中国皇帝統計

天順帝・通称

元|在位 1328年

天順帝・通称の肖像
諱(本名)
アリギバ(阿剌吉八)
在位
1328年
在位期間
41日365名中353位
即位経路
擁立
死因
不詳
即位時年齢
9歳(数え年)172名中・若い順22位タイ
没年齢
不詳
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

泰定帝崩御後、権臣倒剌沙が既に皇太子であった阿速吉八(9歳)を上都で擁立、天順に改元。大都の燕鉄木児(文宗擁立派)と対立する政権として成立した。

出典: 元史 巻三十(泰定帝二)

死因の経緯

元史には天順帝の本紀が存在せず(明の史官が正統と認めなかったため)、上都陥落後の消息は本紀に記載がない。新元史は「少帝不知所終」と明記しており戦死・処刑いずれとも確定できない。

出典: 新元史 巻二十九・巻二百八

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位41日間で改元は即位に伴う天順建元の1回のみ。国号変更に該当する事象はない。

大赦回数

新元史 巻二十五(泰定帝紀、天順部分)・元史 巻三十(泰定帝二)・元史紀事本末には、天順帝(阿速吉八)在位41日間(致和元年9月~10月)における大赦の記載は見当たらない。即位詔(改元天順の詔)にも大赦の文言はなく、在位期間があまりに短く上都籠城戦で終始したため、恩赦を発する余裕がなかったとみられる。

立后回数

在位41日間、上都籠城戦の最中であり、立后に関する記載は新元史・元史のいずれにも見当たらない。

皇太子廃立回数

天順帝自身が泰定帝の皇太子として即位した人物であり、その在位41日間に新たな皇太子を立てた、あるいは廃立したという記載は新元史・元史のいずれにも見当たらない。

親征回数

天順帝(阿速吉八)は即位時9歳の幼帝であり、在位41日間(天順元年九月~十月)は倒剌沙ら重臣による摂政のもとで上都に留まり、本人が自ら軍を率いて親征したことを示す記載(「帝親征」「帝自将」等)は新元史・元史のいずれにも見当たらない。

反乱鎮圧回数

天順帝側(上都政権)が在位中に反乱を鎮圧した記録はない。在位41日間は専ら大都の文宗方との内戦(天暦の内乱)における防戦に終始し、鎮圧に転じることなく上都陥落・政権崩壊に至った。

被反乱回数

count(1)はevents配列長(1)と一致。天順帝側の反乱鎮圧回数(0)との不一致は「未鎮圧のまま在位終了」パターンに該当する正当な差異。

遷都回数

元史地理志・本紀を通読。大都定都はクビライによる建国期の首都確定プロセス(建国時の定都のため対象外)、以後大都が一貫した正都(上都は複都制の陪都)で惠宗期の大都放棄(1368年)まで遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

新元史 列伝(旭迈杰・倒剌沙伝、巻二百三)に「倒剌沙受顾命立皇太子阿速吉八,年甫九岁」とあり、即位時の年齢が9歳(数え年)と明記されている。元史纪事本末(巻二十九相当箇所)にも「立泰定帝子喇实晋巴为帝于上都年九歳」と同内容の記述あり(人名表記は転写版で異体)。生年・没年齢は原典に記載なし。没日についても新元史本紀は「倒剌沙乃奉皇帝宝出降,少帝不知所终」、元史纪事本末も「喇实晋巴不知所终」とし、正史は死亡そのものを確認しておらず行方不明として記録している(既知の没日1328-10-14は本タスクの前提情報によるもので原典には明記なし)。

在位中の出来事(2件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元1328年10月4日泰定帝の崩御(致和元年7月)を受け、皇太子阿速吉八が上都にて即位し「天順」に改元。

泰定帝の崩御(致和元年7月)を受け、皇太子阿速吉八が上都にて即位し「天順」に改元。新元史 泰定帝紀は「九月,皇太子即皇帝位于上都,改元天顺」、元史 巻三十(泰定帝二)は「九月,倒剌沙立皇太子为皇帝,改元天顺,诏天下」と記す(いずれも日付は「九月」までで、具体的な日次は未記載。1328-10-04は本タスクの前提情報にある天順元年九月一日の換算日を採用)。前代(泰定帝の泰定・致和)から新元号への切り替えであり即位に伴う建元として1回とカウント。

出典: 新元史 巻二十五(泰定帝紀)/元史 巻三十(泰定帝二)

被反乱1328年10月4日〜1328年11月14日天暦の内乱(上都陥落)

首謀者: 燕帖木児(大都・文宗擁立派の首謀者)指揮下の斉王月魯帖木児ら

結果: 鎮圧できず。文宗方(大都)の斉王月魯帖木児らが兵を率いて上都を攻撃し、左丞相倒剌沙が皇帝の玉璽を捧げて投降。少帝(天順帝)は行方不明となり、在位わずか41日で政権が崩壊した(未鎮圧のまま在位終了、判定基準3-(2)に該当)。

新元史(泰定帝紀附録)原文:「九月,皇太子即皇帝位于上都,改元天顺」「冬十月辛丑,齐王月鲁帖木儿等以兵犯上都,左丞相倒剌沙奉皇帝宝出降,少帝不知所终」。泰定帝崩御後、大都では燕帖木児が図帖睦児(後の文宗)を擁立し対立政権を樹立、上都の天順帝政権と交戦した内戦(天暦の内乱)。同キャッシュ末尾の「史臣曰」は文宗の即位を『篡立』と評し、泰定帝-天順帝系を正統・文宗方を反乱者とする史観を示しているため、天順帝側からはこの内乱を被反乱(rebellionSufferedCount)として計上した(判定基準グループ3-6の内戦条項に基づく判断。文宗自身のrebellionSuppressionCountはyuan-wenzong側で別途、史料の記述に基づき検討されたい)。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。