藩した。忠側に鎮圧の機会はなく、政権はそのまま反乱側(永・刁雲陣営)に移った。

『資治通鑑』巻106 晋紀二十八・太元十一年六月庚寅条「西燕刁雲等殺西燕主忠,推慕容永為使持節、大都督中外諸軍事、大將軍、大單于、雍、秦、梁、涼四州牧、錄尚書事、河東王,稱籓於燕」。朝廷内部の武将による兵力を伴う弑逆クーデターであり、判定基準の例外4に該当するためrebellionSufferedCountにのみ計上し、rebellionSuppressionCountには含めない。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。