本文へスキップ

西燕(五胡十六国)第6代

慕容忠

在位 386年(213日)

日本は古墳時代

慕容忠は西燕の慕容泓の子で、386年、長安を去って東へ移る鮮卑の集団の中で慕容永に帝に立てられた。

慕容忠の人物データ

生年
不詳
在位
  • 386年〜386年
213日長い順同率310位/365人即位の年齢は不詳
没年
386年年齢不詳
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 慕容瑤西燕慕容忠は慕容瑤の従兄弟
次代
  • 慕容永西燕慕容永は慕容忠の同族(遠縁)
呼び名
姓慕容諱忠呼び名の見方

出典

在位
資治通鑑 巻一百六 晋紀二十八(太元十一年)/晋書 巻一百十五 載記第十五(苻丕苻登)
死因
資治通鑑巻106 晋紀二十八
即位経路
資治通鑑巻106 晋紀二十八

生涯

どんな皇帝か

同じ年のうちに刁雲らに殺され、慕容永が推し立てられた。本人の言葉や性格、年齢、后妃や子は、調べた範囲の・資治通鑑・十六国春秋のどこにも見えない。

即位まで

西燕の慕容泓の子である。父の慕容泓は、徳望が慕容沖に及ばず法の運用が苛酷だとして、謀臣の高蓋らに殺されていた。386年、長安にとどまって東へ帰らない慕容沖を鮮卑が怨み、慕容沖は殺された。次に立てられた段随も慕容恒と慕容永に殺され、二人は慕容顗を燕王に立てて、数十万の鮮卑を率いて長安を去り東へ向かった。慕容恒の弟の慕容韜が慕容顗を殺すと、慕容恒は怒って慕容韜のもとを去り、慕容永らが慕容韜を攻めた。慕容恒は慕容沖の子の慕容瑤を帝に立てたが、衆は慕容瑤を去って慕容永に奔った。慕容永は慕容瑤を殺し、慕容忠を帝に立てて建武とした。

史料について

慕容泓の死を、晋書の孝武帝紀は慕容沖に殺されたとする。慕容沖を殺した者を、資治通鑑と魏書は韓延、孝武帝紀は許木末とする。慕容瑤の名を、魏書と北史は望と書く。

治世と最期

慕容忠は慕容永を・守尚書令とし、河東公に封じた。慕容永の法の運用は寛やかで公平で、鮮卑は安んじた。一行は聞喜に至ったところで、後燕の慕容垂がすでに帝を称したと聞き、燕熙城を築いてとどまった。

その年のうちに刁雲らが慕容忠を殺し、慕容永を・大・河東王などに推した。

史料について

とどまった理由を、資治通鑑は慕容垂をはばかって進めなかったとし、北史・魏書・十六国春秋は農事が大切だと口実にしたとする。十六国春秋は慕容永の官にを加える。殺した理由と方法、慕容忠の年齢や言葉は、確かめた範囲の書には無い。

慕容忠とつながる皇帝

五胡十六国の勢力図(386年)

勢力図

五胡十六国の勢力図で見る

386年の地図に、慕容忠が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・改元1
  1. 改元386年4月元号を「建武」とする
  2. 反乱386年7月刁雲らによる弑逆(西燕内部クーデター)

西燕の歴代皇帝

歴代7人の一覧
  1. 第1代慕容泓皇帝を名乗っていない384年
  2. 第3代段随皇帝を名乗っていない386年
  3. 第4代慕容顗皇帝を名乗っていない386年

年表

五胡十六国の時代を年表で見る

西燕が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「擁立」の97名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。