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寧宗の肖像画

元第15代

寧宗イリンジバル

在位 1332年(52日)1332年10月23日 〜 1332年12月14日

日本は鎌倉時代

明宗の次子で、1332年に文宗の後を継いで即位し、その年のうちに崩じた元の皇帝である。

寧宗の人物データ

生年
1326年5月1日
在位
  • 1332年10月23日〜1332年12月14日
52日長い順347位/365人7歳で即位(数え年)
没年
1332年12月14日7歳(数え年)長生き順263位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 文宗元寧宗は文宗の甥
次代
  • 恵宗元恵宗は寧宗の兄
呼び名
漢字音写懿璘質班呼び名の見方

出典

在位
元史 寧宗紀
死因
元史 巻三十七(寧宗)
即位経路
元史 巻三十七(寧宗)

生涯

即位まで

明宗の次子で、母は八不沙皇后である。兄の妥歓帖木児が長子で、寧宗は1330年に鄜王に封じられた。同じ年に母が没した。1332年に文宗が上都で没すると、文宗の皇后が末命を伝え、位を明宗の子に伝えるとした。兄は静江に出居しており、寧宗は文宗に可愛がられて京師に留められていた。即位の前、と百司の政務はすべて文宗の皇后に取り次いで裁断を仰いだ。同じ年、寧宗は大明殿で即位し大赦した。

史料について

1330年の母の死を、元史の后妃伝は文宗の皇后がと殺害を謀ったと記し、順帝紀は讒言を受けて害に遭ったとだけ記す。燕鉄木児が文宗の子の燕帖古思を立てるよう請い皇后が許さなかった話を、元史の順帝紀と新元史・続資治通鑑は文宗の没後に置き、元史の燕鉄木児伝と后妃伝は寧宗の死後に置く。寧宗紀は、燕鉄木児が寧宗を立てるよう請うたとする。新元史の寧宗紀は、文宗が妥歓帖木児を立てよと言い残したのに燕鉄木児がを秘したとする。

治世と最期

弘吉剌氏の答里也忒迷失が皇后に立てられた。

同じ年のうちに没し、起輦谷に葬られた。翌1333年、兄の妥歓帖木児が即位した。1340年の順帝の詔は、文宗の皇后が明宗の長子を立てずに幼い弟の寧宗を立てたと述べ、そのを削った。

1343年、順帝はで弟の寧宗の室を拝すべきかを問い、寧宗が帝であったとき陛下はその臣であったという答えに従って拝した。1356年、順帝は寧宗の乳母の子である哈麻兄弟の罪を、弟と同じ乳で育ったとして緩めようとしたが、重ねて上奏があり、兄弟は流されたのち杖で殺された。

史料について

寧宗の死因は、元史・新元史とも記していない。太廟での答えを、元史の李好文伝は李好文と劉聞が人の後を継ぐ者はその子となると答えたとし、順帝紀と文言が異なる。新元史のは、年を越えずに夭折した寧宗を廟に入れ宗と称したのは廷臣の不学だと論じる。

寧宗とつながる皇帝

在位中の出来事

皇后1・大赦1
  1. 1332年10月23日
  2. 皇后日付不詳答里也忒迷失皇后(弘吉剌氏)を皇后に冊立。

元の歴代皇帝

歴代15人の一覧
  1. 第1代チンギス・カン皇帝を名乗っていない1206–1227年
  2. 第2代オゴデイ皇帝を名乗っていない1229–1241年
  3. 第3代グユク皇帝を名乗っていない1246–1248年
  4. 第4代モンケ皇帝を名乗っていない1251–1259年

年表

元・北元の時代を年表で見る

元が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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