中国皇帝統計

文宗

元|在位 1328–1329年 / 1329–1332年

文宗の肖像
諱(本名)
トク・テムル(図帖睦爾)
在位
1328–1329年 / 1329–1332年
在位期間
3年164日365名中217位
即位経路
擁立
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
29歳(数え年)269名中・長寿順197位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
5267名中82位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
4225名中101位タイ
被反乱
6289名中82位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

泰定帝崩御後、権臣燕鉄木児が大都でクーデターを起こし、武宗の子(明宗コシラ・文宗)の擁立を掲げて挙兵。当時北方遠地にいた兄コシラを待てず天暦元年9月に文宗が先に即位した。初回即位の経路は権臣主導の擁立クーデターによるもの。翌年コシラ即位後は皇太子に降りたが、コシラが即位4日後に急死したため2回目の即位は「復位」にあたる。

出典: 元史 巻三十二(文宗一)

死因の経緯

至順3年8月己酉、上都にて崩御(「帝崩,寿二十有九,在位五年」)。特に不審な記述はない。

出典: 元史 巻三十六付近(文宗紀)

復位の経緯

1329–1332年コシラの急死(毒殺説あり)を受け、天暦2年8月15日に復位。至順3年8月12日崩御。

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

第1期(致和元年→天暦元年、即位に伴う最初の建元)1回、第2期・復位時は天暦を継続使用(改元なし)、至順元年(1330)に「至順」へ改元1回の計2回。固有注意事項の想定と一致した。

大赦回数

第1期(天暦元年9月13日〜天暦2年3月4日)2回、第2期(天暦2年8月15日〜至順3年8月12日)3回の計5回。全て「大赦」「大赦天下」「赦天下」と明記された全国規模の恩赦のみを計上した。地域・対象限定の「曲赦」(天暦2年2月己丑の四川囊加台への曲赦、至順元年の雲南禄余等への曲赦)は部分的恩赦のため対象外とした。

立后回数

天暦2年2月辛卯、大明殿にて「册命皇后雍吉剌氏」と明記され、正式な冊立の儀が行われたことが確認できる(事前に辛未・己卯の両日、南郊・太庙への告祭あり)。この1件を正式冊立としてカウントした。なお同年11月乙卯(第2期・復位後)に「以立皇后,诏天下」との記事があるが、その間に廃后(廃位)の記載は無く、対象人物名の言及もないため、既冊立の皇后(雍吉剌氏=ト答失里)についての天下への布告・再確認である可能性が高いと判断し、別個の再冊立としてはカウントしなかった(要検証)。

皇太子廃立回数

在位中の該当事例なし。至順元年12月辛亥に燕王アラトナダラ(阿剌忒纳答剌)を皇太子に立てたが(立太子自体はカウント対象外)、当該皇太子は至順2年に薨去(自然死、「皇太子阿剌忒纳答剌薨」)しており、廃立の記載はない。本紀中に「废太子」等の廃立を示す記述は見当たらなかった。なお文宗自身が兄・明宗により皇太子に冊立された経緯(明宗即位後)は文宗自身の在位期間外の出来事であり対象外。

親征回数

元史巻三十二〜三十六(文宗紀)を通読したが、「帝親征」「帝自将」「帝率师」等、皇帝本人が自ら軍を率いて出征したことを示す直接記載は見当たらなかった。天暦の内乱中の天暦元年八月丙子に「帝出齐化门视师」とあるが、燕鉄木児が「乘舆一出,民心必惊,军旅之事,臣请以身任之」と諫めた結果「即日还宫」しており、大都城門外への短時間の視察に留まり実際の親征・出陣には該当しない。上都討伐・四川囊加台討伐・雲南秃坚伯忽討伐等の軍事行動は全て燕鉄木児・伯顔・搠思班ら将軍・諸王が主導し、文宗本人は終始大都・上都の宮中に留まっていた。

反乱鎮圧回数

文宗在位中に鎮圧完了(首謀者誅殺・投降等で決着)した反乱4件を計上した。判定基準ルール6に従い、天暦の内乱(皇位継承をめぐる内戦)は勝者である文宗側から見て反乱鎮圧として計上した(原文は上都勢力を「贼臣」「构逆」「奸臣」等と一貫して反乱者として記述しており、文宗即位詔でも「协谋以举义,正名以讨罪」と自軍を正義の討伐側として位置づけている)。雲南反乱(秃坚・伯忽の乱)は主要指導者(秃坚・伯忽ら)が至順2年4月までに討伐・誅殺され「云南既平」と宣言されたため鎮圧完了として計上したが、配下の乌撒土官禄余は文宗崩御時点でも投降交渉中で完全帰順に至っておらず、この点は被反乱側(未鎮圧の残党)の性質も併せ持つ(noteに付記)。文宗自身が挙兵の主体であったケース(例外3)・簒奪目的の挙兵(例外5)・武力を伴わない単純な謀反発覚(李彦通・萧不兰奚、月鲁帖木儿らの謀反はいずれも軍事衝突の記載なく速やかに処刑されているため反乱として計上せず除外)には該当しない。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountの4件(天暦の内乱・四川囊加台の乱・雲南反乱・広西瑶族反乱第一次)に加え、文宗崩御(至順3年8月)まで鎮圧が完了しなかった2件(海南黎族の反乱・広西瑶族反乱第二次)を被反乱として追加計上した。両者ともルール3の例外パターン(2)「未鎮圧のまま在位終了」に該当するため、rebellionSuppressionCountには含めていない(食い違いの根拠として明記)。

遷都回数

元史地理志・本紀を通読。大都定都はクビライによる建国期の首都確定プロセス(建国時の定都のため対象外)、以後大都が一貫した正都(上都は複都制の陪都)で惠宗期の大都放棄(1368年)まで遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

元史巻三十二(文宗一)冒頭に「大德三年,武宗总兵北边,帝以八年春正月癸亥生」とあり、大德八年(1304年)正月癸亥に誕生と直接記載されている(日付は干支のみでグレゴリオ暦未換算のためbirthDateはnullとした)。巻三十六(文宗五)末尾に「己酉,陇西地震。帝崩,寿二十有九,在位五年」とあり、至順三年八月己酉(=1332-09-02、既知の在位終了日と一致)の崩御時に享年29歳(数え年)と直接記載されている。生年1304年・没年1332年から算出される数え年(1332-1304+1=29)とも整合する。即位時の年齢を示す「时年」等の直接記載は本紀中に見当たらなかったためaccessionAgeはnull。

在位中の出来事(18件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元1328年10月16日【第1期】致和元年9月13日、即位詔にて「其以致和元年为天历元年,可大赦天下」と明記。

【第1期】致和元年9月13日、即位詔にて「其以致和元年为天历元年,可大赦天下」と明記。致和元年を天暦元年と改め建元(即位に伴う最初の建元)。

出典: 元史 巻三十二(文宗一)

大赦1328年10月16日【第1期】致和元年(天暦元年)9月13日(壬申)、大明殿での即位詔中に「可大赦天下」と明記。

【第1期】致和元年(天暦元年)9月13日(壬申)、大明殿での即位詔中に「可大赦天下」と明記。九月十三日昧爽以前の罪を(謀殺祖父母父母等の重罪を除き)赦免。

出典: 元史 巻三十二(文宗一)

大赦1329年9月8日【第2期】天暦2年8月15日(己亥)、上都大安閣での復位詔中に「可大赦天下」と明記。

【第2期】天暦2年8月15日(己亥)、上都大安閣での復位詔中に「可大赦天下」と明記。八月十五日昧爽以前の罪は軽重を問わず赦除。

出典: 元史 巻三十三(文宗二)

改元日付不詳【第2期】至順元年5月戊午、大明殿にて尊号(鈥天统圣至德诚功大文孝皇帝)を受けた同日、「是日,改元至顺,诏天下」と明記。

【第2期】至順元年5月戊午、大明殿にて尊号(鈥天统圣至德诚功大文孝皇帝)を受けた同日、「是日,改元至顺,诏天下」と明記。天暦から至順への改元。

出典: 元史 巻三十四(文宗三)

大赦日付不詳【第1期】天暦元年12月庚子、上都軍の反乱鎮圧後に「赦天下」と明記。

出典: 元史 巻三十二(文宗一)

大赦日付不詳【第2期】至順元年12月戊午、「以十月郊祀礼成,帝御大明殿受文武百官朝贺,大赦天下」と明記(10月の郊祀礼成に伴う大赦)。

出典: 元史 巻三十四(文宗三)

大赦日付不詳【第2期】至順3年6月己亥朔、「以月鲁帖木儿等罪诏告中外,赦天下」と明記。

出典: 元史 巻三十六(文宗五)

立后日付不詳【第1期】天暦2年2月辛卯、「帝御大明殿,册命皇后雍吉剌氏」と明記。

【第1期】天暦2年2月辛卯、「帝御大明殿,册命皇后雍吉剌氏」と明記。事前の辛未(南郊告祭)・己卯(太庙告祭)を経て正式冊立。

出典: 元史 巻三十三(文宗二)

反乱鎮圧日付不詳天暦の内乱(上都の乱)

首謀者: 倒剌沙・梁王王禅

結果: 鎮圧成功。燕鉄木児・伯顔ら大都方が上都方の諸軍を各地(居庸関・古北口・紫荆関・白浮・牛頭山等)で撃破し、天暦元年十一月癸未に倒剌沙は磔刑、梁王王禅も賜死に処された。

泰定帝崩御後、燕鉄木児の大都クーデター(致和元年八月甲午)を機に、上都の倒剌沙・梁王王禅・辽王脱脱らが挙兵し、遼東・陝西など多方面で同時蜂起した一連の内戦(史料上は単一の反乱として記述されるため1件として集計、集計粒度差に該当)。文宗自身の即位(天暦元年九月十三日)を挟んで継続し、即位後も戦闘が続いたため文宗の在位期間中の反乱鎮圧として計上した。

反乱鎮圧日付不詳四川囊加台の乱

首謀者: 囊加台(四川行省平章政事、自称鎮西王)

結果: 鎮圧成功。天暦2年4月に一旦赦免を受けて帰順したが(蜀地悉定)、その後「指斥乗輿」(皇帝を誹謗した罪)により天暦2年8月14日戊戌に処刑された。

文宗第1期在位中(天暦元年12月)に四川行省平章囊加台が自称鎮西王として挙兵、栈道を焼き阻んだ反乱。天暦2年2月に曲赦、4月に正式赦免を受けて帰順したが、その後の指斥乗輿の罪により処刑(天暦2年8月14日、文宗復位の前日)で決着した。反乱発生・終結とも文宗の治世(両期またぐ)の出来事として計上。

反乱鎮圧日付不詳雲南反乱(秃坚・伯忽の乱)

首謀者: 秃坚(自立して雲南王)・伯忽(丞相を自称)、のち乌撒土官禄余

結果: 鎮圧成功。至順元年から至順2年にかけ搠思班・豫王阿剌忒纳失里・跃里帖木儿ら率いる元朝軍が各地で撃破し、秃坚・伯忽及びその一族は誅殺され、至順2年4月に「云南既平」と宣言、将士に恩賞が下された。ただし配下の乌撒禄余は投降交渉中のまま文宗崩御(至順3年8月)まで完全な帰順・討伐には至らなかった。

至順元年正月、雲南諸王秃坚・万戸伯忽らが中慶路を攻略して挙兵、秃坚は自立して雲南王を称した。乌撒土官禄余・罗罗斯土官撒加伯らも連携して蜂起し、四川・雲南両行省の大軍による長期討伐戦となった。首謀者は至順2年に討伐されたが、禄余は文宗崩御時点でなお投降交渉中(至順3年2月「乞再降诏赦」)であり完全鎮圧には至っていない。集計粒度差として一連の雲南反乱を1件として計上した。

反乱鎮圧日付不詳広西・湖広瑶族反乱(第一次)

首謀者: 国安ほか徭族諸首領

結果: 鎮圧成功。広西元帥府等の討伐により各地の徭族蜂起が鎮圧され、至順2年7月庚子に「广西徭贼平」と宣言、討伐に当たった諸王が召還された。

至順元年を通じて衡陽・石康県・灌陽県・修仁県・荔浦県・横州・永淳県等広西・湖広各地で徭族(瑶族)の武装蜂起・略奪が相次ぎ、朝廷は2万人規模の官軍を投入して討伐した。至順2年7月に「広西徭賊平」と鎮圧完了が宣言されたため1件の反乱として計上した。

被反乱日付不詳天暦の内乱(上都の乱)

首謀者: 倒剌沙・梁王王禅

結果: 鎮圧成功(rebellionSuppressionCountと同一事件)

rebellionSuppressionCountの同名事件と対応。

被反乱日付不詳四川囊加台の乱

首謀者: 囊加台

結果: 鎮圧成功(rebellionSuppressionCountと同一事件)

rebellionSuppressionCountの同名事件と対応。

被反乱日付不詳雲南反乱(秃坚・伯忽の乱)

首謀者: 秃坚・伯忽、のち禄余

結果: 主要部分は鎮圧成功(rebellionSuppressionCountと同一事件)だが乌撒禄余の残党は文宗崩御時点で未帰順

rebellionSuppressionCountの同名事件と対応。

被反乱日付不詳広西・湖広瑶族反乱(第一次)

首謀者: 国安ほか徭族諸首領

結果: 鎮圧成功(rebellionSuppressionCountと同一事件)

rebellionSuppressionCountの同名事件と対応。

被反乱日付不詳海南黎族の反乱

首謀者: 王奴罗

結果: 未鎮圧のまま文宗崩御(至順3年七月時点でも「黎贼势猖獗」と記載があり、討伐は継続中であったが決着の記載が本紀中に見られないまま在位終了)

至順2年7月、海南(大興龍普明寺建設の負担を契機とする)黎族の武装蜂起が発生、江西・湖広両行省が合同で討伐に当たったが、至順3年正月には王奴罗が5万人を集めて陵水県を攻めるなど拡大し、同年7月時点でもなお「黎贼势猖獗」として増兵が要請されており、文宗崩御(至順3年8月)までに鎮圧完了の記載がない。ルール3例外パターン(2)に該当するためrebellionSuppressionCountには含めない。

被反乱日付不詳広西瑶族反乱(第二次)

首謀者: 罗伟里

結果: 未鎮圧のまま文宗崩御

至順3年正月、広西の罗伟里が馬武冲らと共に龍州岭北朗龙洞の韋大虫の賊兵と合流し1万人規模で蜂起、那馬違・那馬安等の砦を陥落させた。広西宣慰司が討伐に当たったが、文宗崩御(同年8月)までに鎮圧完了の記載が本紀中に見当たらない。第一次瑶族反乱(至順2年7月鎮圧済み)とは別の新規蜂起として区別し、ルール3例外パターン(2)に該当するためrebellionSuppressionCountには含めない。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。