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泰定帝の肖像画

元第10代()

泰定帝イェスン・テムル

在位 1323–1328年(4年316日)1323年10月4日 〜 1328年8月15日

日本は鎌倉時代

英宗が弑されたのちに北辺で迎えられて即位し、治平と称されたが、死後に文宗の詔で逆臣と通じたと責められた元の皇帝である。

泰定帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 1323年10月4日〜1328年8月15日
4年316日長い順191位/365人即位の年齢は不詳
没年
1328年8月15日36歳(数え年)長生き順同率150位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 英宗元泰定帝は英宗の同族(遠縁)
次代
呼び名
漢字音写也孫鉄木児呼び名の見方

出典

在位
元史 泰定帝紀一(巻二十九)/泰定帝紀二(巻三十)
死因
元史 巻三十(泰定帝二)
即位経路
元史 巻二十九(泰定帝一)

生涯

即位まで

顕宗甘麻剌の長子で、1302年に父の晋王位を継いで北辺を鎮めた。1323年、晋王府の内史の倒剌沙は、主上が晋王を容れなくなるだろうと告げに来たの探忒と深く結んだ。同じ年、の鉄失が、事が成れば王を皇帝に推すと晋王に告げさせ、倒剌沙にもこれを知らせた。晋王はその使者を囚え、上都へ使者を遣わして逆謀を告げさせたが、間に合わなかった。英宗が南坡で殺されると、の按梯不花と也先鉄木児がを奉じて晋王を迎え、晋王は龍居河で即位した。即位の詔は、自分は裕宗の長孫で争い立つ兄弟は無いと述べ、英宗を我が侄の皇帝と呼んだ。

治世と最期

即位すると也先鉄木児を、鉄失を知事としたが、まもなく逆賊として誅させ、鉄失らは子孫まで戮した。迎えに来た按梯不花も、逆謀にしたとして流した。

1324年、を理由に辞任を願うや宰相に、過ちは朕にあり、皆が去れば国の大事を誰と図るのかと答えた。同じ年、張珪らが当世の得失を論じた議を奏上したが、泰定帝は最後まで従えなかった。自ら帝師から三度仏戒を受け、西方の商人の宝石の買い上げを節するよう求めた御史の言は取り上げなかった。灯山を張ろうとしたが、御史の趙師魯に諫められると、すぐに取りやめた。

1328年、柳林の狩りから病のため宮に戻り、同じ年に上都で没した。倒剌沙が皇太子の阿速吉八を立てて、天順とした。

史料について

病と場所は文宗紀にあり、泰定帝紀は崩御の条に病も場所も記さない。即位した文宗は詔で、晋邸は鉄失らとひそかに通じ、英宗をに遭わせたと責めた。泰定帝紀の末は、祖宗の法を守って天下は無事で、治平と称されたと評する。新元史のは、鉄失らを討ったことを称え、文宗が誣いと蔑みの言葉を尽くしたと述べる。

泰定帝とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱9・皇后1・改元2・大赦4
  1. 1323年10月4日
  2. 改元1324年元号を「泰定」とする
  3. 皇后1324年大明殿にて八八罕氏(弘吉剌氏、八不罕)を皇后に冊立。
  4. 反乱1324–1327年播州(貴州)苗徭の反乱(黎平愛・謝烏窮等)
  5. 反乱1324–1325年西番(吐蕃)参卜郎の反乱
  6. 1325年
  7. 反乱1325年木邦路(雲南・ビルマ国境)土官八廟の反乱
  8. 反乱1325年站八児監蔵の反乱(兀敦)
  9. 反乱1326年広西全茗州土官許文傑の反乱
  10. 反乱1326年泉州阮鳳子の蜂起
  11. 反乱1326–1327年元江路総管普双の反乱
  12. 反乱1326年息州弥勒教蜂起(趙丑廝・郭菩薩)
  13. 1327年
  14. 1327年
  15. 改元1328年4月7日元号を「致和」とする
  16. 反乱1328年6月広西普寧陳慶安の僭号蜂起

元の歴代皇帝

歴代15人の一覧
  1. 第1代チンギス・カン皇帝を名乗っていない1206–1227年
  2. 第2代オゴデイ皇帝を名乗っていない1229–1241年
  3. 第3代グユク皇帝を名乗っていない1246–1248年
  4. 第4代モンケ皇帝を名乗っていない1251–1259年

年表

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元が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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