本文へスキップ

文宗の肖像画

元第12・14代()

文宗トク・テムル

在位 1328–1329年 / 1329–1332年(復位)(3年164日)

日本は鎌倉時代

奎章閣を立て、兄の明宗の急死ののちに再び即位し、臨終に王忽察都の事を悔いたと新元史などが伝える元の皇帝である。

文宗の人物データ

生年
1304年2月16日
在位
  • 1度目1328年10月16日〜1329年4月3日
  • 復位1329年9月8日〜1332年9月2日
3年164日長い順216位/365人即位の年齢は不詳
没年
1332年9月2日29歳(数え年)長生き順同率195位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
・のちに復位
先代
  • 明宗元復位による継承・文宗は明宗の弟
次代
  • 明宗元明宗は文宗の兄
  • 寧宗元寧宗は文宗の甥
呼び名
漢字音写図帖睦爾呼び名の見方

出典

在位(1度目)
元史 文宗紀一(巻三十二)/元史 文宗紀二(巻三十三)
在位(2度目)
元史 文宗紀二(巻三十三)/元史 文宗紀五(巻三十六)
死因
元史 巻三十六付近(文宗紀)
即位経路
元史 巻三十二(文宗一)

生涯

即位まで

武宗の次子で、明宗の弟であり、母は唐兀氏である。泰定帝が即位すると召されて懐王となり、のち建康へ出された。1328年に泰定帝が没すると、燕鉄木児が武宗の子を立てると号令して挙兵した。燕鉄木児が即位を請うと、大兄は朔方におられると固辞したが、同じ年に大都で即位し、詔で大兄の至るのを待つと述べた。

治世と最期

1329年、燕鉄木児に宝を持たせて明宗へ送り、明宗は文宗を皇太子に立てた。王忽察都で明宗が文宗と・大臣をもてなした数日後、明宗が急死し、文宗は上都で再び即位した。

同じ年に奎章閣学士院を立てた。1330年に学士が辞職を願うと、若いころ艱難を経て治体を知らないので、古今の治乱を聞くのを喜んでいると言って留めた。同じ1330年に明宗の后の八不沙が没すると、明宗の子の妥歓帖睦爾は大青島へ、のち明宗の子でないとする詔とともに静江へ移された。1331年に経世大典の編纂が終わった。

1332年に没し、で明宗の子が立てられた。

史料について

明宗の死を、元史の燕鉄木児伝は燕鉄木児自身が逆謀に加わっていたとし、新元史の同じ伝は燕鉄木児がの謀を文宗に告げたとする。新元史のは、おそらく燕鉄木児から出て文宗の本意ではないが、与り聞いた以上は文宗の弑と同じだと断じる。臨終に王忽察都の事を生涯の誤りと悔い、燕鉄木児が遺詔を伏せたとするのは新元史と続資治通鑑で、元史にその言葉は無い。元史の順帝紀は、燕鉄木児が燕帖古思を立てるよう請い、皇后が退けたとする。1340年、順帝は文宗が明宗に恨みを飲ませて崩じさせたとして、そのを除かせた。新元史の史臣は、燕鉄木児が権をほしいままにするなか、文宗は可否を言わず翰墨にふけったと評する。八不沙の死を、文宗紀は崩とだけ記し、順帝紀は讒言を受けて害されたとする。

文宗とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱6・皇后1・改元2・大赦5
  1. 反乱1328年9月8日〜1328年12月26日天暦の内乱(上都の乱)
  2. 改元1328年10月16日元号を「天暦」とする
  3. 1328年10月16日
  4. 反乱1329年1月( 1328年12月)〜1329年9月四川囊加台の乱
  5. 1329年1月12日( 1328年12月12日)
  6. 皇后1329年3月4日皇后を立てる
  7. 1329年9月8日
  8. 改元1330年元号を「至順」とする
  9. 反乱1330–1331年雲南反乱(禿堅・伯忽の乱)
  10. 反乱1330–1331年広西・湖広瑶族反乱(第一次)
  11. 1331年
  12. 反乱1331年海南黎族の反乱
  13. 反乱1332年2月広西瑶族反乱(第二次)
  14. 1332年6月24日

元の歴代皇帝

歴代15人の一覧
  1. 第1代チンギス・カン皇帝を名乗っていない1206–1227年
  2. 第2代オゴデイ皇帝を名乗っていない1229–1241年
  3. 第3代グユク皇帝を名乗っていない1246–1248年
  4. 第4代モンケ皇帝を名乗っていない1251–1259年

年表

元・北元の時代を年表で見る

元が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「推戴」の23名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。