元末の勢力図
1351–1387年・この地図について

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1351年
節目の年: 紅巾の乱
この年の動き
地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。地図は2本指か+で拡大でき、拡大すると小さな城も出ます。
この時代の流れ
紅巾の乱1351–1355年

1355年韓林児が宋を建てる元、元・
梁王、天完、宋、朱元璋、張士誠
群雄の争い1356–1367年
1356年朱元璋が集慶を取る元、天完、張士誠、朱元璋、元・
梁王、方国珍
1360年陳友諒が漢を建てる元、漢、朱元璋、元・
察罕帖木児、宋、張士誠 勢力と皇帝
- 元 本拠は大都、上都・
応昌・ 広州など地図の城69か所。皇帝は恵宗(トゴン・テムル)。 - 漢 本拠は江州、武昌・
蘄州・ 襄陽など地図の城20か所。皇帝は陳友諒。 - 朱元璋 本拠は応天、揚州など地図の城20か所。
- 元・
察罕帖木児 汴梁・ 潁州・ 亳州など地図の城13か所。 - 宋 本拠は安豊、遼陽・
済南・ 益都など地図の城12か所。皇帝は韓林児。 - 張士誠 本拠は平江、濠州・
高郵・ 徐州など地図の城11か所。 - ほかに 明玉珍、元・
梁王、方国珍、左君弼、趙均用、元・ 何真、元・ 孛羅帖木児、紅巾の残党、元・ 李思斉、元・ 播州楊氏、元・ 順元の土官、元・ 烏撒の土官、元・ 大理段氏、亦思巴奚 - 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 元 本拠は大都、上都・
1363年鄱陽湖の戦い元、朱元璋、元・
拡廓帖木児、張士誠、漢、夏 勢力と皇帝
- 元 本拠は大都、上都・
応昌・ 遼陽など地図の城58か所。皇帝は恵宗(トゴン・テムル)。 - 朱元璋 本拠は応天、蘄州・
江州・ 揚州など地図の城26か所。 - 元・
拡廓帖木児 汴梁・ 潁州・ 亳州など地図の城24か所。 - 張士誠 本拠は平江、濠州・
高郵・ 徐州など地図の城13か所。 - 漢 本拠は武昌、襄陽・
中興・ 天臨など地図の城13か所。皇帝は陳理。 - 夏 本拠は重慶、成都など地図の城10か所。皇帝は明玉珍。
- ほかに 元・
梁王、元・ 也児吉尼、元・ 孛羅帖木児、方国珍、元・ 何真、元・ 竹貞、左君弼、元・ 李思斉、夏・ 播州楊氏、元・ 順元の土官、元・ 烏撒の土官、元・ 大理段氏、亦思巴奚、元・ 陳友定 - 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 元 本拠は大都、上都・
1367年張士誠が滅ぶ朱元璋、元、元・
拡廓帖木児、夏、元・ 梁王、元・ 陳友定
明の統一1368–1387年
1368年明の建国・元が大都を去る 明、元、夏、元・
梁王、元・ 李思斉、元・ 納哈出 勢力と皇帝
- 明 本拠は応天、汴梁・
潁州・ 濠州など地図の城121か所。皇帝は洪武帝(朱元璋)。 - 元 本拠は上都、応昌・
開元・ 甘州など地図の城23か所。皇帝は恵宗(トゴン・テムル)。 - 夏 本拠は重慶、成都など地図の城11か所。皇帝は明昇。
- 元・
梁王 中慶など地図の城6か所。 - 元・李思斉 奉元・
鳳翔など地図の城4か所。 - 元・納哈出 地図の城は遼陽・
金山の2か所。 - ほかに 元・
沙藍答里、元・ 脱列伯、夏・ 播州楊氏、元・ 順元の土官、元・ 烏撒の土官、元・ 大理段氏 - 1368年に皇帝の位にあった人の一覧
- 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 明 本拠は応天、汴梁・
1371年夏が明に降る明、北元、北元・
梁王、北元・ 高家奴、北元・ 哈剌章、北元・ 也先不花
1382年明が雲南を平定明、北元、北元・
哈剌章、北元・ 也先不花、北元・ 納哈出、明・ 播州楊氏 勢力と皇帝
- 明 本拠は応天、汴梁・
潁州・ 濠州など地図の城164か所。皇帝は洪武帝(朱元璋)。 - 北元 応昌など地図の城5か所。
- 北元・
哈剌章 地図の城1か所。 - 北元・
也先不花 地図の城は開元の1か所。 - 北元・
納哈出 地図の城は金山の1か所。 - 明・
播州楊氏 地図の城1か所。 - 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 明 本拠は応天、汴梁・
1387年納哈出が明に降る明、北元、明・
播州楊氏 勢力と皇帝
- 明 本拠は応天、汴梁・
潁州・ 濠州など地図の城168か所。皇帝は洪武帝(朱元璋)。 - 北元 応昌など地図の城4か所。
- 明・
播州楊氏 地図の城1か所。 - 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 明 本拠は応天、汴梁・
元・北元・明・南明の皇帝と王朝
王朝を押すと、その王朝の歴代皇帝が肖像つきで並びます。
この地図について
劉福通・
描いたのは、元(1370年からは北元)と明(1367年までは朱元璋)に加えて、城を持った群雄すべてです。劉福通の紅巾と韓林児の宋・
元に属したまま地方を握った将(察罕帖木児・
色の濃い帯が勢力どうしの境です。色がかすれて消えていく所は、城の支配が届いていたと言えない土地(草原・
国名の下には、その年の暮れに在位していた皇帝の名前を出しています。張士誠・
年は中国の暦の年です。十二月の出来事はその年に入り、今の暦では翌年の1月〜2月にあたることがあります(韓林児が死んだ至正二十六年十二月は、今の暦の1367年1月です)。
この地図の作り方
史書から、主な城173か所について「その年の暮れに誰が城を押さえていたか」を年ごとに拾い、持ち主が変わった年ごとに根拠の原文を付けました。資治通鑑はこの時代を扱わないので、根拠は続資治通鑑(1368年の大都の陥落まで)を主に、元史・
元の路・
境界は、その城の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい城の勢力に塗り分けました。どの城からも遠い土地(草原・砂漠・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。
同じ勢力の城どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの勢力の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました。また、四方を勢力の土地と海に囲まれた空白と、秦嶺より南の山地で勢力の土地に深く入り込んだ空白は、最も近い勢力の色で塗りました。まわりをほかの勢力の土地に囲まれた城(飛び地)は、その城を中心にした半径約36kmの丸で描きました。
当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。
確かでないところ
- 明玉珍が嘉定と成都など四川の城を取った年は、続資治通鑑・
元史が1361年とするのに対し、新元史と明史の明玉珍伝に合わせて1359年にしました(1361年は朝廷に知らせが届いた年と読みました)。ほかの城は、書物で年が食い違えば続資治通鑑の年に従っています。 - 1363年に漢に落ちた饒州が朱元璋に戻った年、1361年に朱元璋に降った蘄州を漢が取り返した年、池州の1356年の持ち主、広州に何真が入った年は、原文から決めきれていません。
- 明が北へ兵を出した後の長城の外(応昌・
興和・ 甘州)は、明が城を取った年は分かっても、守り続けたか、北元がいつ戻ったかを書いた記事がほとんどありません。甘州は1372年に元の将が降りましたが、明の軍はすぐ引き上げたので「名目上」にしています。 - 引用の無い推定の変化が5件あります(蘄水1357年・
沔陽1353年・ 襄陽1364年・ 商州1369年・ 綏徳1369年)。城の点を押すと「推定」と出ます。 - 城の点は今の市・
県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。雲南・ 貴州・ 嶺南の奥は城の数が少なく、群雄の支配がどこまで及んだかは史書からは決めにくいところです。 - 海岸線と大半の川は現代のものです。黄河は1351年の賈魯の治水の後の流路(開封から徐州を経て淮河へ注ぐ南の流れ)で描いています。
- 元・
北元と明はサイトの王朝の色、ほかはこの地図だけの色です。劉福通の紅巾と宋、天完と漢、明玉珍と夏は同じ系統なので同じ色です。
出典とライセンス
- 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)。続資治通鑑・
元史・ 明史・ 新元史 - 海岸線・川・湖: Natural Earth(パブリックドメイン)
- 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)