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五代十国の勢力図

907〜979年・この地図について

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907年

再生の速さ

    この年の動き

    地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。

    五代十国・宋の皇帝と王朝

    五代十国の時代に皇帝を名乗ったのは34人、宋の時代に皇帝を名乗ったのは18人です。王朝を押すと、その王朝の歴代皇帝が肖像つきで並びます。

    この地図について

    朱全忠が唐を奪って後梁を建てた907年から、宋が北漢を降して中国をまとめる979年まで、その年の暮れにどの州を誰が押さえていたかを史書から拾い、そこから勢力の範囲を描いた地図です。年を動かすと境界が動きます。州の点を押すと、その州の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。

    描いたのは、華北で交替した五代(後梁・後唐・後晋・後漢・後周)と宋、十国(呉・南唐・呉越・閩・楚・南漢・前蜀・後蜀・荊南・北漢)、北の契丹(遼)に加えて、実際に自立していた勢力です。李克用・李存勗の晋(のちの後唐)、李茂貞の岐、劉仁恭・劉守光の燕、夏州の定難軍、閩の王延政が建てた殷、泉州・漳州の清源軍、楚が滅びた後の武平軍、安南(今のベトナム北部)の曲氏・呉氏・丁氏などです。節度使が叛いて城に籠もった件(李守貞・趙思綰など)は勢力に立てず、灰色で名前だけ出しています。

    色の濃い帯が勢力どうしの境です。色がかすれて消えていく所は、州の支配が届いていたと言えない土地(遊牧の地・山地など)で、境を引いていません。朱の四角はその年の都です。年のつまみの下の帯は、上から華北の王朝(五代と宋)・呉と南唐・前蜀と後蜀の3段で、押すとその最初の年へ移ります。

    国名の下には、その年の暮れに在位していた皇帝の名前を出しています。皇帝を名乗らなかった国(晋・岐・呉越・楚・荊南など)と、皇帝を名乗る前の年は名前が出ません。南唐は958年に後周に江北を割いて帝号を去ったので、それより後は名前が出ません。「暮れ」は当時の暦の大晦日で、たとえば後晋の出帝が契丹に降った開運三年十二月は、今の暦では947年の1月ですが、946年の暮れに入ります。

    この地図の作り方

    史書から、主な州216か所について「その年の暮れに誰の節度使・刺史・守将がいたか」を年ごとに拾い、持ち主が変わった年ごとに根拠の原文を付けました。根拠は資治通鑑と続資治通鑑長編(960年から)を主に、旧五代史・新五代史・宋史・遼史・十国春秋で裏を取りました(引用は合わせて1,075件。すべて原文の該当行に文字どおりあることと、資治通鑑・続資治通鑑長編の引用はその年の見出しの下にあることを機械で照合済み)。調べた後、地域ごとに別の点検役が原文に当て直し、誤りを直しました。包囲や、その年のうちに退いた一時的な占領では持ち主を変えていません。

    五代の王朝が交替した年は、交替の前の年の暮れにその王朝の州だった所をまとめて次の王朝の州にしています(その年に城ごとの記事はなくても交替の行を立てています)。

    境界は、その州の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい州の勢力に塗り分けました。どの州からも遠い土地(草原・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。

    同じ勢力の州どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの勢力の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました。また、四方を勢力の土地と海に囲まれた空白と、秦嶺より南の山地で勢力の土地に深く入り込んだ空白は、最も近い勢力の色で塗りました。まわりをほかの勢力の土地に囲まれた州(飛び地)は、その州を中心にした半径約36kmの丸で描きました。

    当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。

    確かでないところ

    • 946年の暮れ(開運三年十二月)に後晋の出帝が契丹に降ったので、946年の地図では後晋の州をまとめて契丹の色にし、契丹に従わなかった河東(劉知遠。翌947年二月に帝を称して後漢を建てる)だけを後漢の色にしています。実際には、契丹の兵が届かなかった州も多く、秦州・階州・成州・鳳州は翌947年に後蜀へ降りました。947年からは州ごとの記事で描いています。
    • 燕雲十六州が契丹に渡った年は、州ごとの引き渡しを書いた記事が少なく、雲州・応州・朔州・新州のほかは、割譲の約束(936年)と契丹が幽州を南京とした記事(937年)から推しています(幽・薊・順・檀・涿・応・朔州は936年、新・媯・武・雲州は937年、瀛・莫・蔚州は938年)。
    • 遠い土地で、実際に治めていたか疑わしいのに名目上だけ従っていた所は、従っていた側の色で塗りました(州の点を押すと「名目上」と出ます)。後梁の霊州(朔方の韓氏)・滄州・徳州、晋と後唐に従っていた定州の王処直・王都などです。河西の涼州・甘州・沙州は、中原の王朝に使いを送りながら土地の勢力(涼州の留後・甘州回鶻・帰義軍)が持っていたので、灰色で描いています。
    • 取り返した年が書かれていない変化は、その勢力の州だったと確かめられる最も早い年に置きました。北漢が宋から嵐州を取り返したのは976年(北漢の嵐州の巡検使が捕らえられた年)、後周から遼州を取り返したのは961年(北漢の遼州刺史が見える年)に置いています。麟州の楊重訓は952年に一度後周に帰順しましたが、957年には北漢の刺史として後周に降っているので、957年までを北漢としました。遼州は964年に宋が取った後も、北漢の遼州刺史が史書に見え、どちらが城を持っていたか決められないので宋のままにしています。
    • 史書の間で年が食い違うところは、資治通鑑の年に従いました。楚の連州・昭州・柳州・象州が南漢に移った年は、資治通鑑では951年、十国春秋の地理表では950年です。後周が南唐の江北の州(光州・滁州・和州など)を取った年は、957年と958年で記事が分かれるものがあります。
    • 安南(今のベトナム北部)は、曲氏・楊廷芸・矯公羨・呉権・丁部領の交替を中国の史書から拾ったもので、呉権の死後の争いのように中国の史書に載っていないことは描いていません。南詔のあとの大理、渤海(926年に契丹に滅ぼされる)は州の点を置いていません。
    • 州の点は今の市・県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。比定は主に胡三省の注によります。点を置いたのは主な州216か所で、衛州・忠州・通州・筠州などは点がありません。
    • 海岸線と大半の川は現代のものです。黄河の下流(後漢から1048年まで続いた流路)・淮河の下流(洪沢湖ができる前)・泗水・洛水だけは、当時の通過地点を結んだ概略線で描き直しました。
    • 後梁・宋・契丹はサイトの王朝の色、ほかの五代と十国はこの地図だけの色です(サイトでは五代はすべて橙です)。色の数が足りないので、年が重ならない国や離れた国どうしは同じ色のことがあります(後唐と南唐の金、後梁と後蜀の橙、呉越・武平軍・契丹の青、楚・清源軍・燕の桃、後晋・南漢・岐の紫、呉と後漢・北漢の赤、前蜀と宋の緑、閩と後周の青緑。名前で見分けてください)。晋と後唐、後漢と北漢、閩と殷は、同じ家なので同じ色です。荊南・定難軍と小さな勢力は灰色です。

    出典とライセンス

    • 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)。資治通鑑・資治通鑑(胡三省注)・続資治通鑑長編・旧五代史・新五代史・宋史・遼史・十国春秋
    • 海岸線・川・湖: Natural Earth(パブリックドメイン)
    • 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)