寧宗
元|在位 1332年

- 諱(本名)
- イリンジバル(懿璘質班)
- 在位
- 1332年
- 在位期間
- 52日365名中350位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 7歳(数え年)172名中・若い順13位タイ
- 没年齢
- 7歳(数え年)269名中・長寿順266位
- 改元
- 0回
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
文宗の遺詔「伝位於明宗之子」を受け、皇后(文宗后)の意向のもとで権臣燕鉄木児が奏請し、明宗の次子(寧宗)が擁立された。長子妥懽帖睦爾(後の順帝)ではなく幼い次子が選ばれた背景には文宗后・燕鉄木児の政治的思惑があったとされる。
出典: 元史 巻三十七(寧宗)
死因の経緯
至順3年10月即位、同年11月壬辰(即位約53日後)に「帝崩,年七歳」とのみ記載。暗殺や毒殺を示唆する記述は元史本紀中には見当たらない。幼帝の急逝という状況自体は不審視され得るが断定はできない。
出典: 元史 巻三十七(寧宗)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
先代文宗の「至順」年号をそのまま継続使用。元史巻三十七に「十一月己巳,詔翰林国史、集賢院、奎章閣学士院集議先皇帝廟號、神主、升祔武宗皇后及改元事」とあり改元の議論は開始されたが、同月壬辰に帝が崩御したため改元は実施されずに終わった(在位期間中に新元号は制定・施行されていない)。
大赦回数
在位53日間のうち大赦の記録は即位時のこの一回のみ。他に大赦の記事はない。
立后回数
元史巻百十四后妃伝「寧宗答里也忒迷失皇后,弘吉剌氏。至順三年十月,立為后。至正二十八年崩,升祔寧宗廟。」と新元史后妃传の双方で確認済み。寧宗紀(巻三十七)本文には立后の記事自体は見えないが、后妃伝に明記されており事実として採用。
皇太子廃立回数
在位53日間で皇太子(皇太弟等含む)を立てた記録も廃した記録もなし。
親征回数
元史巻三十七(寧宗紀)原文(即位から崩御までの約53日間の記事全文)を通読したが、帝自身の親征・出征を示す記述は皆無。即位儀礼・人事・冊立・大赦・恩賞等の宮廷内記事のみで軍事行動の記載なし。
反乱鎮圧回数
在位53日間の原文中に反乱鎮圧を示す記述(「討」「平」「叛」等)は見当たらない。
被反乱回数
在位53日間の原文中に帝に対する反乱・クーデター・弑逆を示す記述は見当たらない。死因も「帝崩,年七歳」とのみあり不審な記述はなく、南坡の変のような実力を伴う政変の記録もない。
遷都回数
元史地理志・本紀を通読。大都定都はクビライによる建国期の首都確定プロセス(建国時の定都のため対象外)、以後大都が一貫した正都(上都は複都制の陪都)で惠宗期の大都放棄(1368年)まで遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
元史 巻三十七(寧宗紀)末尾に「壬辰,帝崩,年七歳。」と明記(死去時年齢=7歳、虚歳)。生年月日そのものの直接記載は本紀中に見当たらない(天暦三年二月乙巳の鄜王冊封記事はあるが生年ではない)。即位時年齢については新元史 列伝(八不沙皇后伝、巻百七十七相当)に「甫七歳,后同聴政」とあり、在位が至順三年十月〜十一月のわずか53日間であることから即位時も死去時も同じ7歳(虚歳)であったと判断(新元史側の記述のため確信度medium)。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦1332年10月23日即位(至順三年十月初四日、庚子)に伴う登極の詔で「大赦天下」を実施。
即位(至順三年十月初四日、庚子)に伴う登極の詔で「大赦天下」を実施。謀反大逆・毒殺祖父母父母等の重罪を除き大赦。
出典: 元史 巻三十七(寧宗紀)
立后日付不詳答里也忒迷失皇后(弘吉剌氏)を皇后に冊立。
答里也忒迷失皇后(弘吉剌氏)を皇后に冊立。即位と同じ至順三年十月中の出来事(本紀には冊立の具体的日付は見えず、后妃列伝に「至順三年十月,立為后」とのみ記載)。「時年甚幼」(新元史)とあり幼少での冊立。
出典: 元史 巻一百十四 列傳第一(后妃一)/新元史 后妃传