元末の勢力図
1351〜1387年・この地図について
地図を読み込んでいます…
1351年
この年の動き
地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。
この地図について
劉福通・
描いたのは、元(1370年からは北元)と明(1367年までは朱元璋)に加えて、城を持った群雄すべてです。劉福通の紅巾と韓林児の宋・
元に属したまま地方を握った将(察罕帖木児・
色の濃い帯が勢力どうしの境です。色がかすれて消えていく所は、城の支配が届いていたと言えない土地(草原・
国名の下には、その年の暮れに在位していた皇帝の名前を出しています。張士誠・
年は中国の暦の年です。十二月の出来事はその年に入り、今の暦では翌年の1月〜2月にあたることがあります(韓林児が死んだ至正二十六年十二月は、今の暦の1367年1月です)。
この地図の作り方
史書から、主な城173か所について「その年の暮れに誰が城を押さえていたか」を年ごとに拾い、持ち主が変わった年ごとに根拠の原文を付けました。資治通鑑はこの時代を扱わないので、根拠は続資治通鑑(1368年の大都の陥落まで)を主に、元史・
元の路・
境界は、その城の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい城の勢力に塗り分けました。どの城からも遠い土地(草原・砂漠・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。
同じ勢力の城どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの勢力の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました。また、四方を勢力の土地と海に囲まれた空白と、秦嶺より南の山地で勢力の土地に深く入り込んだ空白は、最も近い勢力の色で塗りました。まわりをほかの勢力の土地に囲まれた城(飛び地)は、その城を中心にした半径約36kmの丸で描きました。
当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。
確かでないところ
- 明玉珍が嘉定と成都など四川の城を取った年は、続資治通鑑・
元史が1361年とするのに対し、新元史と明史の明玉珍伝に合わせて1359年にしました(1361年は朝廷に知らせが届いた年と読みました)。ほかの城は、書物で年が食い違えば続資治通鑑の年に従っています。 - 1363年に漢に落ちた饒州が朱元璋に戻った年、1361年に朱元璋に降った蘄州を漢が取り返した年、池州の1356年の持ち主、広州に何真が入った年は、原文から決めきれていません。
- 明が北へ兵を出した後の長城の外(応昌・
興和・ 甘州)は、明が城を取った年は分かっても、守り続けたか、北元がいつ戻ったかを書いた記事がほとんどありません。甘州は1372年に元の将が降りましたが、明の軍はすぐ引き上げたので「名目上」にしています。 - 引用の無い推定の変化が5件あります(蘄水1357年・
沔陽1353年・ 襄陽1364年・ 商州1369年・ 綏徳1369年)。城の点を押すと「推定」と出ます。 - 城の点は今の市・
県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。雲南・ 貴州・ 嶺南の奥は城の数が少なく、群雄の支配がどこまで及んだかは史書からは決めにくいところです。 - 海岸線と大半の川は現代のものです。黄河は1351年の賈魯の治水の後の流路(開封から徐州を経て淮河へ注ぐ南の流れ)で描いています。
- 元・
北元と明はサイトの王朝の色、ほかはこの地図だけの色です。劉福通の紅巾と宋、天完と漢、明玉珍と夏は同じ系統なので同じ色です。
出典とライセンス
- 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)。続資治通鑑・
元史・ 明史・ 新元史 - 海岸線・川・湖: Natural Earth(パブリックドメイン)
- 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)









