明清交替の勢力図
1616〜1683年・この地図について
地図を読み込んでいます…
1616年
この年の動き
地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。
明・清の皇帝と王朝
明の時代に皇帝を名乗ったのは22人、清の時代に皇帝を名乗ったのは14人です。王朝を押すと、その王朝の歴代皇帝が肖像つきで並びます。
この地図について
ヌルハチが後金を建てた1616年(明の万暦四十四年)から、台湾の鄭氏が清に降った1683年(清の康熙二十二年)まで、その年の暮れにどの城を誰が押さえていたかを史書から拾い、そこから勢力の範囲を描いた地図です。年を動かすと境界が動きます。城の点を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。
描いたのは、明(1644年からは南明)と後金(1636年からは清)に加えて、城を持った勢力すべてです。李自成の大順・
南明は、弘光帝(南京)・
色の濃い帯が勢力どうしの境です。色がかすれて消えていく所は、城の支配が届いていたと言えない土地(草原・
国名の下には、その年の暮れに在位していた皇帝の名前を出しています。ヌルハチ(後金の太祖)・
年は中国の暦の年です。十二月の出来事はその年に入り、今の暦では翌年の1月〜2月にあたることがあります(紹武帝が死んだ隆武二年十二月は、今の暦の1647年1月です)。
この地図の作り方
史書から、主な城197か所について「その年の暮れに誰が城を押さえていたか」を年ごとに拾い、持ち主が変わった年ごとに根拠の原文を付けました。資治通鑑はこの時代を扱わないので、根拠は明史・
明の官が城ごと李自成・
境界は、その城の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい城の勢力に塗り分けました。どの城からも遠い土地(草原・砂漠・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。
同じ勢力の城どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの勢力の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました。また、四方を勢力の土地と海に囲まれた空白と、秦嶺より南の山地で勢力の土地に深く入り込んだ空白は、最も近い勢力の色で塗りました。史書が誰の城でもないとした城のまわりは空白のままです。まわりをほかの勢力の土地に囲まれた城(飛び地)は、その城を中心にした半径約36kmの丸で描きました。
当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。
確かでないところ
- 1646年の暮れの貴州・
雲南と福寧は、隆武帝の朝廷に従ったままとしました。隆武帝はこの年の八月に死にましたが、雲南には永暦帝の詔が届かなかったと小腆紀伝にあります。貴州と福寧は確かめられていません。 - 広寧は1622年に後金が落として引き揚げた後、1634年まで誰の城でもないとし、1635年から後金の城にしました。1635年とした根拠は弱いところです。
- 四川は1646年からの荒廃で持ち主を書いた記事が少なく、成都の1646〜1651年、達州・
順慶の1646〜1647年は誰の城とも言えないとしました。 - 三藩の乱のときの広西(梧州の1675〜1676年・
太平府)と高州の1678年は、清を離れた年・ 清が取り返した年を書いた記事が見つからず、決めきれていません。 - 引用の無い推定の変化が5件あります(澎湖1646年・
鶏籠1626年と1642年・ 宝慶1650年・ 慶遠1674年)。台湾北部の鶏籠のスペイン(1626〜1642年)は、使った史書に記事がありません。城の点を押すと「推定」と出ます。 - 城の点は今の市・
県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。貴州・ 雲南・ 広西の奥と長城の外は城の数が少なく、どの勢力の支配がどこまで及んだかは史書からは決めにくいところです。 - 海岸線と大半の川は現代のものです。黄河は明清の流路(開封の北から徐州を経て清口で淮河と合わさり、雲梯関で海に注ぐ南の流れ)で描いています。
- 明と南明、後金と清はそれぞれ同じ色です。明と清はサイトの王朝の色、ほかはこの地図だけの色です。
出典とライセンス
- 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)。明史・
清史稿・ 小腆紀年・ 小腆紀伝・ 明季南略 - 海岸線・川・湖: Natural Earth(パブリックドメイン)
- 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)











