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宋・遼・金・西夏の勢力図

960〜1279年・この地図について

地図を読み込んでいます…

960年

再生の速さ

    この年の動き

    地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。

    宋・遼・西夏・金・元の皇帝と王朝

    宋の時代に皇帝を名乗ったのは18人、遼・西夏・金の時代に皇帝を名乗ったのは34人、元の時代に皇帝を名乗ったのは18人です。王朝を押すと、その王朝の歴代皇帝が肖像つきで並びます。

    この地図について

    趙匡胤が宋を建てた960年から、崖山の戦いで南宋が滅ぶ1279年まで、その年の暮れにどの城を誰が押さえていたかを史書から拾い、そこから勢力の範囲を描いた地図です。年を動かすと境界が動きます。城の点を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。

    描いたのは、宋(北宋・南宋)・遼・金・西夏・モンゴル(1271年からは元)に加えて、城を持っていた国と勢力です。雲南の大理、青唐の唃厮囉、金が立てた劉豫の斉(偽斉)、金末に遼東で自立した蒲鮮万奴の東夏などを色で描き、宋と金が入れ替わる頃の群雄(李成・孔彦舟・桑仲など)や、金末の山東・淮北の李全のように一時城を握った勢力は、灰色で名前だけ出しています。西遼・高昌回鶻などは地図の外にあるので、名前だけを地図の端に置きました。

    色の濃い帯が勢力どうしの境です。色がかすれて消えていく所は、城の支配が届いていたと言えない土地(遊牧の地・山地など)で、境を引いていません。朱の四角はその年の都です。年のつまみの下の帯は、上から宋・北の王朝(遼・金・モンゴル・元)・夏州の李氏(定難軍・西夏)の3段で、押すとその最初の年へ移ります。

    国名の下には、その年の暮れに在位していた皇帝の名前を出しています。モンゴルは世祖クビライ(1260年に即位)からで、チンギス・カンからモンケまでの君主は皇帝の一覧にないので名前が出ません。「暮れ」は当時の暦の大晦日で、たとえば徽宗が欽宗に位を譲った宣和七年十二月は、今の暦では1126年の1月ですが、1125年の暮れに入ります。

    960〜979年は五代十国の勢力図と重なります。この20年は、2枚の地図で同じ城・同じ持ち主・同じ色になるように、五代十国の地図の調べ(十国の州を一つずつ拾ったもの)をそのまま使いました。この地図だけにある城は980年から出ます(五代十国の地図だけにある城が39か所あるので、地図全体の城は280か所です)。

    この地図の作り方

    史書から、主な城241か所について「その年の暮れに誰の知州・守将がいたか」を年ごとに拾い、持ち主が変わった年ごとに根拠の原文を付けました。根拠は続資治通鑑を主に、宋の前半は続資治通鑑長編、宋と金の戦いの頃は建炎以来繋年要録、宋史・遼史・金史・元史で裏を取りました(980年からの引用は合わせて1,281件。すべて原文の該当行に文字どおりあることと、続資治通鑑の引用はその年の見出しの下にあることを機械で照合済み)。調べた後、15の地域ごとに別の点検役が全行を原文に当て直し、誤りと抜けを74か所直しました。包囲や、その年のうちに退いた一時的な占領では持ち主を変えていません。

    王朝が替わった年(1127年の北宋から南宋・1137年に斉が廃されて金が直接治める・1271年のモンゴルの国号を元とする)は、前の年の暮れにその王朝の城だった所をまとめて次の王朝の城にしています(その年に城ごとの記事はなくても交替の行を立てています)。夏州の李氏は、李元昊が帝を称した1038年より前を定難軍(灰色)、1038年から西夏としました。

    境界は、その城の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい城の勢力に塗り分けました。どの城からも遠い土地(草原・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。誰の城とも言えない(荒れて捨てられた)城のまわりも塗っていません。

    同じ勢力の城どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの勢力の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました。また、四方を勢力の土地と海に囲まれた空白と、秦嶺より南の山地で勢力の土地に深く入り込んだ空白は、最も近い勢力の色で塗りました。まわりをほかの勢力の土地に囲まれた城(飛び地)は、その城を中心にした半径約36kmの丸で描きました。

    当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。

    確かでないところ

    • 持ち主が変わったことを直接書いた原文が見つからない変化が7つあり、前後の記事から年を推しています(城の点を押すと「推定」と出ます)。霸州が最後にモンゴルに入った年(1220年)、金が去った後に泗州が宋に戻った年(1135年)、斉に落ちた随州が宋に戻った年(1139年)、金が錦州を取り戻した年(1217年)、東夏が会寧府(金の上京)を得た年(1219年)、長安が落ちた年に華州も金に入ったとした年(1129年)、金州が元に降った年(1279年)です。
    • 史書の間で年が食い違うところは、続資治通鑑の年に従いました。たとえば府州の折可求が金に降った年は、続資治通鑑では1128年、金史では1129年です。続資治通鑑に記事がない変化は、宋史・金史・元史の年によっています。
    • 襄陽は1239年に宋が取り返した後、1251年に「積年委棄、一旦收復(何年も捨て置かれていたのを取り返した)」と報じられるまで、実際には放棄されていた時期があります。捨てた年が原文で決まらないので、1239年から宋の城のまま描いています。光州もモンゴルに一度破られています(1237年)が、宋が取り返した年が分からないので、宋の城のままです。
    • 金末(1211〜1234年)の華北は、金・モンゴル・宋に付いた勢力が城ごとに入れ替わり、同じ年に何度も持ち主が変わった城があります。年の暮れの持ち主が確かめられない城は、確かめられる最も早い年に置いています。モンゴルに降った漢人の世侯(張柔・厳実・史天沢など)の城はモンゴルの色、宋の鎮撫使に任じられた者の城は宋の色です。
    • 遠い土地で、実際に治めていたか疑わしいのに名目上だけ従っていた所は、従っていた側の色で塗りました(城の点を押すと「名目上」と出ます)。河西の甘州・沙州は、西夏に取られるまで土地の勢力(甘州回鶻・帰義軍)が持っていたので、灰色で描いています。
    • 城の点は今の市・県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。点を置いたのは主な城241か所で、置いていない州もあります。高麗は開京と西京の2つの点だけで描いています。
    • 海岸線と大半の川は現代のものです。黄河の下流・淮河の下流(洪沢湖ができる前)・泗水・洛水だけは、当時の通過地点を結んだ概略線で描き直しました。黄河の下流は後漢から1048年まで続いた流路で描いていて、1048年に北へ、1128年に南へ流れを変えた後の流路は描いていません。
    • 宋・遼・金・西夏・元はサイトの王朝の色、ほかはこの地図だけの色です。色の数が足りないので、年が重ならない国や離れた国どうしは同じ色のことがあります(遼・モンゴル・元と呉越の青、金と南漢の紫、斉と南唐の金、東夏と北漢の赤、大理の桃、青唐と後蜀の橙。名前で見分けてください)。定難軍と小さな勢力は灰色です。

    出典とライセンス

    • 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)。続資治通鑑・続資治通鑑長編・建炎以来繋年要録・宋史・遼史・金史・元史。960〜979年は五代十国の勢力図と同じく資治通鑑・旧五代史・新五代史・十国春秋も
    • 海岸線・川・湖: Natural Earth(パブリックドメイン)
    • 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)