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武宗の肖像画

元第7代()

武宗カイシャン

在位 1307–1311年(3年220日)1307年6月21日 〜 1311年1月27日

日本は鎌倉時代

漠北で海都の軍と戦い、弟の仁宗が皇后派を除いたあとに即位し、惜しみない賜与で財政を傾けて若くして没した元の皇帝である。

武宗の人物データ

生年
1281年8月4日
在位
  • 1307年6月21日〜1311年1月27日
3年220日長い順208位/365人27歳で即位(数え年)
没年
1311年1月27日31歳(数え年)長生き順同率181位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 成宗元武宗は成宗の甥
次代
  • 仁宗元仁宗は武宗の弟
呼び名
漢字音写海山呼び名の見方

出典

在位
元史 本紀二十二 武宗一(即位)/元史 本紀二十三 武宗二(崩御)
死因
元史 巻二十三(武宗二)
即位経路
元史 巻二十二(武宗一)

生涯

即位まで

順宗の子で、1281年に生まれた。1301年に北辺で海都と戦って自ら力戦し、海都は志を得ずに去って、まもなく死んだ。1307年に成宗が没すると、弟の仁宗が、皇后のを謀った阿忽台らを先に誅し、自らの即位を勧める声を退けて兄を迎えた。母の太后が、弟のほうが長く続くという占いを伝えてきたとき、カイシャンはの企みかと疑ったが、康里脱脱が太后と仁宗の言葉を持ち帰ると、疑いを解いた。上都でが会議したのち、成宗の皇后と安西王アナンダらが死を賜り、カイシャンが即位した。

史料について

元史は順宗の長子とし、新元史は第二子とする。

治世と最期

即位した年に同母弟の仁宗を皇太子に立て、その次は自分の長子に伝えるよう命じた。財用のためにを立てれば民の益にならないとが諫めると、もっともだとしつつ、三臣が引き受けたいと言うのでしばらく行わせようと答えた。1308年にはが、諸王への賞賜でが空になり、を前売りしていると述べた。越王の禿剌が酔って不満をぶつけたことなどから異志を疑い、1309年に死を賜った。同じ年、蝗で民が苦しむので工事をやめるよう求められても、皇城に角楼が無ければ壮観にならないと言い、角楼を先に造らせた。尚書省を立て、至大銀鈔を出した。

あるとき、酒色にふけるのは二本の斧で一本の木を伐るようなものだと阿沙不花に諫められると、喜んで酒を勧めたが、辞されて飲むのをやめた。1311年に病んで朝賀を免じ、まもなく玉徳殿で没した。

史料について

酒の諫めは新元史の阿沙不花伝にあり、続資治通鑑は飲むのをやめたとは書かず、近臣が直臣を得たと祝ったのでに任じたとする。新元史のは、書くべき善は一つも無いとしつつ、仁宗に位を伝えたことは孝友に恥じないと評する。

武宗とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱6・皇后1・改元1・大赦2
  1. 1307年6月21日上都で即位。
  2. 改元1308年元号を「至大」とする
  3. 反乱1309年撒的迷失の乱(甘粛・瓜州沙州辺境)
  4. 反乱1309年威遠州谷保の乱(雲南、木羅甸占拠)
  5. 皇后1310年皇后を立てる
  6. 反乱1310年上思州知州黄勝許の反乱(湖広・広西方面)
  7. 反乱1310年乖西帯蛮阿馬の乱(湖広・貴州方面、入寇)
  8. 反乱1310年容米洞田墨の乱(四川行省紹慶路)
  9. 反乱1310年雲南臨安・大理等処部曲の反乱
  10. 1311年1月20日

元の歴代皇帝

歴代15人の一覧
  1. 第1代チンギス・カン皇帝を名乗っていない1206–1227年
  2. 第2代オゴデイ皇帝を名乗っていない1229–1241年
  3. 第3代グユク皇帝を名乗っていない1246–1248年
  4. 第4代モンケ皇帝を名乗っていない1251–1259年

年表

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元が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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