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唐の勢力図

754〜906年・この地図について

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754年

この年の動き

地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。地図は2本指か+で拡大でき、拡大すると小さな城も出ます。

節目の年の勢力と皇帝

その年の暮れに、それぞれの勢力が押さえていた城(地図の城の点)と、その年の暮れの皇帝です。城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。

755年安禄山の挙兵
  • 唐 本拠は京兆府、鳳翔府・興元府・成都府など地図の城213か所。皇帝は玄宗(李隆基)。
  • 燕 本拠は河南府、汴州・幽州・雲州など地図の城20か所。
  • 南詔 本拠は太和城・羊苴咩城、地図の城3か所。
  • 海南の山獠 地図の城1か所。
  • 755年の地図を見る
756年長安が落ち玄宗が蜀へ
  • 唐 本拠は寧州、鳳翔府・興元府・成都府など地図の城187か所。皇帝は粛宗(李亨)。
  • 燕 本拠は河南府、京兆府・鎮州・定州など地図の城44か所。皇帝は安禄山。
  • 南詔 本拠は太和城・羊苴咩城、地図の城4か所。
  • 梁崇牽 地図の城1か所。
  • 海南の山獠 地図の城1か所。
  • 756年の地図を見る
757年長安・洛陽を取り戻す
  • 唐 本拠は京兆府、鳳翔府・興元府・河南府など地図の城218か所。皇帝は粛宗(李亨)。
  • 燕 本拠は相州、魏州・青州など地図の城7か所。皇帝は安慶緒。
  • 唐・范陽 幽州など地図の城6か所。
  • 南詔 本拠は太和城・羊苴咩城、地図の城4か所。
  • 梁崇牽 地図の城1か所。
  • 海南の山獠 地図の城1か所。
  • 757年の地図を見る
763年安史の乱の終わり
  • 唐 本拠は京兆府、鳳翔府・興元府・河南府など地図の城188か所。皇帝は代宗(李豫)。
  • 吐蕃 地図の城14か所。
  • 唐・盧龍 幽州など地図の城8か所。
  • 唐・成徳 鎮州・定州など地図の城6か所。
  • 唐・魏博 魏州など地図の城6か所。
  • 唐・山南東道 襄州など地図の城5か所。
  • ほかに 唐・相衛、南詔、梁崇牽、海南の山獠
  • 763年の地図を見る
783年涇原の兵変・朱泚が帝を称す
  • 唐 本拠は奉天、鳳翔府・興元府・河南府など地図の城174か所。皇帝は徳宗(李适)。
  • 吐蕃 涼州など地図の城19か所。
  • 淄青 青州など地図の城12か所。
  • 盧龍 幽州など地図の城9か所。
  • 淮西 汴州など地図の城8か所。
  • 魏博 魏州など地図の城4か所。
  • ほかに 南詔、恒冀、幽州、秦(朱泚)、海南の山獠
  • 783年の地図を見る
817年淮西の平定
  • 唐 本拠は京兆府、鳳翔府・興元府・河南府など地図の城181か所。皇帝は憲宗(李純)。
  • 吐蕃 涼州・沙州・北庭都護府など地図の城21か所。
  • 唐・淄青 青州など地図の城12か所。
  • 唐・盧龍 幽州など地図の城9か所。
  • 成徳 鎮州など地図の城6か所。
  • 南詔 本拠は太和城・羊苴咩城、地図の城3か所。
  • ほかに 唐・横海
  • 817年の地図を見る
851年張議潮が河西を唐に帰す
  • 唐 本拠は京兆府、鳳翔府・興元府・河南府など地図の城193か所。皇帝は宣宗(李忱)。
  • 唐・帰義軍 沙州・西州など地図の城11か所。
  • 唐・盧龍 幽州など地図の城9か所。
  • 吐蕃 涼州・北庭都護府など地図の城8か所。
  • 唐・魏博 魏州など地図の城5か所。
  • 唐・成徳 鎮州など地図の城4か所。
  • ほかに 南詔
  • 851年の地図を見る
880年黄巣が長安に入る
  • 唐 本拠は興元府、鳳翔府・河南府・成都府など地図の城177か所。皇帝は僖宗(李儇)。
  • 唐・帰義軍 涼州・沙州など地図の城10か所。
  • 唐・盧龍 幽州など地図の城9か所。
  • 唐・魏博 魏州など地図の城5か所。
  • 唐・成徳 鎮州など地図の城4か所。
  • 南詔 本拠は太和城・羊苴咩城、地図の城4か所。
  • ほかに 回鶻、斉(黄巣)、唐・河中、唐・赫連鐸、斉(黄巣)・諸葛爽、唐・周岌、唐・秦宗権、唐・雷満、唐・向瓌、唐・周岳、唐・蔡結、唐・陳彦謙、唐・魯景仁、唐・劉漢宏
  • 880年の地図を見る
895年李克用が王行瑜を討つ
  • 唐 本拠は京兆府、霊州・広州・交州など地図の城52か所。皇帝は昭宗(李曄)。
  • 唐・楊行密 揚州・寿州など地図の城16か所。
  • 唐・李克用 太原府・潞州・雲州など地図の城15か所。
  • 唐・王建 成都府など地図の城12か所。
  • 唐・朱全忠 汴州・徐州など地図の城12か所。
  • 唐・帰義軍 涼州・沙州など地図の城10か所。
  • ほかに 唐・李茂貞、唐・劉仁恭、唐・羅弘信、唐・東川、唐・王潮、唐・王鎔、唐・拓跋思恭、唐・朱瑾、唐・王敬武、南詔、回鶻、唐・河中、唐・馮行襲、唐・義武、唐・盧彦威、唐・張全義、唐・趙犨、唐・趙徳諲、唐・危全諷、唐・成汭、唐・銭鏐、唐・韓建、唐・張鈞、唐・王師範、唐・李思孝、唐・王珙、唐・王敬蕘、唐・王緒、唐・馮敬章、唐・馮弘鐸、唐・鍾伝、唐・盧光稠、唐・趙匡凝、唐・張瓌、唐・杜洪、唐・鄧進思、唐・雷満、唐・向瓌、唐・劉建鋒、唐・周岳、唐・蔡結、唐・陳彦謙、唐・蒋勲、唐・劉士政、唐・魯景仁、唐・劉隠、唐・朱瑄、唐・楊守亮、唐・李師悦、董昌、唐・黄晟、唐・杜雄、唐・朱襃、唐・王壇、唐・陳儒、唐・陳晟、唐・盧約、唐・盧龍
  • 895年の地図を見る
904年朱全忠が洛陽へ遷都させる
  • 唐・朱全忠 京兆府・河南府・潞州など地図の城42か所。
  • 唐 本拠は河南府、霊州・交州など地図の城34か所。皇帝は哀帝(李柷)。
  • 唐・王建 興元府・成都府・夔州など地図の城27か所。
  • 唐・楊行密 揚州・寿州・昇州など地図の城19か所。
  • 唐・李克用 太原府・雲州など地図の城13か所。
  • 唐・馬殷 潭州・桂州など地図の城11か所。
  • ほかに 唐・帰義軍、唐・劉仁恭、李茂貞、唐・銭鏐、唐・羅弘信、唐・王潮、唐・王鎔、唐・拓跋思恭、南詔、回鶻、楊崇本、唐・馮行襲、唐・義武、唐・趙徳諲、唐・鍾伝、唐・危全諷、唐・盧光稠、唐・趙匡凝、唐・劉隠、唐・安仁義、唐・趙匡明、唐・成汭、唐・張瓌、唐・杜洪、唐・雷彦威、唐・向瓌、唐・王敬武、唐・黄晟、唐・張恵、唐・盧約
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唐の皇帝と王朝

この地図の時代に皇帝を名乗ったのは32人です。王朝を押すと、その王朝の歴代皇帝が肖像つきで並びます。

この地図について

安禄山が兵を挙げる前の年の754年(天宝十三載)から、唐の最後の年の906年(天祐三年)まで、その年の暮れにどの州を誰が押さえていたかを史書から拾い、そこから勢力の範囲を描いた地図です。年を動かすと境界が動きます。州の点を押すと、その州の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。

色を付けたのは、唐と、唐の都を取って皇帝を名乗った燕(安禄山・史思明)・秦(朱泚)・楚(李希烈)・斉(黄巣)、それに吐蕃・南詔・回鶻です。契丹・奚・渤海・党項・黠戛斯などは、名前だけを地図の端に置きました。

藩鎮(節度使が治めた地方)は3つに分けています。朝廷の命に従った藩鎮は唐の色のままです。河北の三鎮(成徳・魏博・盧龍)や淄青・淮西のように、節度使を朝廷が任じられず父子・部将で継いだ藩鎮は、唐の色に勢力名を付けて別の面にしました(州の欄には「名目上」と出ます)。朝廷が討伐を命じた年、または節度使が王・皇帝を名乗った年は、唐の外の灰色にしています。唐末に州を奪い合った群雄(朱全忠・李克用・楊行密・王建など)も、唐の官を受けている間は唐の色に勢力名を付けました。

教科書や Web でよく見る「唐の最大版図」は、高宗の660年代ごろに中央アジアからモンゴル高原までを名目上の州(羈縻州)として数えた図です。この地図は安史の乱の前の年(754年)から始まり、名目上の州は描いていないので、西と北の形が違います。この地図では、754年の唐の西の端を安西四鎮(亀茲・于闐・疏勒・焉耆)と北庭に置いています。

地図の右下の歯車を押し、「今の都市を重ねる」を入れると今の省都などの位置が出ます。同じ歯車の「今の地名で探す」に「南京」などと入れると、その場所の州が開きます。州の欄の「Google マップで開く」は、その州の今の位置で Google マップを開きます。

年は資治通鑑の年の立て方に従っています。十二月の出来事はその年に入り、今の暦では翌年の1月〜2月にあたることがあります(黄巣が長安で皇帝を称した広明元年十二月は、今の暦の881年1月です)。

この地図の作り方

史書から、主な州237か所について「その年の暮れに誰が州の城を押さえていたか」を年ごとに拾い、持ち主が変わった年ごとに根拠の原文を付けました。根拠は資治通鑑を主に、旧唐書・新唐書(本紀・地理志・列伝)で裏を取り、唐末は旧五代史・新五代史・十国春秋も使いました(引用は合わせて1,723件。すべて原文の該当行に文字どおりあることと、資治通鑑の引用はその年の見出しの下にあることを機械で照合済み)。包囲や、その年のうちに退いた一時的な占領では持ち主を変えていません(758年に大食・波斯が広州を焼いて去ったこと、879年に黄巣が広州を落として北へ去ったことなど)。

境界は、その州の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい州の勢力に塗り分けました。どの州からも遠い土地(草原・砂漠・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。河西の涼州・甘州・粛州はほかの州と同じ広さに塗り、その西の瓜州・沙州・伊州・西州・北庭は砂漠の中のオアシスの城なので少し狭く塗っています。安西四鎮(亀茲・于闐・疏勒・焉耆)は城と城が数百km離れているので、城のまわりを広めに塗り、タリム盆地の縁が一続きの唐の地に見えるようにしました。

同じ勢力の州どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの勢力の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました。まわりをほかの勢力の土地に囲まれた州(飛び地)は、その州を中心にした半径約36kmの丸で描きました。

当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。

確かでないところ

  • 河西の州が吐蕃に落ちた年は、資治通鑑にも両唐書にも直接の記事がありません。甘州・粛州は河西節度使が沙州へ移った766年、瓜州・伊州は落ちていたことが分かる最も遅い781年、沙州は777〜792年のどこかで786年に置いています。張議潮が沙州を取り戻した848年も手元の史書に年の記事が無く、唐に帰順した851年から帰義軍の州にしました。
  • 安西四鎮は、790年に北庭が吐蕃に落ちたあと唐との連絡が絶え、資治通鑑はこの年に「存亡を知る莫し」と書いています。その後に誰が城を押さえたかは手元の史書に年の記事が無いので、四鎮は790年から「どの勢力の城とも言えない」として色を付けていません(亀茲は、回鶻の可汗が安西にいると記事に出る856年から回鶻にしています)。新唐書の地理志は安西の陥落を787年としますが、資治通鑑は790年にもまだ安西を挙げているので、こちらに従いました。
  • 吐蕃の国は、866年に論恐熱が討たれて「衰え絶え」(資治通鑑)、その後は国としては残っていないので、高原の上の名前は866年から「吐蕃の諸部」にしています。唐が取り戻した記事の無い洮州・会州・松州・階州(階州は889年まで)は、866年から「どの勢力の城とも言えない」として色を付けていません。吐蕃の奴隷だった人々の部落が河西・隴右に散らばっていたことは分かりますが、どの州を誰が押さえたかまでは史書に書かれていないためです。
  • 史書どうしで年が食い違うところは資治通鑑に従いました(涼州の回復を863年、北庭の陥落を790年、董昌の杭州入城を881年とするなど)。新唐書や十国春秋にしか年が無い唐末の群雄の動き(湖南の周岳・雷満・陳彦謙の879年、福建の漳州が王潮に入った893年など)は、1〜2年ずれていることがあります。
  • 唐末(880年代〜906年)は、誰が州を押さえていたか名指す記事の無い州が多く、その州は直前の持ち主のまま残しています(汝州・懐州・袁州・峡州など)。帰義軍の11州も、名目だけの帰順で後に一部が別の勢力に移ったことは分かりますが、どの州がいつ移ったかが分からないので906年まで帰義軍のままです。
  • 藩鎮の色分けは、節度使を朝廷が任じられたか・討伐の命が出たかを、年ごとに記事から決めたものです。崔旰(西川)・劉闢(西川)の「名目上」は成都だけに付け、管下の州へは広げていません。
  • 州の点は今の市・県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。原州は平高(今の固原市)、渭州は襄武(今の隴西県)に置き、のちに移った行原州(鎮原)・行渭州(平涼)は描いていません。南詔の都は779年に太和城から羊苴咩城(今の大理古城)へ移ったので、点は羊苴咩城に置きました。順州(治所は幽州城内)と安東都護府(754年の治所の今の場所が分からない)は点を置いていません。
  • 海岸線と大半の川は現代のものです。
  • 唐はサイトの王朝の色、ほかはこの地図だけの色です。唐の色に勢力名を付けた藩鎮と群雄は、同じ唐の色の別の面として描いています(名前で見分けてください)。

出典とライセンス

  • 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)。資治通鑑(胡三省注を含む)・旧唐書・新唐書・旧五代史・新五代史・十国春秋
  • 海岸線・川・湖・今の都市と省の境: Natural Earth(パブリックドメイン)
  • 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)