明玉珍の人物データ
- 生年
- 1331年
- 在位
- 隴蜀王1360年頃〜1362年
- 皇帝1362年〜1366年3月
- 没年
- 1366年3月36歳(数え年)長生き順同率150位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- 明昇夏・
元 明昇は明玉珍の子
- 明昇夏・
- 呼び名
- 姓明諱玉珍廟号太祖呼び名の見方
出典
- 在位
- 明史 列伝第十一(明玉珍伝)
- 死因
- 明史 巻123 列伝第11(明玉珍伝)
- 即位経路
- 明史 巻123 列伝第11(明玉珍伝)
生涯
即位まで
随州の人で、身長は八尺余り、目は重瞳一つの目に瞳が2つあること。聖人の相とされただった。郷里で千余人をまとめていたが、皇帝を称した徐寿輝に、来れば富貴を共にし、来なければ屠ると招かれて降り、沔陽を守った。元の将と戦って矢が右目に当たり、片目が見えなくなった。1357年、重慶を攻める途中、元の進士官吏登用の試験に受かった人の称号の劉楨を推されると自ら会いに行き、大いに喜んだ。部将の戴寿の策で重慶を襲って元の守将を走らせ、略奪を禁じると、降る者が日に増えた。1360年、陳友諒が徐寿輝を弑して自立すると、この悖逆は何事かと言って瞿塘を塞いで通交を絶ち、徐寿輝の廟を建てて祀った。1362年、劉楨の勧めを容れて重慶で即位し、国号を夏、元号を天統とした。
史料について
新元史は明玉珍が劉楨の勧めをいったん退けたとし、元号を大統君主の位を受け継ぐこと、またその位と書く。称帝皇帝を名乗ることを、元史の順帝紀だけは1363年の条に置く。
治世と最期
即位後は劉楨の謀で国子監国が都に置いた最高の学校を設け、進士科を開き、税を十分の一とし、蜀の人は安んじた。1363年、三路から雲南を攻めさせ、万勝の兵だけが深く入ったが、翌年に梁王が反撃すると、孤軍で後続が無く引き返した。引き返す万勝の軍は通る先々で略奪し、明玉珍は制することができなかった。朱元璋とは使者を交わし、朱元璋は、漢末の孫権と劉備が呑み合ったことを戒めとしたいと書き送った。
1366年、病が重くなると戴寿らを呼び、力を合わせて嗣子家や位を継ぐ子を助ければ西蜀は自守できると言い残して没した。子の明昇が位を継ぎ、母の彭氏が皇太后としてともに政を聴いた。
史料について
万勝の略奪を記すのは国初群雄事略が引く太祖実録皇帝一代ごとの出来事を日を追ってまとめた記録である。朱元璋との通好を、明史の列伝・続資治通鑑・太祖実録は明玉珍の側から始めたとし、新元史と明氏実録は朱元璋の側からとする。新元史は死を1365年とする。明史の列伝は、明玉珍に遠略は無かったが、倹約で学を好み、身を低くして士に接したと評し、明史の賛は、勢いに乗って一隅に割拠し二代にわたって僭号資格がないのに勝手に君主の称号や国号を名乗ることしたのは、幸運でなかったとは言えないと結ぶ。
明玉珍とつながる皇帝

勢力図
元末の勢力図で見る
1362–1366年の地図に、明玉珍が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
皇后1・改元1
- 改元1362年元号を「天統」とする
- 皇后1362年即位と同時に妻・
彭氏を皇后に立てた。
夏・元の歴代皇帝
歴代2人の一覧- 第1代明玉珍1362–1366年病死
- 第2代明昇1366–1371年不詳
年表
元・
夏・