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天完(元)第1代

徐寿輝

在位 1351–1360年(8年261日)1351年10月 〜 1360年6月16日

日本は室町時代

元末に紅巾を掲げた衆に担がれて天完の皇帝を称したが、実権を臣下に奪われ、最後は陳友諒に殺された人物である。

徐寿輝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1351年10月〜1360年6月16日
8年261日長い順142位/365人即位の年齢は不詳
没年
1360年6月16日年齢不詳
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
—
次代
  • 陳友諒陳漢陳友諒と徐寿輝に血縁はない
呼び名
姓徐諱寿輝呼び名の見方
目立つ記録
  • 遷都 2回多い順同率2位

出典

在位
明史 列伝第十一(陳友諒・張士誠・方国珍・明玉珍合伝)/大明太祖高皇帝実録 巻八
死因
明史 巻一百二十三(陳友諒伝)
即位経路
明史 巻一百二十三

生涯

即位まで

羅田の人で、布を売るのを生業としていた。袁州の僧の彭瑩玉が麻城の鄒普勝と紅巾を掲げて衆を集めたとき、二人は徐寿輝の容貌を奇として主に推した。1351年、蘄水と黄州路を陥れ、蘄水を都として皇帝を称し、国号を天完、元号を治平とした。

史料について

新元史は、彭瑩玉の徒が水浴びをする徐寿輝の身に赤い光を見て擁立したとする。

治世と最期

皇帝を称すると、来れば富貴を共にし、来なければ皆殺しにすると人をやって明玉珍を招かせ、明玉珍は降った。1352年、捕らえられて送られてきた沔陽府の兪述祖に降伏を誘い、罵られると怒って手足を切り離して殺した。天完軍は杭州まで陥れて勢いを振るったが、徐寿輝には遠大な志が無く、得た地を守れなかった。元軍に都の蘄水を抜かれ、徐寿輝は身一つで逃れた。

その後勢力を盛り返して漢陽に都を移したが、の倪文俊に実権を握られた。1357年、倪文俊が徐寿輝を殺そうとして果たせずに黄州へ逃げると、その麾下の陳友諒が倪文俊を殺して兵を併せた。陳友諒が龍興などを手に入れると、徐寿輝は都を移そうとしたが、陳友諒が許さなかった。徐寿輝が江州へ入ると、陳友諒は伏兵を置いて迎え入れ、門を閉じて徐寿輝の部衆をことごとく殺した。以後、徐寿輝は空名を持つだけになった。

1360年、陳友諒は徐寿輝を擁して太平を落とし、采石で壮士にで頭を撃ち砕かせた。陳友諒は采石の五通廟で即位し、国号を漢とした。徐寿輝の臣だった明玉珍はこれを悖逆として瞿塘を塞いで陳友諒と絶ち、徐寿輝の廟を立てて祀った。

史料について

都を移そうとした先を、明史は龍興とし、新元史は安慶とする。新元史は、徐寿輝が寛縦な性格で、権が臣下にあったと記す。殺害の場を、元史は太平路とし、新元史は采石とする。殺害の日も、元史・新元史・続資治通鑑で食い違う。明史紀事本末は、陳友諒が軍中には暴疾で死んだと布告したとする。

徐寿輝とつながる皇帝

元末の勢力図(1351年)

勢力図

元末の勢力図で見る

1351–1359年の地図に、徐寿輝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・遷都2・改元3
  1. 改元1351年元号を「治平」とする
  2. 遷都1356年蘄水 → 漢陽
  3. 反乱1359–1360年陳友諒による簒奪・弑逆
  4. 遷都1359年漢陽 → 江州
  5. 改元日付不詳
  6. 改元日付不詳

年表

元・北元の時代を年表で見る

天完が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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