陳理の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 1363年〜1364年3月
- 没年
- 不詳
- 死因
- 不詳死因を書いた記録が史書に見当たらない。同じ死因31人/365人
- 即位経路
- 継承同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰が決めたかを史書が書いていない即位。(経緯記載なし)
- 先代
- 陳友諒陳漢陳理は陳友諒の子
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓陳諱理呼び名の見方
- 目立つ記録
- 遷都 1回多い順同率9位
出典
- 在位
- 明史 列伝第十一(陳友諒・
陳理等合伝、絶対巻123) - 死因
- 明史 巻一百二十三
- 即位経路
- 明史 巻一百二十三/元史 巻四十六
生涯
即位まで
1363年、鄱陽湖の戦いで父の陳友諒が死ぬと、太尉朝廷で最も位の高い大臣の一つの張定辺らが夜に陳理と父の屍を載せて武昌へ逃げ帰った。武昌で位に即き、徳寿と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。
史料について
明史の列伝は陳理を友諒の次子とし、新元史は少子とする。国初群雄事略が引く太祖実録皇帝一代ごとの出来事を日を追ってまとめた記録は張定辺らが陳理を帝に立てたとし、明史の列伝は陳理が位を嗣いだとする。
治世と最期
同じ1363年、朱元璋が武昌を囲み、翌1364年に再び親征君主が自ら軍を率いて戦いに出ることした。陳理の丞相皇帝を助けて政治全体を取りまとめた最高位の役職の張必先が岳州から救援に来たが、常遇春に捕らえられて城下で見せしめにされ、城中は大いに恐れた。朱元璋は友諒の旧臣の羅復仁を城に入れ、陳理が来れば富貴を失わないと約束して降伏を勧めさせた。復仁は城下で号泣し、城に入ると、降らねば城を屠ることになる、城中の民に何の罪があろうと説いた。
陳理は肌脱ぎになって軍門に降り、伏して震え、顔を上げられなかった。朱元璋は陳理が幼弱なのを見て抱き起こして手を握り、お前を罪とせぬと言い、応天に帰って帰徳侯に封じた。祖父の普才や伯父たちも侯や伯に封じられた。朝見した陳理が退出すると、朱元璋は群臣に、陳氏が敗れたのは上下が驕り法令が緩んでいたからだと語った。
京師に住む陳理が鬱々として怨みの言葉を口にすると、朱元璋は子供の小さな過ちだが、小人に惑わされて恩を全うできなくなるのが恐ろしいと言い、1372年に帰義侯の明昇とともに高麗へ移した。陳理と明昇らは開京に入って恭愍王に拝し、王は座ったまま拝礼を受けた。
史料について
羅復仁が城に入った次第を、太祖実録は号泣を聞いた陳理が驚いて呼び入れたとし、明史の羅復仁伝は陳理が縄で吊り入れたとする。新元史は、封じた爵を順徳侯とする。高麗へ移されたのちの陳理について、新元史は行く末は分からないとし、明史の列伝・本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分にも没年や死因の記述は無い。
陳理とつながる皇帝

勢力図
元末の勢力図で見る
1363年の地図に、陳理が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
遷都1・改元1
- 遷都1363年江州 → 武昌
- 改元1363年10月元号を「徳寿」とする
陳漢の歴代皇帝
歴代2人の一覧- 第1代陳友諒1360–1363年戦死
- 第2代陳理1363–1364年不詳
年表
元・
陳漢が