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戦国の勢力図

前260〜前221年・皇帝が生まれる前の時代・この地図について

地図を読み込んでいます…

前260年

再生の速さ

    この年の動き

    地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。

    この後の秦・前漢の皇帝と王朝

    この地図の時代にはまだ皇帝はいません。前221年に秦王政が皇帝を名乗り(始皇帝)、秦・前漢の時代に皇帝を名乗ったのは16人です。王朝を押すと、その王朝の歴代皇帝が肖像つきで並びます。

    この地図について

    戦国時代の終わり、戦国七雄が争った末に秦が六国を滅ぼして天下を統一するまでを描いた地図です。秦が長平で趙の大軍を破った前260年から、秦が斉を降した前221年まで、その年の暮れにどの城を誰が押さえていたかを史書から拾い、そこから勢力の範囲を描きました。年を動かすと境界が動きます。城の点を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。

    皇帝が生まれる前の時代です。中国で初めて「皇帝」を名乗ったのは、前221年に天下を統一した秦王政(始皇帝)で、それまでの戦国の君主は王を名乗っていました。そのため、ほかの勢力図と違って国名の下に王の名前は出していません。秦王政だけは、即位した前247年から国名の下に「秦王政(のちの始皇帝)」と出し、前221年には始皇帝と出しています。押すと始皇帝のページへ移れます。

    描いたのは、戦国七雄(秦・韓・魏・趙・燕・斉・楚)と、城を持っていた小国の東周・西周・魯・衛、それに趙の滅亡(前228年)の後に公子嘉が代で王を名乗った代です。匈奴・東胡・月氏・朝鮮・百越は、名前だけを地図の端に置きました。

    ここでの西周・東周は、時代の名前の「西周」(鎬京に都した時代)・「東周」(洛陽へ移った後)とは別のものです。戦国の半ばに周の王室の領地が2つに分かれてできた小国で、西周は洛陽、東周は鞏に拠りました。周の王(最後の赧王)は西周に身を寄せていましたが、前256年に西周が秦に降って周の王室が絶え、前249年には東周も秦に滅ぼされます。2つは同じ周の家なので同じ色で塗り、境の線と国名の位置で見分けられるようにしています。

    色の濃い帯が勢力どうしの境です。色がかすれて消えていく所は、城の支配が届いていたと言えない土地(遊牧の地・山地など)で、境を引いていません。朱の四角はその年の都です(楚は陳から巨陽、さらに寿春へ、燕は薊が落ちて遼東の襄平へ、衛は濮陽を失って野王へ移ります)。年のつまみの下の帯は、上が秦(押すと秦王政の即位・統一の年へ移ります)、下が西周と東周です。

    秦の暦は十月が年の初めで、九月が年の暮れです。たとえば秦が十月に取って同じ暦の年の正月に兵を引いた城は、その年の暮れの持ち主を秦にしていません。年は資治通鑑の年の立て方に従っています。紀元前の年は、今の暦の「前○年」(0年の無い数え方)で書いています。

    この地図の作り方

    史書から、主な城107か所について「その年の暮れに誰の城だったか」を年ごとに拾い、持ち主が変わった年ごとに根拠の原文を付けました。根拠は史記と資治通鑑を主に、資治通鑑の胡三省の注で城の位置や名前を確かめました(城の持ち主の引用は合わせて407件。すべて原文の該当行に文字どおりあることと、資治通鑑の引用はその年の見出しの下にあることを機械で照合済み)。調べた後、8つの地域ごとに別の点検役が全行を原文に当て直す点検を2回行い、誤りと抜けを8城で直しました。包囲や、その年のうちに退いた一時的な占領では持ち主を変えていません。

    国が滅んだことは書かれていても城ごとの記事が無いとき(韓・趙・魏・楚・燕・斉の滅亡)は、その国に残っていた城をまとめて秦の城にしています。割譲の約束は、実際に渡した記事があるときだけ持ち主を変えました。

    境界は、その城の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい城の勢力に塗り分けました。どの城からも遠い土地(草原・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。

    同じ勢力の城どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの勢力の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました。また、四方を勢力の土地と海に囲まれた空白と、山地で勢力の土地に深く入り込んだ空白は、最も近い勢力の色で塗りました。まわりをほかの勢力の土地に囲まれた城(飛び地)は、その城を中心にした半径約36kmの丸で描きました。東周・西周・魯のように面の小さい国も、国名は地図の上に出しています。

    当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。

    確かでないところ

    • 前260年の持ち主は、それより前(斉が燕に大敗した前284年から)の史記の記事まで読んで決めましたが、決めきれない城が残っています。高唐は前274年に趙が取った記事の後に斉へ戻った記事が無く、平原は斉とする根拠が推定です(どちらも斉のまま描いています)。上蔡は魏の側に置く記事もあり、楚とする根拠は胡注と李斯の伝(「楚上蔡人」)です。
    • 一度失った城を取り返した年が原文に無いところは、推して置きました。上党の長子・屯留・壺関・長平は、前260年に秦が取った後、前247年に秦が「上党の諸城をことごとく抜いた」ので、それまでに韓へ戻っていたはずで、戻った年を前257年(秦が邯鄲の囲みに敗れた年)に置いています。狼孟が趙へ戻った年(前247年に置いた)も同じく推定です。
    • 趙の滅亡の後に雲中・九原・雁門(善無)が代王に従ったか、燕が遼東へ逃れた後の漁陽・右北平(無終)を秦がいつ取ったか、衛が濮陽を失った前241年に單父も秦に入ったかは、名指す記事が無く推定です。
    • 武陽(燕の下都)は、前247年に燕が趙に与えた「葛・武陽・平舒」の武陽と同じ城か決めきれず、燕のまま描いています。上谷(沮陽)は、年の書かれていない「趙が燕を攻めて上谷の三十城を得た」記事があり、取られた年が分かりません。膚施(上郡)・垣・莒も、持ち主を名指す記事が足りません。
    • 城を名指さない記事は地図に置けていません(前256年に秦が趙の「二十余県」を取った記事、前226年に秦が「十余城」を取った記事など)。
    • 史書の間で年が食い違うところは、資治通鑑の年に従いました。楚王負芻が捕らえられたのは、史記の秦始皇本紀では前224年、資治通鑑では前223年です。魯の頃公が楚に徐州(薛)を取られた年は、魯世家の中で数えると前261年、資治通鑑が置く頃公の即位年から数えると前255年で、後者に合わせました。
    • 史記の六国年表は、使った電子テキストでは表の本文が省かれているため、本紀・世家・列伝から拾っています。史記の趙世家・魏世家も、使った電子テキストに本文が無かったため、別の電子テキスト(china-history)から引きました。
    • 城の点は今の市・県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。越は会稽のあたりに城1つだけを描き、どの国の城でもない勢力として灰色にしています。
    • 海岸線と大半の川は現代のものです。黄河の下流は、戦国〜前漢の流路(濮陽の西・館陶・東光を経て渤海に入る、いわゆる漢志河)を、当時の通過地点を結んだ概略線で描きました。通過地点は原文では確かめていません。
    • 秦はサイトの王朝の色、ほかはこの地図だけの色です。西周と東周、趙と代は同じ家なので同じ色です。魯・衛は灰色で、名前で見分けてください。

    出典とライセンス

    • 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)。資治通鑑(胡三省注を含む)・史記
    • 史記の趙世家・魏世家: hunterhug/china-history の電子テキスト
    • 海岸線・川・湖: Natural Earth(パブリックドメイン)
    • 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)