中国皇帝統計

明宗

元|在位 1329年

明宗の肖像
諱(本名)
コシラ(和世㻋)
在位
1329年
在位期間
184日365名中326位タイ
即位経路
禅譲
死因
暗殺
即位時年齢
30歳(数え年)172名中・若い順112位タイ
没年齢
30歳(数え年)269名中・長寿順188位タイ
改元
0
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

文宗が燕鉄木児のクーデターで先に即位した後、兄である明宗を正統な帝位継承者として北方に迎え、天暦2年正月に明宗が即位、文宗を皇太子とした。形式は弟からの譲位だが実態は権臣主導。

出典: 元史 巻三十一(明宗)

死因の経緯

天暦2年8月6日、弟文宗と会見した数日後に「暴崩」。正史は直接「弑」とは書かないが、後至元6年(1340)に順帝(明宗の子)が発した公式の詔で、文宗が臣下と共謀して明宗を弑逆したと断罪し文宗の廟主を太廟から撤去した。元朝自身による事実上の弑逆認定であり後世の推測ではない。

出典: 元史 巻三十一(明宗)/巻四十(順帝三・後至元六年六月の詔)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

固有注意事項の通り確認。元史巻三十一(明宗紀)冒頭で「天暦二年正月乙丑」と、即位(丙戌、同月28日)の前後を通じて弟文宗トク・テムルが建元した「天暦」の年号がそのまま用いられており、明宗自身による新たな建元・改元の記事は一切ない。崩御記事も「庚寅、帝暴崩」(天暦二年八月)とあり、終始「天暦」年号のまま。新元史巻二十(明宗)でも同様に天暦の年号が継続使用されており、独自の改元は確認されない。よって既存の経緯欄の記載通りeraChangeCount=0。

大赦回数

元史巻三十一(明宗紀)全文(即位から崩御までの約7ヶ月間の記事)を通読したが「大赦」「大赦天下」の記載は一切なし。新元史巻二十(明宗)でも同様に大赦の記載なし。なお、新元史文宗紀(巻十九〜二十一)には天暦元年9月13日の即位大赦(致和元年→天暦元年建元時)および天暦2年8月15日の文宗復位大赦の2件の「大赦天下」が見られるが、これらはいずれも文宗自身の即位・復位に伴うものであり、明宗自身の在位期間(天暦2年正月28日〜8月6日)の出来事ではないため、明宗のカウントには含めない。

立后回数

元史巻三十一(明宗紀)および元史巻一百十四(后妃一)、新元史巻二十(明宗)、新元史后妃伝いずれにも、明宗在位期間中(天暦2年正月〜8月)に皇后を正式冊立したとする「立…為皇后」「冊立皇后」等の記事は見当たらない。皇后八不沙は「侍帝潜邸、生宁宗」(即位前から周王時代よりの側室・妃)とあり、明宗崩御後の天暦2年11月の記事で初めて「明宗皇后」の称号を用いた宮廷機構(寧徽寺)設置が見え、正式な冊立儀礼の記録は確認できなかった。在位期間がわずか約7ヶ月と短く、冊立の儀礼を行う前に急死した可能性が高い。史料に明記された冊立記事がないことをもってcount:0としたが、儀礼が省略・省筆された可能性もあり確信度は中程度とした。なお、正妃迈来迪(後の貞裕徽聖皇后、順帝生母)は明宗即位前の延祐7年(1320)に順帝を生んだ後早くに没しており、明宗在位中の冊立ではない。

皇太子廃立回数

元史巻三十一・新元史巻二十(明宗)とも、明宗は在位中の天暦2年3月に弟の懐王図帖睦爾(後の文宗)を皇太子に立てた(「遣武宁王彻彻秃及哈八儿秃立文宗为皇太子」)とする記事のみで、廃立(皇太子を廃した)記事は存在しない。この立太子自体は本項目の対象外(廃立のみカウント)であり、廃立事例が皆無であるためcount:0とした。

親征回数

元史巻三十一(明宗紀)を通読。周王として雲南に出鎮する途上、丞相鉄木迭児派の讒言・陰謀により身の危険を感じて西方(モンゴル高原・金山)へ逃走した経緯(延祐年間)、および泰定帝崩御後の政変を経て文宗・燕鉄木児らに南方(京師)へ迎えられ即位・南下した経緯(天暦2年)はいずれも移動・逃避・帰還の記事であり、「帝親征」「帝自将」等、本人が自ら軍を率いて敵対勢力を討伐したとする記載は一切ない。在位期間(1329年正月〜8月、約7ヶ月)中も、燕鉄木児ら臣下による軍事奏上(雲南の逆謀への対応等)に対し裁可を与える記事はあるが、本人が軍を率いて出征した記録はない。よってpersonalCampaignCount=0。

反乱鎮圧回数

在位期間(天暦2年正月28日即位〜8月6日崩御、約7ヶ月)中の記事に、枢密院が「四川諸省兵悉遣還営、惟雲南逆謀叵測、兵未可即罷」(四川等の兵は帰営させたが雲南の不穏な動きのため駐屯継続)と奏上し、帝が「可仍屯戍、俟平定而後罷」(駐屯継続を許可、鎮定を待って解兵)と裁可した記事が一件あるのみ。これは反乱の首謀者名・具体的な蜂起の経緯・鎮圧の成否等が明記されておらず、また元々は明宗即位(1329年正月)以前の天暦の内乱(1328年8〜11月、文宗・燕鉄木児陣営 対 泰定帝系・倒剌沙陣営の帝位継承内戦)の残務処理(雲南方面の残存不穏分子への警戒駐屯)である可能性が高く、明宗自身の治世下で新たに発生・鎮圧を完了した独立の反乱事件として events に計上できるだけの具体性(首謀者名・結果)を原文から確認できなかった。天暦の内乱自体は明宗の即位前(文宗の暫定治世下)に既に決着しており、本人の治世の反乱鎮圧としては数えない。よって暫定的にcount=0とし、確信度はmediumとした(未確定の残務が実在するため今後の追加調査で判明すれば要修正)。

被反乱回数

明宗は天暦2年8月6日、弟文宗との会見の数日後に「暴崩」(元史巻三十一)。同巻三十八所収、後至元6年(1340)の順帝(明宗の子)による詔には「文宗稔悪不悛、当躬迓之際、乃与其臣月魯不花、也里牙、明里董阿等謀為不軌、使我皇考飲恨上宾」とあり、文宗とその臣下による毒殺(弑逆)の共謀を事実上認定している(deathCauseで暗殺・毒殺説として既に記録済み)。ルール6の例外(朝廷内部の権力者による実力〔兵力〕を伴う弑逆・クーデター)に該当するか検討したが、南坡の変(英宗弑逆、鉄失らによる夜襲・武装クーデター)とは異なり、本件は宴席での毒殺(隠密裏の暗殺)と推測される事案で、原文(元史本紀および順帝の詔)のいずれにも兵力の動員・武力衝突を示す記述がない。deathCauseフィールドで既に「暗殺」として個別に記録されていることとの重複も踏まえ、本フィールドでは武力を伴う反乱・クーデターとしての要件を満たさないと判断し、rebellionSufferedCountには計上しなかった(count=0)。ボーダーラインの判断のため確信度はmediumとした。

遷都回数

元史地理志・本紀を通読。大都定都はクビライによる建国期の首都確定プロセス(建国時の定都のため対象外)、以後大都が一貫した正都(上都は複都制の陪都)で惠宗期の大都放棄(1368年)まで遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

元史巻三十一(明宗紀)冒頭「帝以四年十一月壬子生」、末尾「庚寅、帝暴崩、年三十」に明記。新元史巻二十(明宗)にも同内容「帝生於大徳四年十一月壬子」「帝暴崩、年三十」の記載あり、両書一致。即位時年齢(数え年で29歳前後と推定されるが原文に直接の記載なし)はnull。崩御日(庚寅)は同月朔日(乙酉)から起算して8月6日に相当し、既知の経緯(1329-08-30死去)とは西暦換算の解釈に差異がある可能性があるが、原文の干支から導いた月内の日付は変更していない。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。