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隋末唐初の勢力図

613〜628年・この地図について

地図を読み込んでいます…

613年

再生の速さ

    この年の動き

    地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。

    隋末・隋の皇帝と王朝

    隋末の時代に皇帝を名乗ったのは12人、隋の時代に皇帝を名乗ったのは5人です。王朝を押すと、その王朝の歴代皇帝が肖像つきで並びます。

    この地図について

    楊玄感が兵を挙げた613年(隋の大業九年)から、最後の群雄の梁師都が滅んで唐が天下を統一した628年(貞観二年)まで、その年の暮れにどの城を誰が押さえていたかを史書から拾い、そこから勢力の範囲を描いた地図です。年を動かすと境界が動きます。城の点を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。

    描いたのは、隋と唐(617年は挙兵した唐公李淵)に加えて、城を持った群雄すべてです。李密・王世充の鄭・竇建徳の夏・劉黒闥・劉武周の定楊・梁師都・薛挙の秦・李軌の涼・宇文化及の許・蕭銑の梁・林士弘の楚・朱粲の楚・杜伏威・李子通の呉・輔公祏の宋には色を付けました。羅芸・高開道・徐円朗・沈法興・汪華・馮盎のような小さな勢力は灰色で、名前は地図の上に出しています。突厥・吐谷渾・高句麗などは、名前だけを地図の端に置きました。

    色の濃い帯が勢力どうしの境です。色がかすれて消えていく所は、城の支配が届いていたと言えない土地(遊牧の地・山地など)で、境を引いていません。朱の四角はその年の都です。年のつまみの下の帯は隋から唐への移り変わりで、617〜618年は隋と唐公李淵(唐)が並んだので上下に分けています。押すとその最初の年へ移ります。

    国名の下には、その年の暮れに在位していた皇帝の名前を出しています。617年は、江都の煬帝を隋の下に、唐公李淵が長安で立てた恭帝侑を唐公李淵の下に出しました。618年に東都で立った恭帝侗(皇泰主)は、このサイトでは恭帝侑と並び立った対立皇帝として扱っているので、618年の暮れの隋には名前が出ません。竇建徳(夏王)・李密(魏公)・杜伏威・劉黒闥のように皇帝を名乗らなかった群雄にも名前は出ません。称帝より前の年(蕭銑の617年など)も同じです。

    年は資治通鑑の年の立て方に従っています。十二月の出来事はその年に入り、今の暦では翌年の1月〜2月にあたることがあります(林士弘が皇帝を称した大業十二年十二月は、今の暦の617年1月です)。

    この地図の作り方

    史書から、主な城168か所について「その年の暮れに誰が城を押さえていたか」を年ごとに拾い、持ち主が変わった年ごとに根拠の原文を付けました。根拠は資治通鑑を主に、隋書・旧唐書・新唐書で裏を取りました(引用は合わせて784件。すべて原文の該当行に文字どおりあることと、資治通鑑の引用はその年の見出しの下にあることを機械で照合済み)。調べた後、13の地域ごとに別の点検役が407行を原文に当て直し、誤り17件と抜け5件を直しました。包囲や、その年のうちに退いた一時的な占領では持ち主を変えていません。

    隋の郡守が郡ごと群雄に降ったときは、その郡の城をその群雄の城にしています。唐に帰順して唐の官を受けた所は唐の色にし、帰順しても自分の兵で治め続けた杜伏威(619〜621年)・高開道・郭子和は、唐の色に勢力名を付けて「名目上」としました。杜伏威の名目上の帰属は、622年に長安へ入朝したところで終わりにしています。

    境界は、その城の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい城の勢力に塗り分けました。どの城からも遠い土地(草原・砂漠・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。

    同じ勢力の城どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの勢力の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました。また、四方を勢力の土地と海に囲まれた空白と、秦嶺より南の山地で勢力の土地に深く入り込んだ空白は、最も近い勢力の色で塗りました。ただし、誰の城とも言えない城のまわりは、隣の勢力の手が届く所でも空白のまま残しました。まわりをほかの勢力の土地に囲まれた城(飛び地)は、その城を中心にした半径約36kmの丸で描きました。

    当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。

    確かでないところ

    • 619年に東都の隋(皇泰主)が王世充に帝位を奪われた後、江淮・江南の7城(高密・盱眙・鍾離・廬江・宣城・永嘉・建安)は、唐や群雄の城になったことを名指す記事が無いので、誰の城でもない(空白)にしています。
    • 巴蜀が唐に入った年は、資治通鑑の617年十二月の条(詹俊・李孝恭を遣わして下した)に従いましたが、実際の帰順は618年の初めだったとも読めます。
    • 林士弘の江西(九江・鄱陽・宜春)が唐に入ったのを621年としたのは旧唐書の地理志によるもので、林士弘が降った622年まで保っていた可能性があります。同じように、両唐書の地理志の「武徳○年に州を置く」だけが根拠の城(弘化・嵐州・襄城・汝南・鍾離・廬江・建安)は、年が1年ずれていることがあります。
    • 劉黒闥が再び挙兵した621年と622年の暮れに、滄州・黎陽・汲郡・魏県がどちらの手にあったかは、日付の無い記事から推しています。枹罕(河州)の617〜618年が薛挙か李軌か、東海の619年が臧君相か唐に降った蒋弘度か、広州の620年が馮盎か鄧文進か、営州(柳城)が唐に戻った年も決めきれていません。
    • 城の点は今の市・県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。嶺南・江南の奥は城の数が少なく、群雄の支配がどこまで及んだかは史書からは決めにくいところです。
    • 海岸線と大半の川は現代のものです。黄河は後漢の治水の後の流路で描いています。
    • 隋と唐はサイトの王朝の色、ほかはこの地図だけの色です。色の数が足りないので、年が重ならない勢力や離れた勢力どうしは同じ色のことがあります(鄭と李軌の青、梁師都・宇文化及・林士弘の桃、薛挙・朱粲・杜伏威・輔公祏の橙、劉武周と蕭銑の紫、李密と李子通の赤。名前で見分けてください)。唐公李淵と唐、竇建徳と劉黒闥、杜伏威と輔公祏は同じ系統なので同じ色です。

    出典とライセンス

    • 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)。資治通鑑(胡三省注を含む)・隋書・旧唐書・新唐書
    • 海岸線・川・湖: Natural Earth(パブリックドメイン)
    • 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)