明宗の人物データ
- 生年
- 1300年12月22日
- 在位
- 1329年2月27日〜1329年8月30日
- 没年
- 1329年8月30日30歳(数え年)長生き順同率186位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 漢字音写和世㻋呼び名の見方
出典
- 在位
- 元史 明宗本紀(巻三十一)
- 死因
- 元史 巻三十一(明宗)/巻四十(順帝三・
後至元六年六月の詔) - 即位経路
- 元史 巻三十一(明宗)
生涯
即位まで
武宗の長子で、母は亦乞烈氏である。武宗は仁宗を皇太子に立てたとき、位を次いで明宗に伝えるよう命じていた。1316年、丞相皇帝を助けて政治全体を取りまとめた最高位の役職の鉄木迭児らが英宗の立太子跡継ぎの皇子を正式に皇太子と定めることを図って明宗を両宮皇帝と皇太后の二人に讒言し、明宗は周王に封じられて雲南へ出された。明宗が陝西で挙兵しようとすると、武恪は、京師へ一矢でも放てば史官朝廷の出来事を記録し歴史を書く役人は太子反すと書くと諫めたが、左右に疎まれて京師へ帰された。陝西行省中央の役所の出先として地方の広い地域を治めた役所丞相の阿思罕は関中の兵を発したが、塔察児らが河中で阿思罕と教化を襲殺し、明宗は北辺の金山に至った。1328年に泰定帝が没すると燕鉄木児が挙兵し、明宗が遠くにいたため、弟の懐王が先に即位して文宗となり、大兄の至るのを待つと詔した。1329年、文宗の遣いの撒迪らに勧められ、明宗は和寧の北で即位した。
史料について
新元史は周王封を前年とし、仁宗の母の皇太后が明宗の英気を憚ったとする。
治世と最期
撒迪らを京師に還すとき、弟が書史を怠っていないかを案じ、賢い士大夫学問を身につけて役人となった知識人の層と古今の治乱得失を論じるよう伝えさせた。燕鉄木児を太師君主の師とされる、最高位の位の一つ・中書右丞相元の朝廷で政治を取りまとめた最高位の大臣とし、文宗を皇太子に立てた。
同じ年、王忽察都で皇太子の文宗らを宴し、その四日後に急死した。明宗の后の命として、燕鉄木児が宝を文宗に授けた。
史料について
元史の明宗紀は暴崩皇帝が急に亡くなることとだけ記す。元史の燕鉄木児伝は燕鉄木児自身も逆謀に加わっていたとし、新元史の同じ伝は燕鉄木児がひそかに弑逆臣下や子が主君や親を殺すことの謀を文宗に告げたとする。続資治通鑑は王忽察都を明宗が毒を飲んで崩じた地とし、燕鉄木児が自ら謀ったと書く。1340年の順帝の詔は、文宗が臣下と謀って明宗に恨みを飲ませて崩じさせたと述べる。新元史の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、明宗の弑はおそらく燕鉄木児から出て文宗の本意ではないが、与り聞いた以上は文宗の弑に等しいと論じる。
明宗とつながる皇帝
元の歴代皇帝
歴代15人の一覧- 第1代チンギス・カン皇帝を名乗っていない1206–1227年
- 第2代オゴデイ皇帝を名乗っていない1229–1241年
- 第3代グユク皇帝を名乗っていない1246–1248年
- 第4代モンケ皇帝を名乗っていない1251–1259年
- 第5代世祖クビライ1260–1294年病死
- 第6代成宗1294–1307年病死
- 第7代武宗1307–1311年病死
- 第8代仁宗1311–1320年病死
- 第9代英宗1320–1323年暗殺
- 第10代泰定帝1323–1328年病死
- 第11代天順帝1328年不詳
- 第12・14代文宗1328–1329年1329–1332年(復位)病死
- 第13代明宗1329年暗殺
- 第15代寧宗1332年病死
- 第16代恵宗1333–1370年病死
年表
元・
元が
