南北朝の勢力図
420〜589年・この地図について
地図を読み込んでいます…
420年
この年の動き
地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。
この地図について
宋の建国(420年)から隋の統一(589年)まで、その年の暮れにどの城をどの王朝が押さえていたかを史書から拾い、そこから勢力の範囲を描いた地図です。年を動かすと境界が動きます。城の点を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。
色の濃い帯が王朝どうしの境です。色がかすれて消えていく所は、城の支配が届いていたと言えない土地(遊牧の地・
この地図の作り方
史書から、主な城115か所について「その年の暮れにどの王朝の刺史・
境界は、その城の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい城の王朝に塗り分けました。どの城からも遠い土地(草原・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。
同じ王朝の城どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの王朝の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました(城と城を結ぶ道はその王朝が通していたとみなしました)。また、四方を王朝の土地と海に囲まれた空白と、秦嶺より南の山地(今の貴州・
当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。
確かでないところ
- 持ち主が変わった年の多くは原文で確かめましたが、原文が見つからず前後の記事から推した変化が13件あります(城の点を押すと「推定」と出ます)。年だけを推した変化もあります(「年は推定」)。
- 城の点は今の市・
県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。比定は胡三省の注によります。 - 六鎮の地・
寧州(今の雲南)・ 交州(今のベトナム北部)など辺境は、実際の支配がどこまで及んだか史書からは決めにくいところです。 - 海岸線と大半の川は現代のものです。黄河の下流(後漢以来の流路)・
淮河の下流(洪沢湖ができる前)・ 泗水・ 洛水だけは、当時の通過地点を結んだ概略線で描き直しました。江蘇北部の海岸は当時より東へ伸びています。 - 後梁(江陵の梁)は、この地図では江陵1城だけで描いています。571年に北周から基・
平・ 鄀の3州(今の湖北省当陽・ 荊門のあたり)を借りたことは資治通鑑にありますが、地図の城の点に入っていないため、後梁の範囲は実際より狭く出ています。 - 北周・
隋はサイトの王朝色では陳と同じ青緑で、隣り合う陳と見分けられないため、この地図だけ北周を青、隋を橙にしました(青は北魏、橙は南斉の色ですが、どちらも時期が重なりません)。北涼・ 北燕・ 西涼・ 西秦は、420〜439年が重なる五胡十六国の勢力図と同じ色にしています(西秦・ 西涼は北魏と同じ青ですが、土地は接していません)。
出典とライセンス
- 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)
- 海岸線・川・湖: Natural Earth(パブリックドメイン)
- 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)
- 照合に使った別の地図データ: Seshat Global History Databank「Cliopatria」(CC BY 4.0)。年代の刻みが粗く、この地図には取り込んでいません。