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五胡十六国(ごこじゅうろっこく)の勢力図

300〜439年・この地図について

地図を読み込んでいます…

300年

再生の速さ

    この年の動き

    地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。

    この地図について

    西晋(せいしん)がまだ中国(ちゅうごく)をまとめていた300年から、北魏(ほくぎ)が華北を統一する439年まで、その年の暮れにどの城をどの国が押さえていたかを史書から拾い、そこから勢力の範囲を描いた地図です。年を動かすと境界が動きます。城の点を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。南北朝(なんほくちょう)の勢力図とは420〜439年が重なっています。

    色の濃い帯が国どうしの境です。色がかすれて消えていく所は、城の支配が届いていたと言えない土地(遊牧の地・山地など)で、境を引いていません。朱の四角はその年の都です。年のつまみの下の帯は、上の段が華北の主な国(2つの国が並び立った時期は上が東、下が西)、下の段が晋と宋で、押すとその国の最初の年へ移ります。河西(かせい)・遼西(りょうせい)・蜀の国々は帯に出していません。

    国名の下には、その年の暮れに在位していた皇帝の名前を出しています。皇帝を名乗らず「王」や「天王」を称した君主の年(後趙(こうちょう)の石虎(せきこ)・前秦(ぜんしん)の苻堅(ふけん)・後秦(こうしん)の姚興(ようこう)の399年以後・北魏(ほくぎ)の398年までなど)や、皇帝を名乗らなかった国(前涼(ぜんりょう)の大半・西秦(せいしん)・後涼・南涼・北涼(ほくりょう)・西涼(せいりょう)・北燕・代)は、名前が出ません。

    この地図の作り方

    史書から、主な城119か所について「その年の暮れにどの国の刺史(しし)・太守(たいしゅ)・守将がいたか」を年ごとに拾い、持ち主が変わった年ごとに根拠の原文を付けました。根拠は資治通鑑(しじつがん)を主に、晋書(しんじょ)(十六国(りっこく)の記録である載記(さいき)を含む)・魏書(ぎしょ)・宋書(そうじょ)で裏を取りました(引用は合わせて1,208件。すべて原文の該当行に文字どおりあることと、資治通鑑(しじつがん)の引用はその年の見出しの下にあることを機械で照合済み)。包囲や、その年のうちに退いた一時的な占領では持ち主を変えていません。誰の城とも言えない年(荒れ果てた洛陽(らくよう)など)は、どの国の色でも塗っていません。

    境界は、その城の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい城の国に塗り分けました。どの城からも遠い土地(草原・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。

    同じ国の城どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの国の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました。また、四方を国の土地と海に囲まれた空白と、秦嶺より南の山地(今の貴州(きしゅう)・湘西など)で国の土地に深く入り込んだ空白は、最も近い国の色で塗りました。郡県(ぐんけん)はその内側にも置かれていましたが、地図の城の点が無いため、支配の実態は城の周りより薄いものです。

    当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。

    確かでないところ

    • この時代は城の持ち主を名指す記事が少なく、持ち主が変わった年のうち62件は、その城そのものの記事が無く、周りの城や国全体の記事から推したものです(城の点を押すと「推定」と出ます)。とくに後趙(こうちょう)が崩れた349〜352年、前秦(ぜんしん)が崩れた384〜394年の河南(かなん)・河北(かほく)・関中(かんちゅう)は推定が多くなっています。
    • 前燕(ぜんえん)の滅亡(370年)で燕の州郡がすべて前秦(ぜんしん)に降ったこと、桓玄(かんげん)が帝位に即いて晋の内地が桓楚になったこと(403年)と、桓楚が倒れて晋の朝廷が建康(けんこう)に戻ったこと(404年)は、国の交替と同じく、個々の城の記事が無くてもまとめて持ち主を移しました。蜀(益州(えきしゅう))の毛璩(きょ)が桓玄(かんげん)に背いたのは404年の初めなので、403年の暮れは蜀も桓楚としています。
    • 城の点は今の市・県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。比定は胡(こ)三省(さんせい)の注によります。広固(こうこ)(南燕(なんえん)の都)は今の青州(せいしゅう)市の西の郊外で、点は青州(せいしゅう)市に置いています。
    • 拓跋(たくばつ)氏の代・北魏(ほくぎ)の草原の地、河西(かせい)の西の端(敦煌より西の高昌は地図の外)、寧州(ねいしゅう)(今の雲南(うんなん))・交州(こうしゅう)(今のベトナム北部)など辺境は、実際の支配がどこまで及んだか史書からは決めにくいところです。
    • 西秦(せいしん)は430年に本拠の枹罕(ふかん)一帯を捨てて南安(なんあん)(地図に城の点がありません)へ移ったので、滅ぶ431年より1年早く地図から消えます。北涼(ほくりょう)は439年に姑臧(こぞう)で北魏(ほくぎ)に降りましたが、残党が敦煌を保ったので、その年の暮れの地図には敦煌だけが北涼(ほくりょう)として残ります。
    • 海岸線と大半の川は現代のものです。黄河(こうが)の下流(後漢(ごかん)以来の流路)・淮河の下流(洪沢湖ができる前)・泗水・洛水(らくすい)だけは、当時の通過地点を結んだ概略線で描き直しました。
    • サイトの王朝色に無い国(冉魏・前涼(ぜんりょう)・西秦(せいしん)・後涼・南涼・北涼(ほくりょう)・西涼(せいりょう)・北燕・代・桓楚)には、この地図だけの色を付けました。南燕(なんえん)はサイトでは北魏(ほくぎ)と同じ青で、隣り合う北魏(ほくぎ)と見分けられないため、この地図では桃にしています。色の数が足りないので、同じ時期に離れた所にある国どうしは同じ色のことがあります(国名で見分けてください)。西晋(せいしん)と東晋(とうしん)、漢と前趙(ぜんちょう)は国名が変わっただけなので同じ色です。

    出典とライセンス

    • 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)
    • 海岸線・川・湖: Natural Earth(パブリックドメイン)
    • 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)
    • 照合に使った別の地図データ: Seshat Global History Databank「Cliopatria」(CC BY 4.0)。年代の刻みが粗く、この地図には取り込んでいません。