孝宗の人物データ
- 生年
- 1127年11月
- 在位
- 1162年7月24日〜1189年2月18日
- 没年
- 1194年6月68歳(数え年)長生き順同率19位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓趙諱眘字元永呼び名の見方
出典
- 在位
- 宋史 本紀三十三 孝宗一(即位)/本紀三十五 孝宗三(内禅)
- 死因
- 宋史 本紀 巻三十五(孝宗三)
- 即位経路
- 宋史 本紀 巻三十五(孝宗三)
生涯
即位まで
太祖の七世の孫で、秀王趙子偁の子として1127年に生まれ、幼名を伯琮といった。高宗に跡継ぎが無く、1132年に太祖の子孫から伯琮が選ばれて宮中で育てられた。ともに選ばれた伯浩は通りかかった猫を蹴り、伯琮は拱手したままで、高宗は伯浩を帰した。ともに育った伯玖と並び称されて、跡継ぎは長く定まらなかった。1160年に皇子に立てられて建王となり、1162年に皇太子となった。同じ年に高宗が退位し、孝宗は辞退を重ねたのちに即位した。即位の日には、退く高宗の輦を雨の中で支えて歩き、上皇に断られて帰らされた。
史料について
猫の話は建炎以来繫年要録にあり、宋史には無い。皇太子に立った時を、宋史の信王璩伝は顕仁太后の没後とする。
治世と最期
即位してまもなく岳飛の元の官を戻し、礼をもって改葬させた。1163年に張浚の議で北伐に出て李顕忠が宿州を取ったが、邵宏淵が援けず、両軍は符離で崩れた。和議派が張浚を責めると、始めたときは卿と共にしたのだから今も共に終えようと書を与えた。その後、皇帝の称を正して金と叔父と甥の国とし、歳幣和平のため毎年相手国に贈る銀や絹を減らす和議がまとまった。
建王の頃からの側近の曾覿と龍大淵を、諫官皇帝の過ちをいさめる役の官の反対を押して重用した。1187年に高宗が没すると、群臣には短い喪を命じ、自らは三年の喪親の死後、三年間喪に服する礼服を着続けた。
1189年に皇太子に位を譲って重華宮に移った。病が重くなると、宰相らや孫の嘉王が見舞うよう請うても子の光宗は行かず、1194年に孝宗は没した。
史料について
本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分の賛は南渡の諸帝の第一とし、符離の敗れのあとは高宗の命をはばかって軽々しく兵を出さず、金も世宗のもとで治まって付け入る隙が無かったとする。危篤の孝宗が光宗に会いたがって何度も左右を見回したという話は、続資治通鑑と宋史紀事本末にあり、宋史には無い。
孝宗とつながる皇帝

勢力図
宋・
1162–1189年の地図に、孝宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱21・皇后2・改元3・大赦14
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1162年7月
- 反乱1162年12月〜1163年3月廣西賊王宣の乱
- 改元1162年12月23日元号を「隆興」とする
- 皇后1164年皇后を立てる
- 反乱1164年容州妖賊李雲の乱
- 改元1165年元号を「乾道」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1165年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1166年
- 反乱1166年湖南盜の乱
- 反乱1166年郴州盜李金の乱
- 反乱1166年淮北紅巾賊(蕭榮)の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1167年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1170年
- 反乱1170年雅州沙平蠻の反乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1171年
- 反乱1171年沅州徭人の蜂起
- 改元1173年元号を「淳熙」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1173年
- 反乱1174年茶寇賴文政の乱
- 反乱1174年青羌奴兒結の乱
- 反乱1174年吐蕃彌羌畜列の侵攻
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1175年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1176年
- 皇后1176年皇后を立てる
- 反乱1176年靖州徭人の反乱
- 反乱1177–1178年黎州蠻の侵攻
- 反乱1178年威州蠻の侵攻
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1179年
- 反乱1179年郴州賊陳峒の乱
- 反乱1179年廣西妖賊李接の乱
- 反乱1181年潮州賊沈師の乱
- 反乱1181年黎州五部落の侵攻
- 反乱1181年黎州戍軍伍進の兵変
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1182年
- 反乱1182年黎州土丁張百祥の乱
- 反乱1184年安化蠻蒙光漸の侵攻
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1185年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1186年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1188年
- 反乱日付不詳敘州賊大波浪の乱
南宋の歴代皇帝
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