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五胡十六国の勢力図

300〜439年・この地図について

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300年

再生の速さ

    この年の動き

    地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。

    節目の年の勢力と皇帝

    その年の暮れに、それぞれの勢力が押さえていた城(地図の城の点)と、その年の暮れの皇帝です。城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。

    304年劉淵と李雄が自立
    • 西晋 本拠は長安、晋陽・平陽・上党など地図の城107か所。皇帝は恵帝(司馬衷)。
    • 成漢 本拠は成都、地図の城5か所。
    • 拓跋部 平城・盛楽など地図の城3か所。
    • 漢 本拠は離石、地図の城1か所。
    • 慕容部 地図の城は棘城の1か所。
    • 段部 地図の城1か所。
    • ほかに 鮮卑諸部、仇池
    • 304年の地図を見る
    311年漢が洛陽を落とす
    • 西晋 晋陽・上邽・襄国など地図の城93か所。
    • 漢 本拠は平陽、離石・上党・長安など地図の城7か所。皇帝は昭武帝(劉聡)。
    • 成漢 本拠は成都、地図の城5か所。皇帝は武帝(李雄)。
    • 拓跋部 平城・盛楽など地図の城3か所。
    • 杜弢 地図の城3か所。
    • 漢・石勒 地図の城は鄴・宛の2か所。
    • ほかに 慕容部、段部、鮮卑諸部、漢・曹嶷、仇池
    • 311年の地図を見る
    316年西晋が滅ぶ
    • 西晋 上邽・龍城・滑台など地図の城81か所。
    • 漢・石勒 晋陽・鄴・襄国など地図の城11か所。
    • 漢 本拠は平陽、離石・上党・長安など地図の城8か所。皇帝は昭武帝(劉聡)。
    • 成漢 本拠は成都、南鄭など地図の城7か所。皇帝は武帝(李雄)。
    • 代 平城・盛楽など地図の城3か所。
    • 漢・曹嶷 地図の城は広固・歴城の2か所。
    • ほかに 仇池、西晋・段匹磾、慕容部、段部、鮮卑諸部、西晋・第五猗、杜曾
    • 316年の地図を見る
    • 316年に皇帝の位にあった人の一覧
    329年後趙が前趙を滅ぼす
    • 後趙 本拠は襄国、晋陽・平陽・離石など地図の城53か所。
    • 東晋 本拠は建康、江陵・尋陽・武昌など地図の城42か所。皇帝は成帝(司馬衍)。
    • 成漢 本拠は成都、南鄭など地図の城7か所。皇帝は武帝(李雄)。
    • 前涼 本拠は姑臧、張掖・酒泉・敦煌など地図の城6か所。
    • 代 平城・盛楽など地図の城3か所。
    • 慕容部 龍城・棘城など地図の城3か所。
    • ほかに 仇池、段部
    • 329年の地図を見る
    376年前秦が華北を統一
    • 前秦 本拠は長安、晋陽・平陽・離石など地図の城66か所。
    • 東晋 本拠は建康、江陵・宛・尋陽など地図の城52か所。皇帝は孝武帝(司馬曜)。
    • 前秦・劉庫仁 平城・盛楽など地図の城3か所。
    • 鉄弗部 地図の城は統万の1か所。
    • 376年の地図を見る
    383年淝水の戦い
    • 前秦 本拠は長安、晋陽・平陽・離石など地図の城76か所。
    • 東晋 本拠は建康、江陵・尋陽・武昌など地図の城42か所。皇帝は孝武帝(司馬曜)。
    • 前秦・劉庫仁 平城・盛楽など地図の城3か所。
    • 鉄弗部 地図の城は統万の1か所。
    • 383年の地図を見る
    417年劉裕が後秦を滅ぼす
    • 東晋 本拠は建康、長安・洛陽・滑台など地図の城80か所。皇帝は安帝(司馬徳宗)。
    • 北魏 本拠は平城、晋陽・平陽・離石など地図の城21か所。皇帝は明元帝(拓跋嗣)。
    • 西秦 本拠は枹罕、西平・楽都・苑川など地図の城6か所。
    • 夏 本拠は統万、地図の城5か所。
    • 北燕 本拠は龍城、棘城など地図の城3か所。
    • 北涼 本拠は姑臧、地図の城は張掖を合わせた2か所。
    • ほかに 西涼、仇池、西秦・姚艾、高句麗
    • 417年の地図を見る
    439年北魏が華北を統一
    • 宋 本拠は建康、江陵・広固・成都など地図の城68か所。皇帝は文帝(劉義隆)。
    • 北魏 本拠は平城、晋陽・平陽・離石など地図の城48か所。皇帝は太武帝(拓跋燾)。
    • 吐谷渾 地図の城は枹罕・苑川・金城の3か所。
    • 仇池 仇池など地図の城2か所。
    • 高句麗 地図の城1か所。
    • 禿髪保周 地図の城は張掖の1か所。
    • ほかに 北涼・沮渠無諱
    • 439年の地図を見る

    この地図について

    西晋がまだ中国をまとめていた300年から、北魏が華北を統一する439年まで、その年の暮れにどの城をどの国が押さえていたかを史書から拾い、そこから勢力の範囲を描いた地図です。年を動かすと境界が動きます。城の点を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。南北朝の勢力図とは420〜439年が重なっていて、この20年は2枚とも同じ城・同じ持ち主・同じ描き方なので、同じ年は同じ地図になります。

    色の濃い帯が国どうしの境です。色がかすれて消えていく所は、城の支配が届いていたと言えない土地(遊牧の地・山地など)で、境を引いていません。朱の四角はその年の都です。年のつまみの下の帯は、上の段が華北の主な国(2つの国が並び立った時期は上が東、下が西)、下の段が晋と宋で、押すとその国の最初の年へ移ります。河西・遼西・蜀の国々は帯に出していません。

    国名の下には、その年の暮れに在位していた皇帝の名前を出しています。皇帝を名乗らず「王」や「天王」を称した君主の年(後趙の石虎・前秦の苻堅・後秦の姚興の399年以後・北魏の397年までなど)や、皇帝を名乗らなかった国(前涼の大半・西秦・後涼・南涼・北涼・西涼・北燕・代)は、名前が出ません。年の途中で皇帝が殺されたり位を降りたりして、暮れに皇帝がいなかった年(桓楚の404年など)も出ません。「暮れ」は当時の暦の大晦日で、たとえば桓玄が帝位に即いた元興二年十二月は、今の暦では404年の1月ですが403年の暮れに入ります。

    この地図の作り方

    史書から、主な城126か所(城や鎮が置かれる前の年は出していません)について「その年の暮れにどの国の刺史・太守・守将がいたか」を年ごとに拾い、持ち主が変わった年ごとに根拠の原文を付けました。根拠は資治通鑑を主に、晋書(十六国の記録である載記を含む)・魏書・宋書で裏を取りました(引用は合わせて1,228件。すべて原文の該当行に文字どおりあることと、資治通鑑の引用はその年の見出しの下にあることを機械で照合済み)。包囲や、その年のうちに退いた一時的な占領では持ち主を変えていません。誰の城とも言えない年(荒れ果てた洛陽など)は、どの国の色でも塗っていません。

    境界は、その城の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい城の国に塗り分けました。どの城からも遠い土地(草原・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。

    同じ国の城どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの国の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました。また、四方を国の土地と海に囲まれた空白と、秦嶺より南の山地(今の貴州・湘西など)で国の土地に深く入り込んだ空白は、最も近い国の色で塗りました。まわりをほかの国の土地に囲まれた城(飛び地)は、その城を中心にした半径約36kmの丸で描きました(城と城の中間で塗り分けると、飛び地が実際より広い土地を持っていたように見えるため)。郡県はその内側にも置かれていましたが、地図の城の点が無いため、支配の実態は城の周りより薄いものです。

    当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。

    確かでないところ

    • この時代は城の持ち主を名指す記事が少なく、持ち主が変わった年のうち82件は、その城そのものの記事が無く、周りの城や国全体の記事から推したものです(城の点を押すと「推定」と出ます)。とくに後趙が崩れた349〜352年、前秦が崩れた384〜394年の河南・河北・関中は推定が多くなっています。
    • 前燕の滅亡(370年)で燕の州郡がすべて前秦に降ったこと、桓玄が帝位に即いて晋の内地が桓楚になったこと(403年)と、桓楚が倒れて晋の朝廷が建康に戻ったこと(404年)は、国の交替と同じく、個々の城の記事が無くてもまとめて持ち主を移しました。桓楚は桓玄が晋の帝位を奪って晋の土地をそのまま引き継いだ国(403年十二月〜404年)なので、晋と同じ紫で塗り、国名と境の線で見分けるようにしています。蜀(益州)の毛璩が桓玄に背いたのは404年の初めなので、403年の暮れは蜀も桓楚としています。
    • 城の点は今の市・県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。比定は胡三省の注によります。広固(南燕の都)は今の青州市の西の郊外で、点は青州市に置いています。
    • 拓跋氏の代・北魏の草原の地、河西の西の端(敦煌より西の高昌は地図の外)、寧州(今の雲南)・交州(今のベトナム北部)など辺境は、実際の支配がどこまで及んだか史書からは決めにくいところです。
    • 西秦は430年に本拠の枹罕一帯を捨てて南安(地図に城の点がありません)へ移ったので、滅ぶ431年より1年早く地図から消えます。北涼は439年に姑臧で北魏に降りましたが、残党が敦煌を保ったので、その年の暮れの地図には敦煌だけが北涼として残ります。
    • 海岸線と大半の川は現代のものです。黄河の下流(後漢以来の流路)・淮河の下流(洪沢湖ができる前)・泗水・洛水だけは、当時の通過地点を結んだ概略線で描き直しました。
    • サイトの王朝色に無い国(冉魏・前涼・西秦・後涼・南涼・北涼・西涼・北燕・代)には、この地図だけの色を付けました。南燕はサイトでは北魏と同じ青で、隣り合う北魏と見分けられないため、この地図では桃にしています。色の数が足りないので、同じ時期に離れた所にある国どうしは同じ色のことがあります(国名で見分けてください)。西晋と東晋、漢と前趙は国名が変わっただけなので同じ色です。桓楚も上のとおり晋と同じ色です。

    出典とライセンス

    • 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)
    • 海岸線・川・湖: Natural Earth(パブリックドメイン)
    • 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)
    • 照合に使った別の地図データ: Seshat Global History Databank「Cliopatria」(CC BY 4.0)。年代の刻みが粗く、この地図には取り込んでいません。