三国の勢力図
190–280年・この地図について

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190年
節目の年: 反董卓の挙兵
この年の動き
地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。地図は2本指か+で拡大でき、拡大すると小さな城も出ます。
この時代の流れ
群雄割拠190–199年
190年反董卓の挙兵後漢、陳温、劉焉、劉表、韓馥、朱符
勢力と皇帝
- 後漢 本拠は長安、洛陽・
陳倉・ 上邽など地図の城19か所。皇帝は献帝(劉協)。 - 陳温 建業・
呉・ 寿春など地図の城18か所。 - 劉焉 南鄭・
成都・ 閬中など地図の城17か所。 - 劉表 本拠は襄陽、武昌・
江陵・ 臨湘など地図の城15か所。 - 韓馥 鄴・
易京など地図の城9か所。 - 朱符 龍編・
番禺など地図の城7か所。 - ほかに 劉岱、孔伷、劉虞、陶謙、袁紹、袁術、陸康、公孫氏、韓遂、王匡、張超、宋建、上党太守、楊原、張邈、劉寵、孔融、烏桓
- 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 後漢 本拠は長安、洛陽・
華北統一200–207年
天下三分208–219年

214年劉備が益州を取る曹操、孫権、劉備、張魯、韓遂、公孫氏
勢力と皇帝
- 曹操 本拠は鄴、長安・
洛陽・ 許など地図の城79か所。皇帝は献帝(劉協)。 - 孫権 本拠は建業、呉・
武昌・ 山陰など地図の城27か所。 - 劉備 本拠は成都、江陵・
臨湘・ 閬中など地図の城22か所。 - 張魯 本拠は南鄭、地図の城3か所。
- 韓遂 地図の城2か所。
- 公孫氏 本拠は襄平、地図の城2か所。
- 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 曹操 本拠は鄴、長安・
219年関羽が荊州を失う曹操、孫権、劉備、公孫氏、麹演、顔俊
勢力と皇帝
- 曹操 本拠は鄴、長安・
洛陽・ 許など地図の城75か所。皇帝は献帝(劉協)。 - 孫権 建業・
呉・ 武昌など地図の城36か所。 - 劉備 本拠は成都、南鄭・
閬中・ 魚復など地図の城17か所。 - 公孫氏 本拠は襄平、地図の城2か所。
- 麹演 地図の城1か所。
- 顔俊 地図の城は姑臧の1か所。
- ほかに 和鸞、黄華
- 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 曹操 本拠は鄴、長安・
三国鼎立220–262年
229年三国の皇帝が並ぶ魏、呉、蜀、鮮卑、公孫氏
勢力と皇帝
- 魏 本拠は洛陽、長安・
鄴・ 許など地図の城80か所。皇帝は明帝(曹叡)。 - 呉 本拠は建業、呉・
武昌・ 山陰など地図の城36か所。皇帝は大帝(孫権)。 - 蜀 本拠は成都、南鄭・
閬中・ 魚復など地図の城15か所。皇帝は劉禅。 - 鮮卑 地図の城2か所。
- 公孫氏 本拠は襄平、地図の城2か所。
- 229年に皇帝の位にあった人の一覧
- 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 魏 本拠は洛陽、長安・
晋の統一263–280年
263年魏が蜀を滅ぼす魏、呉、霍弋、鮮卑、羅憲
280年晋が呉を滅ぼし統一西晋、鮮卑
勢力と皇帝
- 西晋 本拠は洛陽、長安・
鄴・ 許など地図の城136か所。皇帝は武帝(司馬炎)。 - 鮮卑 地図の城2か所。
- 280年に皇帝の位にあった人の一覧
- 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 西晋 本拠は洛陽、長安・
三国・後漢の皇帝と王朝
王朝を押すと、その王朝の歴代皇帝が肖像つきで並びます。
この地図について
三国志の時代のうち、董卓が長安へ都を移し、東の州郡が兵を挙げた190年から、晋が呉を滅ぼして中国をまとめる280年まで、その年の暮れにどの城を誰が押さえていたかを史書から拾い、そこから勢力の範囲を描いた地図です。年を動かすと境界が動きます。城の点を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。
220年まで、後漢の皇帝はずっと献帝でした。この地図では、献帝を擁した朝廷の直轄(190〜195年の長安のまわり)を「後漢」、献帝を許に迎えた196年からの曹操の領域を「曹操」として描き、その下に献帝の名前を出しています。曹操・
色の濃い帯が勢力どうしの境です。色がかすれて消えていく所は、城の支配が届いていたと言えない土地(遊牧の地・
国名の下には、その年の暮れに在位していた皇帝の名前を出しています。劉備は221年、孫権は229年に皇帝を名乗ったので、それより前の年は名前が出ません。袁術は197年に皇帝を名乗り、199年に死にました。「暮れ」は当時の暦の大晦日で、たとえば魏の元帝が位を譲った咸熙二年十二月は、今の暦では266年の2月ですが、265年の暮れに入ります。
この地図の作り方
史書から、主な城139か所について「その年の暮れに誰の刺史・
群雄の時代は、州の長官(州牧・
境界は、その城の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい城の勢力に塗り分けました。どの城からも遠い土地(草原・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。
同じ勢力の城どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの勢力の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました。また、四方を勢力の土地と海に囲まれた空白と、秦嶺より南の山地(今の貴州・
当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。
確かでないところ
- 190〜196年の群雄の時代は、城ごとの持ち主を名指す記事が少なく、州の長官や、州をめぐって争った群雄から推したところが多くあります(豫州・
青州・ 揚州の江南・ 交州など)。とくに交州は190〜209年の刺史・ 太守の交替の年がほとんど分からず、年の確かな2つの記事(201年の張津・ 208年の呉巨)を区切りにしています。 - 遠い土地で、実際に治めていたか疑わしいのに名目上だけ従っていた所は、従っていた側の色で塗りました(城の点を押すと「名目上」と出ます)。揚州刺史陳温の州の江南(190〜191年)、涼州と河西(190〜195年は後漢の朝廷、196年からは曹操。実際には馬騰・
韓遂や土地の豪族が力を持っていました)、210年からの交州の士燮(孫権)などです。 - 191年の冬、公孫瓚が冀州に攻め込むと「冀州の諸城の多くが袁紹に背いて公孫瓚に従った」と資治通鑑にありますが、どの城かは書かれていないので、冀州の城は袁紹のままにしています。豫州刺史の孔伷は190年より後の記事が無く、191〜195年の魯国・
沛の持ち主は確かめられていません。 - 城そのものを名指す記事が無く推して置いた変化が3つあります(城の点を押すと「推定」と出ます)。曹操が睢陽・
魯陽を押さえた196年と、廬江北部の安豊を曹操の名目下とした200年です。また、呂布の部将張遼が魯相を領した年(196年に置いた)と、蜀が越巂郡を失った年(226年に置いた)は、出来事の記事はあっても年が書かれていません。益州郡の雍闓の自立は、資治通鑑に従って223年にしていますが、実際には220〜222年のどこかに始まっていた形跡があります。 - 史書の間で年が食い違うところは、資治通鑑の年に従いました。馬超が冀城を失ったのは通鑑では213年、三国志の武帝紀では214年正月です。張魯が劉璋から離れた年は通鑑・
後漢書に従って200年にし、それまでの漢中は劉焉・ 劉璋の側としています。隴上の郡県が馬超に応じたのは、曹操が鄴へ帰った212年正月の後で冀城の包囲が始まる213年正月より前なので、212年の暮れから馬超の側にしています。関羽の死後に曹仁が襄陽を焼いて捨て、孫権の将の陳邵が一時入った件は、年を越したかが分からないので描いていません。 - 263年に劉禅が降ったあとも、南中の霍弋と永安(白帝)の羅憲はその年の暮れにはまだ魏に降っていなかったので、263年の地図ではその城だけ灰色で残ります。
- 城の点は今の市・
県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。比定は胡三省の注によります。益州郡(のちの建寧郡)の治所は、225年に味県に移る前は滇池でしたが、点は味県(今の曲靖市)に置いています。雁門郡の陰館は、点を置いた今の代県より北西にありました。 - 北の辺境(雲中・
雁門・ 柳城など)と、南中(今の雲南・ 貴州)・ 交州(今のベトナム北部)は、実際の支配がどこまで及んだか史書からは決めにくいところです。 - 海岸線と大半の川は現代のものです。黄河の下流(後漢以来の流路)・
淮河の下流(洪沢湖ができる前)・ 泗水・ 洛水だけは、当時の通過地点を結んだ概略線で描き直しました。 - 魏・
蜀・ 呉・ 西晋はサイトの王朝の色、群雄はこの地図だけの色です。色の数が足りないので、同じ時期に離れた所にいる勢力どうしは同じ色のことがあります(公孫瓚と劉表、呂布と張魯、劉璋と遼東の公孫氏。名前で見分けてください)。曹操と魏、劉備と蜀、孫策・ 孫権と呉、劉焉と劉璋、袁紹とその子の袁譚・ 袁尚は、同じ家なので同じ色です。
出典とライセンス
- 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)
- 海岸線・川・湖: Natural Earth(パブリックドメイン)
- 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)
