中国皇帝統計

陳友諒

陳漢(元)|在位 1360–1363年

諱(本名)
陳友諒
在位
1360–1363年
在位期間
3年109日365名中220位
即位経路
簒奪
死因
戦死
即位時年齢
41歳(数え年)172名中・若い順140位タイ
没年齢
44歳(数え年)269名中・長寿順111位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
2112名中41位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

名目上の主君・徐寿輝を実力で謀殺し、その地位を奪って即位(国号「漢」)。典型的な簒奪。

出典: 明史 巻一百二十三

死因の経緯

鄱陽湖の戦いで船から頭を出して指揮していた際、流れ矢が目と頭蓋を貫いて死亡(「驟中流矢,貫睛及顱死」)。元史も「大明兵與偽漢兵大戦於鄱陽湖,陳友諒敗績而死」と一致。

出典: 明史 巻一百二十三/元史 巻四十六(順帝九)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

陳友諒固有の注意事項として「大定」への改元の有無を確認するよう指示があったため、china-history所収の明史列傳(第十一章=卷十一、絶対巻123と一致確認済み)全文、および元史本紀(daizhigev20/正史/元史.txt)、新元史本紀(同/新元史.txt)、元史紀事本末、明史紀事本末の陳友諒関連記事を網羅的に検索したが、「大定」への改元を示す記述は全く見つからなかった(「大定」の語自体は他の無関係な文脈でのみ出現)。陳友諒の在位中は即位時建元の「大義」のみが確認され、彼の死後に子・陳理が即位して初めて「德壽」へ改元している(これは陳友諒本人の在位区間には含まれない別人物の事績)。よって陳友諒自身の改元回数は1回(建元「大義」のみ)と判定した。

大赦回数

明史 巻一百二十三 陳友諒傳(china-history: 明史/列传/第十一章-卷十一-原文.html、絶対巻123に対応)の陳友諒に関する全文、および明史紀事本末(daizhigev20所収、陳友諒関連の即位・鄱陽湖敗死に至る記事全体)を通読したが、「大赦」「大赦天下」等の記述は一切見られない。陳友諒の漢は明・元いずれの正史にも本紀を持たず、内政記録が乏しいため大赦の記載自体が存在しない可能性が高いが、少なくとも通読範囲内では該当なし。

立后回数

明史 巻一百二十三 陳友諒傳を通読したが、皇后冊立に関する記述(「立后」「冊后」等)は一切見られない。陳友諒の后妃に関する記載自体が原典に存在しないため、立后の事実は確認できず0回とした。

皇太子廃立回数

明史 巻一百二十三 陳友諒傳に「軍大潰、太子善兒被執」(鄱陽湖敗走の際、太子善児が捕らえられた)とあり、皇太子(善児)の存在は確認できるが、廃立(廃太子)の記述は見られない。善児は捕虜となったのみで、記録上廃立された形跡はない。

親征回数

明史 巻一百二十三 陳友諒傳(_corpus_cache/yuanmo-chenyouliang.txt)を通読。友諒自身が「率」「引」等の語で軍を率いたと明記される戦役は龍湾の戦い(1360)と南昌包囲〜鄱陽湖の戦い(1363、死没)の2件。いずれも元末群雄同士(陳漢対明)の統一戦争であり、判定基準4により対等勢力間の戦争として鎮圧・被反乱の対象外とし、本人親征のためpersonalCampaignCountにのみ計上した。

反乱鎮圧回数

明史 巻一百二十三 陳友諒傳を通読したが、陳漢政権内部の家臣・部将による明確な離反・反乱(原文で「叛」「反」等の語を伴うもの)は見当たらない。趙普勝の粛清(「友諒即殺普勝」)は自軍内の疑心による粛清であり、また即位(1360年)以前の出来事のため対象外。于光・欧普祥(安慶)、呉宏(饒)、王溥(建昌)、胡廷瑞(龍興)、左右金吾将軍らはいずれも朱元璋軍の攻勢を受けての戦場での降伏(「降」)であり、判定基準4の元末群雄同士の抗争(対朱元璋)の一環として生じたものと判断し、独立した服属民の反乱としては計上しなかった。

被反乱回数

上記rebellionSuppressionCountと同一の判断根拠により0件。徐寿輝殺害・簒奪は判定基準5によりaccessionRoute領域として除外済み(既存accessionRouteフィールドに記録済み)。陳漢内部での明確な反乱蜂起の記述は原文に見当たらず、朱元璋との一連の攻防(龍湾の戦い・南昌包囲・鄱陽湖の戦い)はpersonalCampaignCount側に計上した対等勢力間の統一戦争として扱った。

遷都回数

元史・明史陳友諒伝を通読。建国時の江州定都(対象外)から1363年の戦死まで江州が都、武昌への遷都は子・陳理の代の出来事。

即位時年齢・没年齢

明史紀事本末(巻に陳友諒關連の鄱陽湖敗死記事)に「至是敗,年四十四,稱帝僭號凡四年」とあり、至正23年(1363)鄱陽湖の戦いで敗死した際の年齢が44歳(数え年)と直接記載されている。これは明史列傳本文(第十一章-卷十一)には見えず、明史紀事本末の記述による。称帝期間「凡四年」は明史列傳の「友諒僣號凡四年」とも一致し信頼性は高いが、生年そのものの直接記載はなく44歳から逆算した推定(1363-44+1≒1320年頃)に留まるためconfidenceはmediumとした。

在位中の出来事(3件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

親征1360年朱元璋(明・太祖)

対象: 朱元璋(明・太祖)

結果: 敗北

即位直後、応天(朱元璋の本拠)を東取しようと自ら舟師を率いて東下(「友諒果引舟師東下」)。康茂才の偽計に嵌り江東橋で龍湾の戦いに大敗、太平を放棄して江州へ敗走した(明史 巻一百二十三 陳友諒傳)。友諒本人による親征と明記されているためpersonalCampaignに計上。元末群雄同士(陳漢対明)の抗争のため鎮圧・被反乱の対象外。

改元1360年6月16日至正20年閏5月16日(庚午)、采石の五通廟にて即位し、国号「漢」、建元して「大義」とした。

至正20年閏5月16日(庚午)、采石の五通廟にて即位し、国号「漢」、建元して「大義」とした。即位に伴う最初の建元。明史列傳原文:「即皇帝位、國號漢、改元大義」。元史・新元史本紀にも「弑徐壽輝於采石、僭稱皇帝、國號漢、改元大義」と同内容の記載あり。

出典: 明史 巻一百二十三(陳友諒傳)/元史 巻四十六(順帝九)

親征日付不詳朱元璋(明・太祖)

対象: 朱元璋(明・太祖)

結果: 敗死

至正23年(1363)、家族・百官を率い巨大楼船数百艘を自ら率いて南昌(洪都)を包囲攻撃(「友諒忿疆土日蹙,乃大治樓船數百艘…載家屬百官,盡銳攻南昌」)。太祖自ら救援に至ると囲みを解いて鄱陽湖に転進し康郎山で交戦、大敗の末に泾江口で流れ矢を受け戦死した。友諒本人が全軍を率いた親征であり、元末群雄同士(陳漢対明)の抗争のためpersonalCampaignに計上(鎮圧・被反乱の対象外)。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。