徐寿輝
天完(元)|在位 1351–1360年
- 諱(本名)
- 徐寿輝
- 在位
- 1351–1360年
- 在位期間
- 8年275日365名中143位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 3回332名中45位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 2回45名中3位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
彭瑩玉・鄒普勝らに容貌を理由に「推して主と為す」という擁立に近い過程を経て国号「天完」を樹立し自ら皇帝を称した初代であるため建国と判定(擁立的側面も併存する境界事例)。
出典: 明史 巻一百二十三
死因の経緯
陳友諒が采石磯にて部将に偽って報告させ、壮士に鉄槌で頭を撃砕させて謀殺した(「戒壯士挾鐵撾撃砕其首」)。同一政権内部者(陳友諒)による謀殺のため暗殺。
出典: 明史 巻一百二十三(陳友諒伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
明史・新元史の徐寿辉本伝には建元「治平」の記載のみで、その後の改元は記されない。清代の考証書『历代建元考』(天完条)で初めて治平・天啓・天定の3元号が確認できたが、同書自身が引用する『庚申外史』『平胡録』は、天啓・天定への改元が寿辉自身によるものか、当時既に丞相として実権を掌握していた陳友諒によるものかを「未可知」(判断できない)としている。この史料上の限界を踏まえ、confidenceはmediumとした。国号「天完」の制定自体は改元と区別してカウントしていない。
大赦回数
明史列伝(巻一百二十三)、新元史列伝(巻二百二十六)、国初群雄事略(巻三「天完徐寿辉」条、日次で至正11~20年の事跡を詳細に記録)、历代建元考(天完条)を通読したが、天完政権(徐寿辉)自身による「大赦」「大赦天下」の記載は一切見当たらなかった。なお元朝側の大赦(例:至正12年正月丙寅「以河復故道、大赦天下」=元史・新元史本紀)は徐寿辉政権とは無関係のため対象外とした。
立后回数
上記諸史料を通読したが、徐寿辉が皇后を冊立したとの記載は見当たらない。同じ元末群雄の明玉珍が妻彭氏を皇后に立てた記事(新元史巻二百二十六)は明確に記録されている一方、徐寿辉についてはそのような記事がなく、対比的に皇后不在(または記録なし)と判断した。
皇太子廃立回数
上記諸史料を通読したが、徐寿辉が皇太子(皇太弟等含む)を立てた記載自体が見当たらず、従って廃立の記録もない。倪文俊・陳友諒による専横(丞相として実権掌握、江州幽閉、最終的に弑逆)はあったが、これは太子廃立とは別種の事跡である。
親征回数
明史巻一百二十三(陳友諒張士誠方國珍明玉珍傳。徐寿輝の記事は同伝内に併載)・新元史巻二百二十六(徐寿輝陳友諒列伝)を通読したが、即位後(至正11年10月称帝以降)に徐寿輝本人が自ら軍を率いて出征したことを示す「帝親征」「自将」等の記述は見当たらなかった。軍事行動は丁普郎・邹普胜・赵普胜・项普略・倪文俊ら諸将による代理出征(「分兵四出」「寿輝将○○陥△△」等の表現)で一貫している。なお至正11年9月の蘄水・黄州占拠(元の威順王宽彻不花を破った戦)は彭瑩玉一派が容貌を理由に徐寿輝を「推為主」して擁立する建国過程の一部であり、accessionRoute領域として本カウントの対象外とした。
反乱鎮圧回数
在位中に発生した2件の反乱・クーデター(倪文俊の弑逆未遂、陳友諒の簒奪)はいずれも徐寿輝自身が鎮圧した記録がない。倪文俊は失敗して逃亡した後、その部下であった陳友諒が独自の権力掌握のために倪文俊を殺害しており(「友諒因襲殺文俊、並其眾、自稱宣慰使」)、これは寿輝の命による鎮圧ではないため計上しない。陳友諒による簒奪・弑逆は最終的に寿輝自身の死に至っており鎮圧不可能であった。
被反乱回数
食い違いパターン(2)「未鎮圧のまま在位終了(suffered>suppression)」に該当。両事件とも徐寿輝自身が鎮圧できず、後者では自身の死という形で在位が終了した。
遷都回数
在位中に遷都2回(1356年 蘄水→漢陽、1359年 漢陽→江州)。
即位時年齢・没年齢
新元史巻二百二十六(徐寿輝陳友諒列伝)・明史巻一百二十三・国初群雄事略巻三・平漢録・蘄黄四十八砦紀事・罪惟録選輯を確認したが、徐寿輝の生年・享年・数え年に関する直接記載は見当たらなかった。没日(天定2年閏5月16日、陳友諒による弑逆)は既存reigns/deathCauseデータで確定済みのためdeathDateのみ転記し、birthDate・accessionAge・deathAgeは調査済みだが不明として空値とした。
在位中の出来事(7件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1351年10月1日至正11年10月、蘄水にて即位し国号「天完」を称し、建元「治平」(即位に伴う最初の建元)。
至正11年10月、蘄水にて即位し国号「天完」を称し、建元「治平」(即位に伴う最初の建元)。明史・新元史・国初群雄事略とも「改元治平」と一致して記す(原文の月は「九月」とする明史と「十月」とする新元史・国初群雄事略とで差異あり。既知の即位日1351-10-01は既存調査の確定値に従った)。
出典: 明史 巻一百二十三(陳友諒張士誠方國珍明玉珍傳);新元史 巻二百二十六(徐寿辉陳友諒列伝);国初群雄事略 巻三「天完徐寿辉」
遷都1356年蘄水 → 漢陽
元史・順帝本紀(巻四十四)至正十六年正月条:「倪文俊建偽都於漢陽、迎徐壽輝據之」。天完国は至正十一年(1351)蘄水で建国(建国時の最初の定都のため対象外)したが、至正十二年に元軍に蘄水を攻略され徐寿輝は敗走。その後勢力を回復した丞相倪文俊が漢陽に新たな都を築き、徐寿輝を迎えて居所とした。(出典: 元史 巻四十四 順帝本紀七 至正十六年正月)
被反乱1357年倪文俊の弑逆未遂
首謀者: 倪文俊
結果: 未遂・失敗(黄州へ逃亡)
至正17年(1357)9月、丞相として実権を握っていた倪文俊が「謀弑寿輝、不果(不克)、奔黄州」(寿輝暗殺を謀るも失敗し黄州へ逃亡)。朝廷内部の権力者(丞相)による実力を伴うクーデター未遂に該当(判定基準ルール6)。倪文俊はその後、部下であった陳友諒に独自の思惑で殺害された(寿輝による鎮圧ではない)。月のみ判明のため年精度で記載。出典: 明史巻一百二十三(陳友諒伝、寿輝記事併載)「十七年九月、文俊謀弑壽輝、不克、奔黃州」;新元史巻二百二十六「文俊怙侈自專、謀殺壽輝不果、奔黃州」。
被反乱1359年〜1360年陳友諒による簒奪・弑逆
首謀者: 陳友諒
結果: 弑逆成功・徐寿輝死去、陳友諒が皇帝を称し漢を建国
至正19年(1359)12月、陳友諒が江州にて徐寿輝を迎え入れると見せかけて伏兵で従者を皆殺しにし(「伏兵郭外、迎壽輝入、即閉城門、悉殺其所部」)、以後寿輝を傀儡化(「奉壽輝以居、而自稱漢王」)。天定2年(至正20年)閏5月16日(1360-07-29)、采石にて部将に偽って報告させ壮士に鉄槌で頭を撃砕させて弑逆し、自ら皇帝を称し国号「漢」を建てた。判定基準ルール5・6(朝廷内部権力者による実力を伴う弑逆)に基づき徐寿輝側のrebellionSufferedCountに計上し、陳友諒自身のrebellionSuppressionCountには計上しない(陳友諒はaccessionRoute側の簒奪者であり鎮圧者ではないため)。始期は江州での伏兵事件(1359年、年精度)、終期は弑逆確定日(1360-07-29、既存deathCause/reignsと一致)。出典: 明史巻一百二十三(陳友諒伝);元史巻四十五 順帝本紀八(至正十九年十二月条);新元史巻二百二十六。
遷都1359年漢陽 → 江州
元史・順帝本紀(巻四十五)至正十九年十二月条:「陳友諒以江州為都、迎偽主徐壽輝居之、自稱漢王」。明史巻一百二十三陳友諒伝にも「始友諒破龍興、壽輝欲徙都之、友諒不可。未幾、壽輝遽發漢陽、次江州…即江州為都、奉壽輝以居、而自稱漢王」とあり、陳友諒が徐寿輝を漢陽から江州へ移し、江州を新たな都とした(実質的には陳友諒による簒奪の一環)。翌至正二十年、陳友諒は采石で徐寿輝を殺害し自ら皇帝を称し国号を「漢」と改めた。(出典: 元史 巻四十五 順帝本紀八 至正十九年十二月/明史 巻一百二十三 陳友諒伝)
改元日付不詳至正18年(戊戌)、治平から「天啓」に改元(在位1年のみ)。
至正18年(戊戌)、治平から「天啓」に改元(在位1年のみ)。清代の年号考証書『历代建元考』天完条に「治平【八】天啓【戊戌一】天定【己亥一】」と明記され、徐寿辉の在位中に治平→天啓→天定と改元三度と数える。ただし同書は『庚申外史』を引用し「天啓天定改于夀辉末年、或疑即友諒所改、是未可知」(天啓・天定は寿辉晩年に改元されたが、実は陳友諒による改元ではないかとの疑いがあり、判然としない)と付記しており、実際に寿辉自身が改元したのか、当時既に丞相として実権を握っていた陳友諒が代行したのかは史料上確定できない。月日の記載はなし。
出典: 历代建元考(天完)条;国初群雄事略 巻三「天完徐寿辉」(『平胡録』引用部)
改元日付不詳至正19年(己亥)、天啓から「天定」に改元。
至正19年(己亥)、天啓から「天定」に改元。天定2年(至正20年/1360年)閏5月16日、陳友諒により採石の五通神廟にて弑逆される(既知情報と一致)。同年5月、陳友諒は寿辉を殺した上で自ら皇帝を称し国号「漢」・建元「大義」としたため、天定は寿辉政権としての最後の元号となった。前項と同様、天定への改元が寿辉自身の意思によるものか陳友諒の専横によるものかは『庚申外史』『平胡録』の時点で既に「未可知(判然としない)」とされている。
出典: 历代建元考(天完)条;国初群雄事略 巻三「天完徐寿辉」(『平胡録』引用部);明史 巻一百二十三(陳友諒傳、弑逆記事)