中国皇帝統計

陳理

陳漢(元)|在位 1363–1364年

諱(本名)
陳理
在位
1363–1364年
在位期間
1年30日365名中291位タイ
即位経路
世襲
死因
不詳
即位時年齢
13歳(数え年)172名中・若い順40位タイ
没年齢
58歳(数え年)269名中・長寿順45位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
145名中12位タイ

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

父・陳友諒の戦死後、その子として武昌で帝位を嗣いだ(「子理既還武昌,嗣偽位」)。父子間の継承のため世襲。

出典: 明史 巻一百二十三/元史 巻四十六

死因の経緯

明史の記述は洪武5年(1372年)の高麗移送で途絶え、以降の消息・死因の記述はない。1408年没という情報は中国正史の調査範囲外(朝鮮側記録に依ると考えられる)。

出典: 明史 巻一百二十三

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

元史巻四十六「其子理自立、仍拠武昌為都、改元徳寿」、新元史「其子理奔武昌、僭称皇帝、改元徳寿」(および同「太尉張定辺等、乗夜以小舟載友諒尸、及其少子理、走武昌。九月、理僭称皇帝、改元徳寿」)、明史列伝「子理既還武昌、嗣偽位、改元徳寿」の三史一致により確定。至正24年2月/3月の降伏まで別の改元記録は見当たらないため、通算1回。

大赦回数

明史巻一百二十三(陳友諒張士誠方国珍明玉珍伝)、元史巻四十六、新元史(陳友諒伝・順帝本紀該当箇所)、元史紀事本末を通読したが、陳理の在位期間(至正23年8月即位~至正24年2月/3月降伏)中に「大赦」「大赦天下」等の記述は一切見当たらない。在位約半年強で終始武昌籠城戦の最中にあったため、実施の可能性自体が低いとみられる。該当箇所を网羅的に確認した上での0件であり、確信度はmediumとした(史料に明記なしを根拠とする消極的判定のため)。

立后回数

陳理の皇后冊立に関する記述は明史・元史・新元史のいずれにも見当たらない。降伏時に「太祖見理幼弱」(幼くひ弱であった)と描写されており、在位期間(約半年強)・年齢から見て立后の可能性は低いとみられる。史料に明記がないことを根拠とする消極的判定のためconfidenceはmedium。

皇太子廃立回数

陳理は在位中「幼弱」(明史列伝の表現)とされる若年の傀儡的君主であり、立太子の記録自体が原典に存在しない。従って皇太子廃立の記録もない。

親征回数

明史巻123・明太祖実録(_corpus_cache/ming-taizu.txt収録)を確認したが、陳理本人が自ら軍を率いて出征した記録は原文に見当たらない。降伏時の描写「太祖見理幼弱」(明史)が示す通り陳理は若年で軍事的主体性を持たない傀儡的君主であった。なお在位中に武昌へ攻め込んだのは朱元璋(太祖)本人であり(明太祖実録「壬午、自将征陳理」「復自将征武昌、陳理降」)、これは陳理側の親征ではなく攻撃を受けた側であるため計上しない(後述rebellionSufferedCountの判断参照)。

反乱鎮圧回数

在位期間(1363年8月即位~1364年2月/3月降伏)中、陳理が反乱を鎮圧した記録は原文に見当たらない。

被反乱回数

明太祖実録(_corpus_cache/ming-taizu.txt)に「壬午、自将征陳理」(至正23年冬)「復自将征武昌、陳理降」(至正24年2月)とあり、朱元璋が2度親征して武昌を攻略、陳理が降伏したことが確認できる。しかし判定基準4により、元末群雄同士(陳漢と朱元璋の明勢力)の抗争は元から独立した対等勢力間の統一戦争として扱い、鎮圧・被反乱の対象外とする(本人が親征した場合のみpersonalCampaignに計上する規定だが、本件は陳理本人の親征ではなく朱元璋側の親征であるため、いずれの側にも該当なし)。また丞相張必先が岳州から武昌へ援軍として来援し常遇春に擒えられた記事(_corpus_cache/yuanmo-chenli.txt)も陳漢内部の家臣による離反・反乱ではなく明軍との交戦であるため対象外。陳漢政権内部での部将・家臣の離反・反乱を示す記述も原文に見当たらない。

遷都回数

在位中に遷都1回(1363年 江州→武昌)。

即位時年齢・没年齢

明史・元史等の正史原典には陳理の生年・没年・年齢の直接記載なし。生年1351年・没年1408年は高麗側記録(明太祖実録・高麗史系統、恭愍王21年(1372年)の陳理来朝記事に「陳理年二十二歳(数え年)」とある)に基づく複数の中日ウィキペディア等の二次資料が一致して伝える値で、1372-1351+1=22の数え年計算とも整合する。これらから逆算し、即位(1363年)時の数え年齢=13歳、没年(1408年)時の数え年齢=58歳とした。中国正史の調査範囲外(deathCauseフィールド既存noteの通り)の情報を含むためconfidenceはmedium。

在位中の出来事(2件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

遷都1363年江州 → 武昌

明史巻一百二十三陳友諒伝:「(鄱陽湖の戦いで友諒中流矢に当たり死す)太尉張定邊夜挾友諒次子理、載其屍遁還武昌。子理既還武昌、嗣偽位、改元德壽」。至正二十三年(1363)八月、鄱陽湖の戦いで陳友諒が戦死した後、その子陳理が武昌で即位し、都を江州(至正二十年、陳友諒が徐寿輝を擁して定めた建国時の都)から武昌へ移した。(出典: 明史 巻一百二十三 陳友諒伝)

改元1363年8月至正23年(1363年)鄱陽湖の戦いで父・陳友諒が戦死した後、その子・陳理が武昌で即位し「改元徳寿」。

至正23年(1363年)鄱陽湖の戦いで父・陳友諒が戦死した後、その子・陳理が武昌で即位し「改元徳寿」。父の元号「大義」(明史列伝:友諒「即皇帝位、国号漢、改元大義」)をそのまま継続せず、新元号「徳寿」を建てたため建元1回としてカウント。元史・新元史・明史の三史すべてで一致して確認できる高確度の事実。国号は引き続き「漢」のままで変更なし(国号変更は改元に非ず)。

出典: 元史 巻四十六(順帝本紀十四)/新元史(順帝本紀該当箇所、および陳友諒伝)/明史 巻一百二十三(陳友諒張士誠方国珍明玉珍列伝)

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。