中国皇帝統計

明玉珍

夏・元|在位 1363–1366年

諱(本名)
明玉珍
在位
1363–1366年
在位期間
3年61日365名中221位
即位経路
建国
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
36歳(数え年)269名中・長寿順152位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

元は徐寿輝配下の元帥だったが、陳友諒が徐寿輝を弑殺すると服属を拒否し瞿塘峡を封鎖して自立、至正21年「自立為隴蜀王」を経て至正22年「僭即皇帝位于重慶,國號夏」。元にも陳友諒の漢にも臣従しない独自建国。

出典: 明史 巻123 列伝第11(明玉珍伝)

死因の経緯

「二十六年春,玉珍病革,召壽等諭曰…遂卒。凡立五年,年三十六」。末期に諸将を召して後事を託す遺言の様子から自然死と判断。享年は原典の「年三十六」に基づき数え36とする(従来の享年38は誤り)。

出典: 明史 巻123 列伝第11(明玉珍伝)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

建元「天統」1回のみで数自体は確実(既存注意事項の『即位建元「天統」1回が基本線』と一致)。ただし正確な即位年月日について元史(至正23年正月朔)と明史・明史紀事本末・新元史(至正22年三月)の間で1年のズレがあり、既知情報(1363-01-16)は元史側の年代に依拠しているため、この点はconfidenceをmediumとした。

大赦回数

明史巻123列伝第11(明玉珍伝)および新元史巻二百二十六載記(明玉珍伝)の全文(即位から病死・子升継承までの記述)を通読したが、『大赦』『大赦天下』等の語は明玉珍の治世中に一切見当たらなかった。子の明昇の代(改元開熙後)にも同様に大赦の記述は確認できない。よって該当なし(0回)と判定。

立后回数

彭氏の立后1回のみ。廃后・再冊立の記録なし。

皇太子廃立回数

明史巻123列伝第11「立妻彭氏为皇后,子升为太子」、新元史巻二百二十六載記「立妻彭氏為皇后,子升為太子」とあり、即位時に子の明升(升)を皇太子に立てたのみで、在位中(天統元年~4年/至正22年~26年)に皇太子を廃立したとする記述は両書とも存在しない。明玉珍は病死し、皇太子升がそのまま即位(改元開熙)しており、廃立の事実なし。

親征回数

_corpus_cache/yuanmo-mingyuzhen.txt(明史巻123列伝第11・明玉珍伝の全文)を通読。至正22年(1362年)春の即位(皇帝位)以降、天統4年(1366年)の病死までの在位期間中、明玉珍本人が『帝親征』『自将』等の形で軍を率いて出征したとする記述は見当たらない。在位中唯一の軍事行動である雲南(元梁王)攻撃・巴州攻略も『遣万勝』『復遣興』とあり、いずれも部将(万勝・鄒興)への派遣であって本人不出征。即位前(徐寿輝配下の元帥時代、至正17年の重慶攻略等)の軍事行動は本人の皇帝在位期間外かつ他者(徐寿輝政権)の将としての行動であり対象外。よって0件と判定。

反乱鎮圧回数

_corpus_cache/yuanmo-mingyuzhen.txt を通読したが、明玉珍の即位後(大夏建国・天統年間)に部将・地方勢力等が離反・反乱を起こしそれを鎮圧したとする記述は存在しない。在位中の軍事行動(雲南攻撃・巴州攻略)は元朝の梁王領(服属関係になかった独立地域)に対するものであり、服属民の反乱鎮圧には該当しない(判定基準4の対等勢力・非服属勢力との戦争に相当)。即位前の重慶攻略(完者都・哈麻秃らを討った件)も明玉珍が徐寿輝配下の一元帥として元朝勢力を攻めたものであり、彼自身の皇帝としての反乱鎮圧には該当しない。判定基準7(元末群雄6名は史料が簡潔で該当事件が無ければ0件のまま確定してよい)に従い0件とした。

被反乱回数

_corpus_cache/yuanmo-mingyuzhen.txt を通読したが、明玉珍の在位中(天統元年~4年)に配下の部将・地方勢力による離反・反乱・弑逆(クーデター含む)を示す記述は一切見当たらない。病死時も『召寿等諭曰…遂卒』と平穏な最期であり弑逆等の兆候なし。陳友諒による徐寿輝弑逆(至正20年)は明玉珍自身が被害を受けた事件ではなく(むしろこれを機に陳友諒との断交・自立を選んだ側)、対象外。判定基準7に従い0件とした。

遷都回数

明史明玉珍伝を通読。建国時の重慶定都(対象外)から明玉珍死後の明昇期を含め、1371年の降伏まで重慶が一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

明史巻123列伝第11(明玉珍伝)「遂卒。凡立五年,年三十六。」および新元史巻二百二十六載記(明玉珍伝)「玉珍死,年三十六。」の両原典が没年齢を『三十六』と明記しており、既知情報の『享年38』とは食い違う(2歳差)。没年についても新元史は『二十五年夏』(至正25年=1365年)とするが、明史は『二十六年春』(至正26年=1366年、既知情報の1366-03-17と整合)とし、両書で1年のズレがある。原典に具体的な没日(干支日)の記載は見当たらず、生年に関する記載も原文中に見出せなかった。即位時年齢の直接記載もなし。

在位中の出来事(2件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元1363年1月16日重慶にて皇帝に即位し、国号を「大夏」、建元して「天統」とした最初の建元。

重慶にて皇帝に即位し、国号を「大夏」、建元して「天統」とした最初の建元。元史巻46(順帝九)は『二十三年春正月壬寅朔,四川明玉珍僣称皇帝,建国号曰大夏,紀元曰天統』とし(既知情報の1363-01-16=至正23年正月朔日と一致)、明史巻123列伝第11は『以二十二年春僭即皇帝位于重慶,国号夏,建元天統』、明史紀事本末(巻○太祖平夏)も『二十二年春三月,明玉珍僭称帝於蜀,国号大夏,改元天統』とし、いずれも国号「大夏」・年号「天統」の建元自体は一致するが、即位年について元史が至正23年(1363)、明史・明史紀事本末が至正22年(1362)と1年のズレがある(新元史巻二百二十六載記は『二十二年三月戊辰,遂僭称皇帝,都重慶,号大夏国,建元大統』とし年は明史と同じ至正22年だが、年号表記が『大統』となっており天/大の誤字の可能性が高い)。在位中の建元はこの1回のみで、後代の元号継続使用や複数回改元の記録は確認できない。子の明升の『改元開熙』は升自身の代の出来事であり明玉珍のカウントには含めない。

出典: 元史 巻46(顺帝九)/明史 巻123 列伝第11(明玉珍伝)/新元史 巻二百二十六 載記(明玉珍伝)

立后1363年1月16日即位と同時に妻・彭氏を皇后に立てた。

即位と同時に妻・彭氏を皇后に立てた。明史巻123列伝第11『立妻彭氏为皇后,子升为太子』、新元史巻二百二十六載記『立妻彭氏为皇后,子升为太子』と両書とも即位の記事に続けて同時に記載しており、即位日と同日の出来事として扱った(即位年自体の元史・明史間の1年のズレはeraChangeCountの注記を参照)。在位中に皇后の廃立・再冊立を示す記述はなく、彭氏は玉珍死後も『皇太后』として子・升の摂政(同聴政)を続けており、立后は生涯で1回のみと判断される。

出典: 明史 巻123 列伝第11(明玉珍伝)/新元史 巻二百二十六 載記(明玉珍伝)

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。