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三国の勢力図

190〜280年・この地図について

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190年

再生の速さ

    この年の動き

    地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。

    三国・後漢の皇帝と王朝

    三国の時代に皇帝を名乗ったのは11人、後漢の時代に皇帝を名乗ったのは15人です。王朝を押すと、その王朝の歴代皇帝が肖像つきで並びます。

    この地図について

    董卓が長安へ都を移し、東の州郡が兵を挙げた190年から、晋が呉を滅ぼして中国をまとめる280年まで、その年の暮れにどの城を誰が押さえていたかを史書から拾い、そこから勢力の範囲を描いた地図です。年を動かすと境界が動きます。城の点を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。

    220年までは、皇帝はずっと後漢の献帝ひとりでした。この地図では、献帝を擁した朝廷の直轄(190〜195年の長安のまわり)を「後漢」、献帝を許に迎えた196年からの曹操の領域を「曹操」として描き、その下に献帝の名前を出しています。曹操・劉備・孫策と孫権の領域は、のちの魏・蜀・呉と同じ色です。

    色の濃い帯が勢力どうしの境です。色がかすれて消えていく所は、城の支配が届いていたと言えない土地(遊牧の地・山地など)で、境を引いていません。朱の四角はその年の本拠です。年のつまみの下の帯は、上から北(後漢の朝廷・魏・西晋)・劉備と蜀・孫氏と呉の3段で、押すとその最初の年へ移ります。群雄は帯に出していません。

    国名の下には、その年の暮れに在位していた皇帝の名前を出しています。劉備は221年、孫権は229年に皇帝を名乗ったので、それより前の年は名前が出ません。袁術は197年に皇帝を名乗り、199年に死にました。「暮れ」は当時の暦の大晦日で、たとえば魏の元帝が位を譲った咸熙二年十二月は、今の暦では266年の2月ですが、265年の暮れに入ります。

    この地図の作り方

    史書から、主な城138か所について「その年の暮れに誰の刺史・太守・守将がいたか」を年ごとに拾い、持ち主が変わった年ごとに根拠の原文を付けました。根拠は資治通鑑を主に、三国志・後漢書・晋書で裏を取りました(引用は合わせて1,063件。すべて原文の該当行に文字どおりあることと、資治通鑑の引用はその年の見出しの下にあることを機械で照合済み)。包囲や、その年のうちに退いた一時的な占領(228年に諸葛亮に降ってすぐ魏に戻った天水・南安・安定など)では持ち主を変えていません。誰の城とも言えない年(董卓が焼いた後の洛陽、住民を移して空けた江北の城など)は、どの色でも塗っていません。

    群雄の時代は、州の長官(州牧・刺史)が州を握っている所はその州の城をまとめてその人の勢力とし、郡の太守が州から離れて独自に動いたときだけ太守の名前で描きました。小さな勢力(陶謙・張楊・張繍・劉繇・馬騰・韓遂・士燮など)は灰色で、名前は地図の上に出しています。

    境界は、その城の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい城の勢力に塗り分けました。どの城からも遠い土地(草原・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。

    同じ勢力の城どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの勢力の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました。また、四方を勢力の土地と海に囲まれた空白と、秦嶺より南の山地(今の貴州・湘西など)で勢力の土地に深く入り込んだ空白は、最も近い勢力の色で塗りました。ただし、誰の城とも言えない城のまわりは、隣の勢力の手が届く所でも空白のまま残しました。まわりをほかの勢力の土地に囲まれた城(飛び地)は、その城を中心にした半径約36kmの丸で描きました。郡県はその内側にも置かれていましたが、地図の城の点が無いため、支配の実態は城の周りより薄いものです。

    当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。

    確かでないところ

    • 190〜196年の群雄の時代は、城ごとの持ち主を名指す記事が少なく、州の長官や、州をめぐって争った群雄から推したところが多くあります(豫州・青州・揚州の江南・交州など)。とくに交州は190〜209年の刺史・太守の交替の年がほとんど分からず、年の確かな2つの記事(201年の張津・208年の呉巨)を区切りにしています。
    • 遠い土地で、実際に治めていたか疑わしいのに名目上だけ従っていた所は、従っていた側の色で塗りました(城の点を押すと「名目上」と出ます)。揚州刺史陳温の州の江南(190〜191年)、涼州と河西(190〜195年は後漢の朝廷、196年からは曹操。実際には馬騰・韓遂や土地の豪族が力を持っていました)、210年からの交州の士燮(孫権)などです。
    • 191年の冬、公孫瓚が冀州に攻め込むと「冀州の諸城の多くが袁紹に背いて公孫瓚に従った」と資治通鑑にありますが、どの城かは書かれていないので、冀州の城は袁紹のままにしています。豫州刺史の孔伷は190年より後の記事が無く、191〜195年の魯国・沛の持ち主は確かめられていません。
    • 城そのものを名指す記事が無く推して置いた変化が3つあります(城の点を押すと「推定」と出ます)。曹操が睢陽・魯陽を押さえた196年と、廬江北部の安豊を曹操の名目下とした200年です。また、呂布の部将張遼が魯相を領した年(196年に置いた)と、蜀が越巂郡を失った年(226年に置いた)は、出来事の記事はあっても年が書かれていません。益州郡の雍闓の自立は、資治通鑑に従って223年にしていますが、実際には220〜222年のどこかに始まっていた形跡があります。
    • 史書の間で年が食い違うところは、資治通鑑の年に従いました。馬超が冀城を失ったのは通鑑では213年、三国志の武帝紀では214年正月です。張魯が劉璋から離れた年は通鑑・後漢書に従って200年にし、それまでの漢中は劉焉・劉璋の側としています。隴上の郡県が馬超に応じたのは、曹操が鄴へ帰った212年正月の後で冀城の包囲が始まる213年正月より前なので、212年の暮れから馬超の側にしています。関羽の死後に曹仁が襄陽を焼いて捨て、孫権の将の陳邵が一時入った件は、年を越したかが分からないので描いていません。
    • 263年に劉禅が降ったあとも、南中の霍弋と永安(白帝)の羅憲はその年の暮れにはまだ魏に降っていなかったので、263年の地図ではその城だけ灰色で残ります。
    • 城の点は今の市・県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。比定は胡三省の注によります。益州郡(のちの建寧郡)の治所は、225年に味県に移る前は滇池でしたが、点は味県(今の曲靖市)に置いています。雁門郡の陰館は、点を置いた今の代県より北西にありました。
    • 北の辺境(雲中・雁門・柳城など)と、南中(今の雲南・貴州)・交州(今のベトナム北部)は、実際の支配がどこまで及んだか史書からは決めにくいところです。
    • 海岸線と大半の川は現代のものです。黄河の下流(後漢以来の流路)・淮河の下流(洪沢湖ができる前)・泗水・洛水だけは、当時の通過地点を結んだ概略線で描き直しました。
    • 魏・蜀・呉・西晋はサイトの王朝の色、群雄はこの地図だけの色です。色の数が足りないので、同じ時期に離れた所にいる勢力どうしは同じ色のことがあります(公孫瓚と劉表、呂布と張魯、劉璋と遼東の公孫氏。名前で見分けてください)。曹操と魏、劉備と蜀、孫策・孫権と呉、劉焉と劉璋、袁紹とその子の袁譚・袁尚は、同じ家なので同じ色です。

    出典とライセンス

    • 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)
    • 海岸線・川・湖: Natural Earth(パブリックドメイン)
    • 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)