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楚漢〜前漢初の勢力図

前209〜前195年・この地図について

地図を読み込んでいます…

前209年

再生の速さ

    この年の動き

    地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。

    秦・前漢の皇帝と王朝

    この地図の時代に皇帝を名乗ったのは16人です。王朝を押すと、その王朝の歴代皇帝が肖像つきで並びます。

    この地図について

    陳勝・呉広が兵を挙げた前209年(秦の二世皇帝の元年)から、劉邦が死に、燕王盧綰が匈奴へ逃れた前195年まで、その年の暮れにどの城を誰が押さえていたかを史書から拾い、そこから勢力の範囲を描いた地図です。年を動かすと境界が動きます。城の点を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。

    描いたのは、秦・陳勝の張楚・復活した六国の王(楚・趙・斉・燕・魏・韓)、項羽が前206年に封じた十八王と西楚、漢、漢の初めの異姓の諸侯王(韓信・彭越・英布・張耳と張敖・呉芮など)に加えて、城を持っていた南越と閩越です。三秦(雍・塞・翟)・殷・河南・臨江・閩越のような小さな国は灰色で、名前は地図の上に出しています。匈奴・東胡・月氏・朝鮮などは、名前だけを地図の端に置きました。

    色の濃い帯が勢力どうしの境です。色がかすれて消えていく所は、城の支配が届いていたと言えない土地(遊牧の地・山地など)で、境を引いていません。朱の四角はその年の都です。年のつまみの下の帯は、上が秦と漢、下が楚の系統(張楚・項梁と懐王の楚・項羽の西楚)の2段で、押すとその最初の年へ移ります。

    国名の下には、その年の暮れに在位していた皇帝の名前を出しています。秦の二世皇帝は前207年の八月に殺され、その後に立った子嬰は皇帝ではなく秦王を名乗ったので、前207年の暮れの秦には名前が出ません。劉邦は前206年に漢王になりましたが、皇帝に即いたのは項羽が滅んだ前202年なので、それより前の漢にも名前は出ません。

    この時代の暦は十月が年の初めで、九月(閏月のある年は後九月)が年の暮れです。たとえば秦王子嬰が劉邦に降った「漢元年冬十月」は、今の暦では前207年の冬の初めですが、前206年の初めに入ります。年は資治通鑑の年の立て方に従っています。

    この地図の作り方

    史書から、主な城100か所について「その年の暮れに誰の王・守将がいたか」を年ごとに拾い、持ち主が変わった年ごとに根拠の原文を付けました。根拠は資治通鑑を主に、史記・漢書で裏を取りました(城の持ち主の引用は合わせて941件。すべて原文の該当行に文字どおりあることと、資治通鑑の引用はその年の見出しの下にあることを機械で照合済み)。調べた後、7つの地域ごとに別の点検役が全行を原文に当て直し、誤りと抜けを14城で直しました。包囲や、その年のうちに退いた一時的な占領では持ち主を変えていません。

    項羽の分封(前206年)と漢の統一(前202年)のように、王が替わったことは書かれていても城ごとの記事が無いときは、封じられた郡の城をまとめてその王の城にしています。漢の一族の王(斉王劉肥・楚王劉交・代王劉恒など)の国は漢の色で塗り、国名の下に王の名前を出しています。

    境界は、その城の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい城の勢力に塗り分けました。どの城からも遠い土地(草原・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。

    同じ勢力の城どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの勢力の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました。また、四方を勢力の土地と海に囲まれた空白と、秦嶺より南の山地で勢力の土地に深く入り込んだ空白は、最も近い勢力の色で塗りました。ただし、誰の城とも言えない城のまわりは、隣の勢力の手が届く所でも空白のまま残しました。まわりをほかの勢力の土地に囲まれた城(飛び地)は、その城を中心にした半径約36kmの丸で描きました。

    当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。

    確かでないところ

    • 項羽の分封(前206年)で、長沙郡・黔中郡・豫章がどの王に属したかは原文にありません。この3郡の前206〜前203年は、どの国の色にもせず郡の名前で灰色にしています(城の点を押すと「推定」と出ます)。分封で太原・上党を西魏に、鄴を常山にしたのも、名指す記事の無い推定です。
    • 挙兵の頃(前209〜前207年)は、城そのものを名指す記事が少なく、隣の郡の様子から推したところが多くあります。燕・代の北辺(上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東・雁門・雲中)が秦を離れた年、淮南の寿春・六・居巣・広陵の持ち主、章邯の降伏の後に魏豹が下した「魏の二十余城」がどの城かは確かめられていません。
    • 史記・漢書の秦楚之際月表・漢興以来諸侯王年表は、使った電子テキストでは本文が省かれているため、月ごとの王の交替は本紀・世家・列伝から拾っています。
    • 史書の間で年が食い違うところは、資治通鑑の年に従いました。彭越が梁の十七城を下し、項羽が取り返したのは、資治通鑑では漢三年(前204年)、史記では漢四年です。陳豨の乱で代・雁門・雲中が平定されたのは、資治通鑑では前195年、史記は前196年の春に劉恒を代王に立てています。
    • 韓王信が匈奴に降った後(前201年)の平城・善無・雲中、陳と碭の前202年の持ち主(楚王韓信の国か漢の直轄か)、閩越が東甌を持っていたかは、原文から決めきれていません。
    • 城の点は今の市・県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。長安は高帝が櫟陽から移って都にした前200年から点を出しています。南越・閩越の城は数が少なく、実際の支配がどこまで及んだかは史書からは決めにくいところです。
    • 海岸線と大半の川は現代のものです。黄河の下流は、秦〜前漢の流路(館陶・清河を経て勃海郡の章武あたりで海に入る。漢書 地理志)を、当時の通過地点を結んだ概略線で描きました。ほかの勢力図の黄河(後漢の治水の後の流路)とは下流が違います。
    • 秦と漢はサイトの王朝の色、ほかはこの地図だけの色です。色の数が足りないので、年が重ならない国や離れた国どうしは同じ色のことがあります(秦と常山の赤、張楚・魏・英布の桃、趙と長沙の緑、代・韓信・韓・南越の青、斉と彭越の青緑。名前で見分けてください)。楚と西楚、沛公と漢は同じ家なので同じ色です。

    出典とライセンス

    • 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)。資治通鑑・史記・漢書
    • 海岸線・川・湖: Natural Earth(パブリックドメイン)
    • 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)