泰定帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 1323年10月4日〜1328年8月15日
- 没年
- 1328年8月15日36歳(数え年)長生き順同率150位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 漢字音写也孫鉄木児呼び名の見方
出典
- 在位
- 元史 泰定帝紀一(巻二十九)/泰定帝紀二(巻三十)
- 死因
- 元史 巻三十(泰定帝二)
- 即位経路
- 元史 巻二十九(泰定帝一)
生涯
即位まで
顕宗甘麻剌の長子で、1302年に父の晋王位を継いで北辺を鎮めた。1323年、晋王府の内史の倒剌沙は、主上が晋王を容れなくなるだろうと告げに来た宣徽使宮中の行事や用度をつかさどる役所の長の探忒と深く結んだ。同じ年、御史大夫役人の不正を取り締まる役所の長官の鉄失が、事が成れば王を皇帝に推すと晋王に告げさせ、倒剌沙にもこれを知らせた。晋王はその使者を囚え、上都へ使者を遣わして逆謀を告げさせたが、間に合わなかった。英宗が南坡で殺されると、諸王王に取り立てられた皇族たちの按梯不花と也先鉄木児が璽綬位や官職を示す印とそれを下げるひもを奉じて晋王を迎え、晋王は龍居河で即位した。即位の詔は、自分は裕宗の長孫で争い立つ兄弟は無いと述べ、英宗を我が侄の皇帝と呼んだ。
治世と最期
即位すると也先鉄木児を右丞相左右二人置かれた最高位の大臣のうち右の方、鉄失を知枢密院軍事をつかさどる中央の役所事としたが、まもなく逆賊として誅させ、鉄失らは子孫まで戮した。迎えに来た按梯不花も、逆謀に連座罪人の家族や関係者まで一緒に罰せられることしたとして流した。
1324年、災異天の戒めとされた天災や怪しい出来事を理由に辞任を願う御史役人の不正を調べて皇帝に訴える役人や宰相に、過ちは朕にあり、皆が去れば国の大事を誰と図るのかと答えた。同じ年、張珪らが当世の得失を論じた議を奏上したが、泰定帝は最後まで従えなかった。自ら帝師から三度仏戒を受け、西方の商人の宝石の買い上げを節するよう求めた御史の言は取り上げなかった。灯山を張ろうとしたが、御史の趙師魯に諫められると、すぐに取りやめた。
1328年、柳林の狩りから病のため宮に戻り、同じ年に上都で没した。倒剌沙が皇太子の阿速吉八を立てて、天順と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。
史料について
病と場所は文宗紀にあり、泰定帝紀は崩御の条に病も場所も記さない。即位した文宗は詔で、晋邸は鉄失らとひそかに通じ、英宗を弑逆臣下や子が主君や親を殺すことに遭わせたと責めた。泰定帝紀の末は、祖宗の法を守って天下は無事で、治平と称されたと評する。新元史の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、鉄失らを討ったことを称え、文宗が誣いと蔑みの言葉を尽くしたと述べる。
泰定帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱9・皇后1・改元2・大赦4
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1323年10月4日
- 改元1324年元号を「泰定」とする
- 皇后1324年大明殿にて八八罕氏(弘吉剌氏、八不罕)を皇后に冊立。
- 反乱1324–1327年播州(貴州)苗徭の反乱(黎平愛・
謝烏窮等) - 反乱1324–1325年西番(吐蕃)参卜郎の反乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1325年
- 反乱1325年木邦路(雲南・
ビルマ国境)土官八廟の反乱 - 反乱1325年站八児監蔵の反乱(兀敦)
- 反乱1326年広西全茗州土官許文傑の反乱
- 反乱1326年泉州阮鳳子の蜂起
- 反乱1326–1327年元江路総管普双の反乱
- 反乱1326年息州弥勒教蜂起(趙丑廝・
郭菩薩) - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1327年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1327年
- 改元1328年4月7日元号を「致和」とする
- 反乱1328年6月広西普寧陳慶安の僭号蜂起
元の歴代皇帝
歴代15人の一覧- 第1代チンギス・カン皇帝を名乗っていない1206–1227年
- 第2代オゴデイ皇帝を名乗っていない1229–1241年
- 第3代グユク皇帝を名乗っていない1246–1248年
- 第4代モンケ皇帝を名乗っていない1251–1259年
- 第5代世祖クビライ1260–1294年病死
- 第6代成宗1294–1307年病死
- 第7代武宗1307–1311年病死
- 第8代仁宗1311–1320年病死
- 第9代英宗1320–1323年暗殺
- 第10代泰定帝1323–1328年病死
- 第11代天順帝1328年不詳
- 第12・14代文宗1328–1329年1329–1332年(復位)病死
- 第13代明宗1329年暗殺
- 第15代寧宗1332年病死
- 第16代恵宗1333–1370年病死
年表
元・
元が
