寧宗の人物データ
- 生年
- 1326年5月1日
- 在位
- 1332年10月23日〜1332年12月14日
- 没年
- 1332年12月14日7歳(数え年)長生き順263位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 漢字音写懿璘質班呼び名の見方
出典
- 在位
- 元史 寧宗紀
- 死因
- 元史 巻三十七(寧宗)
- 即位経路
- 元史 巻三十七(寧宗)
生涯
即位まで
明宗の次子で、母は八不沙皇后である。兄の妥歓帖木児が長子で、寧宗は1330年に鄜王に封じられた。同じ年に母が没した。1332年に文宗が上都で没すると、文宗の皇后が末命を伝え、位を明宗の子に伝えるとした。兄は静江に出居しており、寧宗は文宗に可愛がられて京師に留められていた。即位の前、中書省国の政治をまとめる中央の最高の役所と百司の政務はすべて文宗の皇后に取り次いで裁断を仰いだ。同じ年、寧宗は大明殿で即位し大赦した。
史料について
1330年の母の死を、元史の后妃伝は文宗の皇后が宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男と殺害を謀ったと記し、順帝紀は讒言を受けて害に遭ったとだけ記す。燕鉄木児が文宗の子の燕帖古思を立てるよう請い皇后が許さなかった話を、元史の順帝紀と新元史・続資治通鑑は文宗の没後に置き、元史の燕鉄木児伝と后妃伝は寧宗の死後に置く。寧宗紀は、燕鉄木児が寧宗を立てるよう請うたとする。新元史の寧宗紀は、文宗が妥歓帖木児を立てよと言い残したのに燕鉄木児が遺詔皇帝が死に際に残した命令を秘したとする。
治世と最期
弘吉剌氏の答里也忒迷失が皇后に立てられた。
同じ年のうちに没し、起輦谷に葬られた。翌1333年、兄の妥歓帖木児が即位した。1340年の順帝の詔は、文宗の皇后が明宗の長子を立てずに幼い弟の寧宗を立てたと述べ、その尊号たたえて贈る呼び名や、皇帝など君主の位の称号を削った。
1343年、順帝は太廟皇帝が祖先をまつるみたまやで弟の寧宗の室を拝すべきかを問い、寧宗が帝であったとき陛下はその臣であったという答えに従って拝した。1356年、順帝は寧宗の乳母の子である哈麻兄弟の罪を、弟と同じ乳で育ったとして緩めようとしたが、重ねて上奏があり、兄弟は流されたのち杖で殺された。
史料について
寧宗の死因は、元史・新元史とも記していない。太廟での答えを、元史の李好文伝は李好文と劉聞が人の後を継ぐ者はその子となると答えたとし、順帝紀と文言が異なる。新元史の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、年を越えずに夭折した寧宗を廟に入れ宗と称したのは廷臣の不学だと論じる。
寧宗とつながる皇帝
在位中の出来事
皇后1・大赦1
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1332年10月23日
- 皇后日付不詳答里也忒迷失皇后(弘吉剌氏)を皇后に冊立。
元の歴代皇帝
歴代15人の一覧- 第1代チンギス・カン皇帝を名乗っていない1206–1227年
- 第2代オゴデイ皇帝を名乗っていない1229–1241年
- 第3代グユク皇帝を名乗っていない1246–1248年
- 第4代モンケ皇帝を名乗っていない1251–1259年
- 第5代世祖クビライ1260–1294年病死
- 第6代成宗1294–1307年病死
- 第7代武宗1307–1311年病死
- 第8代仁宗1311–1320年病死
- 第9代英宗1320–1323年暗殺
- 第10代泰定帝1323–1328年病死
- 第11代天順帝1328年不詳
- 第12・14代文宗1328–1329年1329–1332年(復位)病死
- 第13代明宗1329年暗殺
- 第15代寧宗1332年病死
- 第16代恵宗1333–1370年病死
年表
元・
元が
