
穆宗は同治帝で、名は載淳。文宗の長子で、母は孝欽顕皇后那拉氏である。
同治帝の人物データ
- 生年
- 1856年4月27日
- 在位
- 1861年11月11日〜1875年1月12日
- 没年
- 1875年1月12日19歳(数え年)長生き順同率237位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓愛新覚羅諱載淳廟号穆宗諡号毅皇帝元号同治呼び名の見方
出典
- 在位
- 清史稿 本紀二十一〜二十二(穆宗本紀一〜二)
- 死因
- 清史稿 穆宗本紀二/万歳爺天花進薬用薬底簿(内務府档案)
- 即位経路
- 清史稿 穆宗本紀一
生涯
どんな皇帝か
1861年に幼くして即位し、両太后の垂簾聴政皇帝の母や皇后が簾の奥から政治を取りしきることのもとで治世を送り、1875年に養心殿で崩じた。
即位まで
穆宗本紀は、病が重くなった文宗が載垣・端華・景寿・粛順ら御前大臣清で皇帝の身辺の警護や雑事を担った重臣と軍機大臣清で、皇帝のそばで国の大事を扱った重臣を召して宣諭し、載淳を皇太子に立てたと記す。のち、勅旨皇帝の命令の言葉を勝手に改め垂簾皇帝の母などが簾の奥から政治を取りしきることに強く反対したとして、載垣・端華・粛順の任が解かれ、爵職が奪われて逮問捕らえて取り調べることされた。恭親王らは三人を大逆律君主や国家に背く大罪を裁く法の定めで凌遅体を少しずつ切り刻んで殺す極刑に擬したが、載垣・端華には自尽自分で命を絶つことが賜られ、粛順は斬に処された。載淳は太和殿で皇帝位に即き、翌年を同治元年とする旨を頒詔して大赦した。年号は先に祺祥と定められ、即位の四日前に同治へ改められていた。その二十日余りのち、皇帝が養心殿に御し、慈安・慈禧の両太后が垂簾聴政を始めた。
治世と最期
本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は、1864年に官軍が江寧を落とし、洪秀全が先に自尽して江南が平らいだと記す。1873年、慈安・慈禧の両太后が勉励の懿旨を下し、皇帝が親政君主が自分で政治を執ることした。同じ年に雲南で杜文秀が伏誅罪によって死刑にされることした報も載る。1874年、円明園の工事停止が命じられ、翌日に恭親王が召対皇帝に呼ばれて直接問答することの失儀を責められて郡王王の位の一つで、ふつうの王より一段低いものに降されたが、その翌日には懿旨で親王皇帝の一族に与えられる王の位、またその位の人の世襲に戻された。
同じ年の冬、皇帝は不予となり、李鴻藻に章奏臣下が皇帝に差し出す意見書や報告書を代わって閲させた。皇帝は疾が大漸となって養心殿で崩じた。本紀は病名を記さない。皇帝に子が無く、両太后が惇親王奕誴・恭親王奕訢・醇親王奕譞らを召し、醇親王の子を文宗の嗣として嗣皇帝位を継いで新たに立つ皇帝に立てた。崩の日は、穆宗本紀が甲戌条の次に日付を付けずに置き、徳宗本紀は癸酉の条に置く。
同治帝とつながる皇帝

勢力図
清の勢力図で見る
1861–1874年の地図に、同治帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱9・皇后1・改元1・大赦1
- 改元1861年11月11日元号を「同治」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1861年11月11日上御太和殿即皇帝位,受朝。
- 反乱1862–1865年台湾戴潮春の乱
- 反乱1862–1873年陝甘回変
- 反乱1863年苗沛霖の乱
- 反乱1864年新疆回変(庫車・
烏魯木斉・ 伊犁・ 喀什噶爾等の蜂起、後にヤクブ・ ベクのゼッド・ シャール国建国) - 皇后1872年冊立皇后阿魯特氏。
- 反乱日付不詳太平天国(南京政権本隊及び李世賢・
汪海洋等残部) - 反乱日付不詳石達開(太平天国分派・
独立転戦) - 反乱日付不詳捻軍(東捻・西捻)
- 反乱日付不詳雲南回変(杜文秀政権)
- 反乱日付不詳貴州苗変(咸同貴州各族人民大起義)
清の歴代皇帝
歴代12人の一覧年表
清・
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