仁宗の人物データ
- 生年
- 1285年4月9日
- 在位
- 1311年4月7日〜1320年3月1日
- 没年
- 1320年3月1日36歳(数え年)長生き順同率150位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 漢字音写愛育黎抜力八達呼び名の見方
出典
- 在位
- 元史 仁宗本紀一/元史 仁宗本紀三
- 死因
- 元史 巻二十六(仁宗三)
- 即位経路
- 元史 巻二十四(仁宗一)
生涯
即位まで
順宗の次子で武宗の弟であり、母は興聖太后である。1307年、成宗の喪に駆けつける途中、老農が差し出した粥を、艱難をなめなければ農事の苦しさは分からないと言って食べた。同じ年、阿忽台らが成宗の皇后の称制位につかないまま君主として命令を出すことを図ると、哈剌哈孫の知らせを受けて衛士宮中や身分の高い人を守る兵士を率いて入り、阿忽台らを捕らえて誅した。武宗が即位すると皇太子に立てられ、大学衍義を、天下を治めるにはこの一書で足りると言って刊行させた。1311年に武宗が没すると、国を誤った者をすべて誅そうとしたが、楊朵児只に諫められて特にひどい者だけを誅した。即位に先立って鉄木迭児が右丞相左右二人置かれた最高位の大臣のうち右の方に任じられ、同じ年、仁宗は大都の大明殿で即位した。
史料について
鉄木迭児伝は、鉄木迭児の起用を皇太后が召したものとする。
治世と最期
1313年に科挙を行う詔が下り、1315年には進士官吏登用の試験に受かった人の称号の会試官吏登用試験のうち、都で行う段階の試験が行われた。
1316年、鉄木迭児は地位を固めるため英宗の立太子跡継ぎの皇子を正式に皇太子と定めることを図り、太后の幸臣君主や后に気に入られて重用された臣とともに武宗の子の和世㻋を讒し、和世㻋は周王として雲南へ出された。1317年、監察御史役人の不正を調べて皇帝に訴える役人四十余人が鉄木迭児の奸貪を劾すると、仁宗は震怒して逮捕を命じたが、鉄木迭児は興聖宮の近侍の家に隠れて捕まらなかった。仁宗は太后の意から出たことかと恐れて罷免にとどめ、鉄木迭児は1年足らずで太子太師皇太子の教え役の名を持つ、名誉ある高い官に起用された。
1320年、不豫となって光天宮で没した。
史料について
元史の后妃伝は皇太后の淫恣が甚だしくなったと書き、新元史は、仁宗が后の意を傷つけるのを恐れて深く問わなかったと付け加える。発病の日は仁宗紀と英宗紀で異なり、仁宗紀は病名を記さない。新元史の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は元の令主と称えつつ母后に制せられたと批判し、元史紀事本末の引く評は、武宗との約束を守らず英宗に位を伝えたと責める。
仁宗とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱10・皇后1・改元2・大赦3
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1311年4月7日
- 改元1311年10月26日元号を「皇慶」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1313年
- 皇后1313年皇后を立てる
- 反乱1313年諸王春丹の反乱
- 改元1314年元号を「延祐」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1314年
- 反乱1315年蔡五九の乱(贛州・
汀州) - 反乱1316年融州・賓州・柳州徭蛮の反乱
- 反乱1317–1318年脱火赤の乱(諸王脱火赤による反乱)
- 反乱1317年諸王不里牙敦の反乱
- 反乱1318年西番(チベット辺境)の反乱
- 反乱1318年播州南寧長官洛麼の反乱
- 反乱1318年贛州雩都県里胥劉景周の反乱
- 反乱1319年斡端(コータン)の反乱
- 反乱1319年来安路総管岑世興の反乱
元の歴代皇帝
歴代15人の一覧- 第1代チンギス・カン皇帝を名乗っていない1206–1227年
- 第2代オゴデイ皇帝を名乗っていない1229–1241年
- 第3代グユク皇帝を名乗っていない1246–1248年
- 第4代モンケ皇帝を名乗っていない1251–1259年
- 第5代世祖クビライ1260–1294年病死
- 第6代成宗1294–1307年病死
- 第7代武宗1307–1311年病死
- 第8代仁宗1311–1320年病死
- 第9代英宗1320–1323年暗殺
- 第10代泰定帝1323–1328年病死
- 第11代天順帝1328年不詳
- 第12・14代文宗1328–1329年1329–1332年(復位)病死
- 第13代明宗1329年暗殺
- 第15代寧宗1332年病死
- 第16代恵宗1333–1370年病死
年表
元・
元が
