明清交替の勢力図
1616–1683年・この地図について

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1616年
節目の年: ヌルハチが後金を建てる
この年の動き
地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。地図は2本指か+で拡大でき、拡大すると小さな城も出ます。
この時代の流れ
後金の興起1616–1643年
1616年ヌルハチが後金を建てる明、後金、土默特
勢力と皇帝
- 明 本拠は北京、福州・
廈門・ 襄陽など地図の城195か所。皇帝は万暦帝(朱翊鈞)。 - 後金 本拠は赫図阿拉、地図の城1か所。
- 土默特 地図の城1か所。
- 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 明 本拠は北京、福州・
1619年サルフの戦い明、後金、土默特
勢力と皇帝
- 明 本拠は北京、福州・
廈門・ 襄陽など地図の城192か所。皇帝は万暦帝(朱翊鈞)。 - 後金 赫図阿拉など地図の城4か所。
- 土默特 地図の城1か所。
- 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 明 本拠は北京、福州・
1621年後金が遼陽・瀋陽を取る 明、後金、奢崇明、土默特
勢力と皇帝
- 明 本拠は北京、福州・
廈門・ 襄陽など地図の城183か所。皇帝は天啓帝(朱由校)。 - 後金 本拠は遼陽、赫図阿拉・
瀋陽など地図の城10か所。 - 奢崇明 重慶など地図の城3か所。
- 土默特 地図の城1か所。
- 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 明 本拠は北京、福州・
1636年国号を清と改める明、清、オランダ、スペイン
入関と南明1644–1660年
1644年李自成が北京に入り、清が入関南明、清、大順、大西、オランダ
勢力と皇帝
- 南明 本拠は南京、福州・
廈門・ 衡州など地図の城113か所。皇帝は弘光帝(朱由崧)。 - 清 本拠は北京、赫図阿拉・
瀋陽・ 遼陽など地図の城50か所。皇帝は順治帝(福臨)。 - 大順 本拠は西安、襄陽・
蘭州・ 漢中など地図の城22か所。皇帝は永昌帝(李自成)。 - 大西 本拠は成都、重慶など地図の城12か所。皇帝は大順帝(張献忠)。
- オランダ 赤嵌など地図の城2か所。
- 1644年に皇帝の位にあった人の一覧
- 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 南明 本拠は南京、福州・
1645年南京が落ちる清、南明、大西、南明・
魯監国、オランダ、孫守法
1646年隆武帝の死・永暦帝の即位 清、南明、沙定洲、オランダ、南明・
魯監国、武大定
1659年永暦帝が緬甸へ逃れる清、鄭氏、オランダ、南明
三藩と台湾1661–1683年
1661年鄭成功が台湾を取る清、鄭氏、南明
勢力と皇帝
- 清 本拠は北京、福州・
襄陽・ 衡州など地図の城192か所。皇帝は康熙帝(玄燁)。 - 鄭氏 本拠は赤嵌、廈門など地図の城4か所。
- 南明 地図の城2か所。
- 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 清 本拠は北京、福州・

1681年三藩の乱が終わる清、鄭氏
勢力と皇帝
- 清 本拠は北京、福州・
廈門・ 襄陽など地図の城195か所。皇帝は康熙帝(玄燁)。 - 鄭氏 本拠は赤嵌、地図の城3か所。
- 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
- 清 本拠は北京、福州・

明・南明・清・中華帝国の皇帝と王朝
王朝を押すと、その王朝の歴代皇帝が肖像つきで並びます。
この地図について
ヌルハチが後金を建てた1616年(明の万暦四十四年)から、台湾の鄭氏が清に降った1683年(清の康熙二十二年)まで、その年の暮れにどの城を誰が押さえていたかを史書から拾い、そこから勢力の範囲を描いた地図です。年を動かすと境界が動きます。城の点を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。
描いたのは、明(1644年からは南明)と後金(1636年からは清)に加えて、城を持った勢力すべてです。李自成の大順・
南明は、弘光帝(南京)・
色の濃い帯が勢力どうしの境です。色がかすれて消えていく所は、城の支配が届いていたと言えない土地(草原・
国名の下には、その年の暮れに在位していた皇帝の名前を出しています。ヌルハチ(後金の太祖)・
年は中国の暦の年です。十二月の出来事はその年に入り、今の暦では翌年の1月〜2月にあたることがあります(紹武帝が死んだ隆武二年十二月は、今の暦の1647年1月です)。
この地図の作り方
史書から、主な城199か所について「その年の暮れに誰が城を押さえていたか」を年ごとに拾い、持ち主が変わった年ごとに根拠の原文を付けました。資治通鑑はこの時代を扱わないので、根拠は明史・
明の官が城ごと李自成・
境界は、その城の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい城の勢力に塗り分けました。どの城からも遠い土地(草原・砂漠・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。
同じ勢力の城どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの勢力の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました。また、四方を勢力の土地と海に囲まれた空白と、秦嶺より南の山地で勢力の土地に深く入り込んだ空白は、最も近い勢力の色で塗りました。史書が誰の城でもないとした城のまわりは空白のままです。まわりをほかの勢力の土地に囲まれた城(飛び地)は、その城を中心にした半径約36kmの丸で描きました。
当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。
確かでないところ
- 1646年の暮れの貴州・
雲南と福寧は、隆武帝の朝廷に従ったままとしました。隆武帝はこの年の八月に死にましたが、雲南には永暦帝の詔が届かなかったと小腆紀伝にあります。貴州と福寧は確かめられていません。 - 広寧は1622年に後金が落として引き揚げた後、1634年まで誰の城でもないとし、1635年から後金の城にしました。1635年とした根拠は弱いところです。
- 四川は1646年からの荒廃で持ち主を書いた記事が少なく、成都の1646〜1651年、順慶の1646〜1647年、達州の1646〜1657年は誰の城とも言えないとしました。達州のあたり(今の四川の東北部)は、明史が「揺黄」と呼ぶ土寇の諸家が入り乱れた土地で、地図では空白になっています。長江沿いの万県・
忠州は、南明の譚文・ 李占春・ 于大海らが拠った城として足しました(公開後の2026年10月)。 - 三藩の乱のときの広西(梧州の1675〜1676年・
太平府)と高州の1678年は、清を離れた年・ 清が取り返した年を書いた記事が見つからず、決めきれていません。 - 引用の無い推定の変化が5件あります(澎湖1646年・
鶏籠1626年と1642年・ 宝慶1650年・ 慶遠1674年)。台湾北部の鶏籠のスペイン(1626〜1642年)は、使った史書に記事がありません。城の点を押すと「推定」と出ます。 - 城の点は今の市・
県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。貴州・ 雲南・ 広西の奥と長城の外は城の数が少なく、どの勢力の支配がどこまで及んだかは史書からは決めにくいところです。 - 海岸線と大半の川は現代のものです。黄河は明清の流路(開封の北から徐州を経て清口で淮河と合わさり、雲梯関で海に注ぐ南の流れ)で描いています。
- 明と南明、後金と清はそれぞれ同じ色です。明と清はサイトの王朝の色、ほかはこの地図だけの色です。
出典とライセンス
- 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)。明史・
清史稿・ 小腆紀年・ 小腆紀伝・ 明季南略 - 海岸線・川・湖: Natural Earth(パブリックドメイン)
- 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)